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カテゴリー ダメダメ家庭の親のキャラクター
配信日 03年10月31日 (10年7月25日に記述を追加)
タイトル 理想にあふれる熱血漢
以前、「アドヴァイスしたがる人」ということについての文章を配信いたしました。
その文章において、政治運動にかかわる危険について言及しております。
政治運動を一概に悪いとは申し上げませんが、もっとも身近で基本的な家族のことを常に考えて、運動を進める必要があるでしょ?

だって、国民の幸せを考えるのだったら、まずは身近な国民である家族がどう思っているのか?ということは重要でしょ?
一番よく観察できるわけだし・・・
それに、自分に対する反対意見も言ってくれるわけだし・・・
そんな身近な人の意見も聞いていけば、その運動だって、広がりなり落ち着きを持たせることができるでしょ?

ただ、いわゆる政治運動でも、あるいは、それが過激になってしまった革命運動でも、「理想に溢れた熱血漢」といったタイプが存在しますよね?どっちかと言うと、「人の話を聞かないで、自分の理想を掲げ、突っ走ってしまうタイプ」です。
往々にして、上流階級出身の方です。たまたま、貧しい人の暮らしを見て「可哀想だなぁ・・」と思ってその手の運動に走ったりするわけです。
上からの視点からの哀れみから出発しているんですね。

しかし、このような熱血漢はダメダメ家庭を作りやすい。
その手の人は、情熱を持っているのはいいとして、周囲の意見なり意向に配慮しない。
妥協なく自らの理想推進に突進することになる。
だから、その運動自体も壊すことが多くあります。

その手の人に共通する言い方は、「この世から貧しい人をなくしたい。」とか「この世から不幸な人をなくしたい。」とか「この世から不正をなくしたい。」とか「この世から、家族問題に苦しむ子供をなくしたい。」とか、あるいは「世界からドメスティック・ヴァオレンスを根絶したい。」というものです。

よく聞くでしょ?その手の文言。
「なくしたい。」であって「減らしたい。」では断じてないんですね。目標が絶対的で、ある意味抽象的。そして手段や方法について殆ど考えないわけです。

ただ、「なくしたい」という主張はかっこいい。「減らしたい」という主張はかっこ悪いわけ。そして、そのような主張の間で議論になったら、「なくしたい」という主張が絶対に勝ちますよね?
「減らすだけでいいのいか?困っている人を見捨ててしまってもいいのか?!」
そんな正論に対しては、現実的には反論はできないでしょう。

では、実際問題として、「なくす」ためにどうするの?
そのような熱血漢さんは往々にして、「なくす」ためには、この「問題」の発生させた根源の「大悪党」を倒せばいいとしか考えてないんですね。しかし、その「大悪党」とは何なのか?あるいは何故このような「大悪党」が発生し、力を持つにいたったのか?あるいは、現実として、どうしてこんな状況になっているのか、全く考えてないわけ。

そして、その熱血漢さんは「大悪党」との戦いを始めるんですが、まず最初に、その大悪党によって傷つき弱っている人間に呼びかけるわけです。まあ、これは当然といえば当然ですね。そして、その傷ついたものも最初はその主張に同調し、戦いに賛同いたします。
しかし、傷ついたものがいつまでも戦えるわけはないんです。そもそも「心優しくて傷ついた」わけですので・・・

すると熱血漢さんはこういいます。「将来、困った人をなくすために、アナタたちが戦わなきゃどうするの?この根性なし!」「私たちはアンタたちのために戦ってアゲているのよ!」

しかし、大体において熱血漢さんはその傷ついた人の苦しみを本当はわかってはいないんです。何せ「人の話を聞く」ことをしない人ですから・・・
ただ、上からの視点で、「可哀想だなぁ・・・」と憐れんで始めただけなんですから。
いわば、自分の同情を「恵んでアゲル!」と言った雰囲気。視点が常に上からのものなんですね。

「恋に恋する」みたいに「正義や自分の善意に恋している。」だけなんですね。こうなってしまうと、最初の同志だった、傷ついた者たちは熱血漢さんから離れて行きます。離れて行ってしまった人からは、「結局は、アイツは、本当はオレたちのことは、何にもわかっちゃいない!」って言われちゃうんです。

そうなると熱血漢さんはますます孤立し、ますます妥協を廃し、絶対的な目標に邁進する様になります。つまり、人ではなく、大義だけが頼りになってしまうわけ。だからこそ、妥協するわけには行かない。人の感情にますます配慮しなくなり、ますます自分の感情が暴走し、テロとかの方法で相手を攻撃することしかしなくなります。味方からも離反され、敵からも嫌がられるようになるわけです。
味方だけでなく、敵との妥協もできなくなるわけ。

この手の熱血漢さんのそもそもの「改革」への基本的な心理は、「今の世の中が気に入らない。」であって、「この世のよくないところを、一つづつ直していこう。」とか「今より住みやすくしよう。」ではないんです。そもそもの目的が現状否定であって、現状を肯定した上での改善ではないわけ。だからこそ、現実社会に住んでいる人間は、結局は敵認定されてしまう。現実否定のアクションと、現実を改善するアクションは、一時的に一致していたところがあっただけで、本質的には別のもの。

そうやって、最初の精神的同志や、実際にグループを組んでいた同志からも離反されると、熱血漢さんが必ず言うセリフがあります。
「あの人たちは変わってしまった。」
「ワタシはあの人たちに、裏切られたわ!」

そうなってしまうと、今度はかつての同志の攻撃を始めることになってしまうわけです。
ということで最後には、むしろ「改革」のジャマになってしまい、かつて同じグループだった同志によって粛清されてしまう。まあ、この手の話は、ちょっとでも歴史を振り返ると、いたるところにあったりするでしょ?

革命運動では必ずこの手の熱血漢が出てきます。
そして、かつての同志から粛清される時には、「革命バンザイ!」などと叫んで銃殺されるわけです。
本人は革命に殉じた戦士のつもりなんですね。

政治運動において生じる、このようなエピソードは、ある意味において、面白いもの。
当事者でなかったらね。

しかし、家族にこのような熱血漢がいるとたまりませんよね?
家族にしてみれば、当事者なんですから・・・

ちなみに、ここまでお読みになられた方は、現在日本で有名な、とある女性政治家を思い出したと思います。

私は別にその人を非難するつもりはありませんよ。
ただ、数多くの歴史をみればわかるように、そもそも「困っている人の助けになりたい。」という原点を忘れてしまって、敵を攻撃することのみに暴走している政治運動家の成れの果ては厳しいものです。
というか、「困っている人を助けたい」という心情は、もっとも基本的な原点といえる自分自身からの逃避であるケースが多いわけ。だから、本質的には原点にはなりえないわけです。その無理があるがゆえに、まさに過剰に攻撃的になってしまう。

たとえ、その攻撃が、離れた場所から見るとスカっと見えたとしても、それは敵を叩くことには役にたっても、味方を作ることには役にたたないことが多くありますからね。
その女性政治家さんについては、本来なら、家族がそろそろストップをかけておかないといけない時期なんですが・・・
結局は、熱血漢は、まず自分に意見を言ってくれる家族自体を壊しているんですね。
それがまさにダメダメ家庭状態なんです。

あるいは、このような理想にあふれる熱血漢さんとなると、別のところで議論しておりますが、熱血ボランティアのような方がその典型といえるでしょう。
それこそ、別のところで、アフリカのゴリラの保護に従事し、結局は現地の人に殺されてしまったダイアン・フォッシーさんを描いた「愛は霧のかなたに」という作品をとりあげております。

もちろん、ゴリラへの保護だけでなく、鯨への保護・・・というか、捕鯨反対運動に命をかけている人もいらっしゃるでしょ?
その手の人たちは、狂信的というよりも、強迫的という言い方が近いでしょ?

その手の人は、大義は語れるのに、当人自身では何ができるのかについては語れないわけ。
あるいは、自分たちは何をしたいのかについては熱く語ることができても、自分たちは何ができるのかについては何も語れない。

立派な大義と、個人の尊厳の乖離という点なり、あるいは、「したいこと」と「できること」の乖離という観点から見てみると、この手の人の問題がよく見えてくるでしょ?

自分が何ができるのかについて考えることから逃避しているので、結局は、何かを敵認定して、その敵への攻撃を持って、「自分のできること」としてしまうわけ。
だから、ゴリラを捕獲している部族なり、鯨を捕獲している国なりを攻撃することで、自分自身のアイデンティティとすることになる。
何かに対抗したり、妨害したり、壊すことでしか、自分自身の価値を認識できない状態のままなので、その攻撃がエスカレートするばかり。

本来は、人などの何かを助けるに当たっては「ワタシはこんなことができるし、こんな実績があるので、その方面で困ったことがあったら、遠慮なくワタシに言ってきてね!」というのがオーソドックスなスタイルでしょ?
しかし、理想にあふれた過激な善意の人は、その善意も受身ではなく、常に攻撃的で、先制的。

ボランティアとか市民運動などは、まさにこんな感じでしょ?
熱意なり善意は語るけど、「で、アンタ自身は、いったい何ができるのさ?」と聞かれると、何も答えられない人。
そんな人は、その質問に答えられないがゆえに、ますますその攻撃性をエスカレートして、自分のできることを必死に立証しようとし、ますます人から嫌がられ、怖がられていくわけです。

この手の人たちにおける理想なり善意というものは、会話からの逃避なり、自分自身からの逃避のために掲げるもの。その大義が立派であるがゆえに、妥協するために自分で考えなくてもいい、あるいは、人に対して説明しなくてもいい・・・それが、その手の人にとっての、理想なり善意というもの。
そして、現状を壊すことに必死になって、何も達成できないままで終わる。
歴史の本を読めばこの手の人はいっぱいいますし、我々が見ている現在の世界でも、いっぱいいるでしょ?

(終了)
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発行後記

選挙が始まりましたが・・・
候補者の遊説は笑えます。
TVでは「若い人に仕事を与えたい!」と訴えていた70歳過ぎのジイサン候補者がいました。
まずアンタが辞めなよね・・・と思った人は多かったと思います。

あるいは、「日本人に希望を与えたい!」と訴えていたオヤジ候補者がいました。
希望というものは人から与えられるものではない・・・と、私は思うのですが・・

「希望を人から与えてもらわないといけない」人間はダメダメ家庭を作るでしょうし、「希望を与えたい。」と訴えている尊大なオヤジの家庭もダメダメ家庭じゃないのかな?
 この文章に関連した文章となると、
「06年1月23日 配信 大義にすがる
あるいは、「09年4月10日 配信 先制的善意攻撃」 などの文章があります。
R.10/7/25