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カテゴリー ダメダメ家庭は立派な言葉が好き
配信日 03年9月23 日(サンプル配信) (10年2月12日,11年2月4日 改訂)
タイトル 友人をたくさんつくりなさい!
 ダメダメ家庭を作る人間は、自己逃避であり、自分で考えることから逃避している。
だからこそ、とおりがいい、ありきたりで、規格品的な言葉を持ち出すことになる。
その言葉が「良識あふれる」とされる言葉だからこそ、説明不要となり、考えることから逃避できてしまう。それに加えて、良識あふれるとされる言葉を言っておけば、周囲から絶賛されたりするでしょ?
そんなダメダメな親が好きな言葉として、今回の文章では、「友人をたくさん作っておけよ!」という言葉を取り上げ、考えてみましょう。
上記の言葉は、まさに良識あふれる言葉でしょ?
言葉の上では、子供のことを考えた親の言葉といえるでしょ?
だから、その言葉を、ダメダメ家庭を作る親の物言いの一例として取り上げると、怪訝に思われる方が多いでしょう。

「何故に?」
「だって、友人をたくさん持っているのはいいことでしょ?」
「それを子供に語ることは、まさにすばらしいことなのでは?」
って、皆さんは思われるでしょ?

勿論のこと、その言葉自体が間違っているわけではありません。友人は多種多彩に多い方が楽しいでしょう。
しかし、友人と言うものは、そのように力瘤を入れて「作る」ものではありませんね?
様々な人との交流の中から、気軽に話せる人間が自然と選別されていくものでしょ?

社会人の中には「人脈の重要性」ということを意識するあまり、やたら気合を入れて人脈作成に邁進されている方がいらっしゃいますが、そのような人から人脈と名指しされた人は、「オレはあの人を知っていることは知っているけど、友人とは思っていないなぁ・・・」と回答することが通例です。
そして、「またかぁ・・・」「あの人にも困ったものだなぁ・・・」と、首をすくめて遠い目をすることになる。
そんなシーンが、「オレは多彩な人脈を有している!」と自称している人間の周囲では、よく展開されるものです。

日本ではバブルの頃に、人脈育成パーティなどというものが随分開催されたようですが、今はサッパリですものね。
「人脈を作るぞ!」と気合十分の人間たちが集まって熱気ムンムンで話し合い・・・なんて、はっきり言って怖いよ。人との付き合いなんて、「アイツと話してみると面白いよ!」「困った時には、あの人は頼りになるよ。」と人から紹介されて、広がっていくのが通常のスタイルでしょ?
まずは、人から信頼されるようにしたり、フランクなやり取りを積み重ねることが必要なのでは?

一般的に、成人同士のやり取りでは、多少の誤解があっても自由に話ことができます。
「どうもフィーリング的に合わないなぁ・・・」と思うような人とはもう合わなくてもいい。
「自分とは合わない。」と思ったメールマガジンだって、解除するだけですよね?
その関係が成人同士や同格の子供同士だったら、お互いの自由意志で対処することができる。しかし、これが大人と子供という関係だったら、立場が違うんだから、その対応も自由意志というわけにはいかない。ましてや親子の関係だったら、子供は親には逆らえない。親から「友人を沢山作っておけよ!」とのもっともらしいアドヴァイスを受けてしまうと、子供の側は対応する義務が発生してしまう。

子供が友人を作ることができるようにするには、「多くの友人を作りましょう!」というスローガンを掲げ、子供を教育するよりも、子供に多くの出会いの場を設定してあげることの方が効果があるでしょ?出会いの場が少ない状態だったら、子供としても、どうやって友人を作っていくの?少ない出会いの中で「友人を作れ!」という親からのプレッシャーを受けた子供は、手短にいる子供と「友人のフリ」をするようになってしまう。そして、「ボクも沢山友達がいるよ!」と親に見せることになる。一種の成果報告をするわけです。別の言い方をすると、「ボクはアナタから要求されたノルマを達成したよ!」と上司に報告するようなもの。

そもそも、このダメダメ家庭にいる子供としては、一般の子供とは考え方の枠組みが違っている。家庭内の常識と、ダメダメ家庭の外での常識が違ってしまっている、いわばダブルスタンダード状態になっている。しかし、家庭内での常識をそのまま語ってしまうと友人ができないし、維持もできない。だから、自分自身を偽って、「友人ごっこ」をすることで自分自身や親をごまかすことになる。

親からの命令を受けたダメダメ家庭の子供は、たくさんの友人という「形」を整えるために、必死でその場の空気を読んで、「人に合わせる」ことになる。必死で人に合わせているので、「自分自身がどうしたいのか?」、あるいは「やり取りにおいて何を分かってほしいのか?」とてもじゃないけど、考えていられない。
必死で人に合わせているので、やり取りする人によって、自分の言うことが矛盾してしまったりして、周囲の人間から「おい!いい加減なことを言うなよ!」と怒られたりする。
そうなると、ますます周囲に気を使って、必死で人に合わせることになる。
そうして、ますます、自分がどうしたいのかについて考えることがなくなってしまい、ますます、やり取りの相手にしてみれば、「いい加減なヤツ」とみなされてしまう。

関係性の維持そのものが目的であり、共通の話題とか目的とか楽しみがない「友人関係」なので、話題としては、結局は「敵」の話題だけになってしまう。共通の敵での結びつきにすがってしまうわけです。
それこそ、誰かの悪口で盛り上がったり、ヘタをすれば一緒になって誰かをイジメたりするようになる。
本来なら、そんなことをしても当人自身は何も得にならないし、本当は自分でも楽しいわけではない。しかし、親からの「友人を作っておけ!」という命令に応えるにはそんな方法しかない。
ダメダメ家庭の子供にとっては、「友人関係」を維持するために、精神的疲労が積み重なっていくばかり。この疲労感が臨界点を超えてしまい、爆発した事例も多いでしょ?

しかし、共通の敵による「友人関係」成立という成功体験ができたわけですし、それ以外の結び付きができないので、それ以降も、誰かを攻撃することで、人間関係を築こうとする。だからボランティアや市民運動の活動家になったりする。
しかし、何かを攻撃しても、自分としては何も向上しないし、何も達成できないのは、当然のこと。しかし、当人としては、「友人をたくさん作れ!」という親からの命令を必死に果たそうとする。
そして、そんな友人関係を自慢することになる。

それこそ以前に、社民党(当時)の辻元議員が、当時の首相の小泉さんに対して「小泉さんは友達がいない!」と揶揄していましたが、じゃあ、その辻元さんの「友達」って、どんな人なの?一緒になって、何かを攻撃しているだけのクレーマー仲間でしょ?その人は、そんなに自慢できる友達なの?結局は、そんな友人関係によって、何が達成できて、自身としては、何が楽しいの?クレーマー仲間にすぎないから、いざとなったら、「ハイ!サヨナラ!」とすることもできるんでしょ?そんな友人関係なんて自慢できませんよ。

しかし、子供時代に「多くの友人を作るべきだ!」と親から要求された体験を後々まで引きずってしまい、外部の敵については共通の認識があっても、お互いの間で相互理解のない、「形だけの友人関係」の維持に腐心してしまう。
そんな人たちが集まると、まさにインターネットの掲示板のような様相になってしまう。

あのような場は、「友人がいないわけではない。」という二重否定的な結び付きでしょ?
いわば、「友人がいない。」ことを減点ととらえ、いわば強迫的に群れているだけ。
群れるために、必死に場の空気を読んで、己を殺している。
だから、その結び付きには相互理解が何もない。
連帯は相互理解に基づくものといえますが、群れることは、単に己を殺せばいいだけ。
そして、己を殺すことはダメダメ家庭の人間にしてみれば、手慣れたものといえる。

そもそも、ダメダメ家庭を作る親自身に友人と呼べるような人はいない。
そんな家庭の子供は、親から友人付き合いの雛形を見ていない。
付き合いのマナーとかの問題ではなく、お互いの気の許し具合は、親から見て習得する面もあるでしょ?
それに、子供同士の友人付き合いにおいて、順調に行けばともかく、ちょっとでもトラブルになってしまうと、親は子供に怒り出す。
「面倒なことを親に持ち込むな!」
「オマエは、とにもかくにも、上手に人に合わせておけばいいんだよ!」
ということで、楽しい友人付き合いどころか、友人とのやり取りは気を使うことになってしまう。そもそも、子供が親に対してそんなに気を使っている段階で、友人に対しても相当の気を使わざるをえないことは誰でも分ること。

ダメダメ家庭の親は、友人との交流を通じて、自分の子供の人生が豊かになることを願っているから、子供に対して「友人を作っておけ!」と言っているのではないんですね。自分の子供が友人がいない人間であるという親としての減点に視点が行っているだけ。
自分の子育てが周囲から責められるかもしれないという恐怖心から、子供に命令しているだけ。
だから、子供の気持ちなどはどうでもいい。
結果的に、ダメダメな親からの「友人を沢山作れ!」という言葉で、ダメダメ家庭のダメダメ振りがますます進行していくわけです。
R.11/2/4