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カテゴリー ダメダメ家庭の親のキャラクター
配信日 03年12月5日 (10年8月20日,11年1月26日 記述を追加)
タイトル 常に大雑把
ちょっと前(03年)、日本のサッカーのリーグで横浜マリノスというチームが優勝いたしました。
そのチームの監督の岡田さんは、以前(2002年)に日本代表チームの監督をされていたこともありました。
岡田さんが監督になると、控え室のロッカーの整理整頓とかの細かいことを選手に注意するそうです。
しかし、サッカー選手とロッカーの整理整頓って、スグには結びつきませんよね?

しかし、チームあるいは集団をまとめ上げ、成果を上げるリーダーは、このような細かなことを徹底的に注意するものです。

20世紀後半を代表するオーケストラの指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤンもオーケストラに対して、基本的なことを徹底的に言っていたそうです。世界一上手なメンバーが集まったベルリン・フィルに対して、基本的なことを徹底的に指摘し続ける。
だからこそ、カラヤンが育てたベルリン・フィルは世界一のオーケストラになったわけです。
大雑把な人は、集団に成果を与えることができないんですね。

たとえば、サッカーでも横浜マリノスの選手に向かって、「オマエたちもイギリスのベッカム選手のようにプレーしろ!」と言った方が、本来の形ですよね?
ロッカーの整理整頓なんて、サッカー選手にしてみれば、本来はどうでもいい話ですよ。
スポーツ選手たるものは、競技場で成果を出せばそれでいいわけでしょ?

しかし違うんですね。
いくらプロと言っても、いきなり「ベッカムのようにプレーしろ!」と言われて、『じゃあ、そうします。』と実際に出来るものではありませんよ。
人間の持って生まれた才能には違いがあるんですからね。

しかし、「ベッカム選手のようにロッカーを整理整頓しろ!」と注意することは問題ありませんよね?そして横浜のサッカー選手も、言われるように『ベッカム選手のようにロッカーを整理整頓する。』ことくらいは出来ますよ。
ロッカーの整理整頓なんて、特別の才能は必要ありませんからね。

同じようなこととして、字を書くにしても、書き順の問題もあります。
「最終的に字を書ければいいじゃないの?」・・・そのような発想ではダメなんですね。

自分に出来ることは確実に実行する。
それがその集団が成果に到達する唯一の方法です。

勿論のこと、人間四六時中緊張していたら持ちませんよ。だからと言って、「ここ」と決めた場所においては、手を抜くことなしに、全身全霊をかける必要があるわけです。
自分が「望んで」存在している場所では手を抜いてはいけないわけです。
だからこそロッカーを整理整頓することで、「ここでは手を抜かない。」という意識を持つことができるわけです。

しかし、ダメダメ家庭においては、実に「大雑把」なスタイルが特徴です。
何事もいい加減なスタイルとなっている。リラックスするところと、手を抜いてはいけないところの区別もなしに、常に大雑把です。

何故なんでしょうか?

そんな大ざっぱな人は、「自分としては、この仕事を『やらされている』。」という一種の被害者意識をもった状態になっている。
自分が好き好んでやっているわけではないので、適当にお茶を濁して終結させればいい・・・という考えになっている。その場しのぎの発想となっているわけです。
逆に言うと、「てきとう」にやる姿勢を見せることで、「ワタシの側は、この仕事を押しつけられた被害者なんだ!」と暗黙的に主張しているわけです。

このようなことは、何もサッカー選手の問題だけではありません。
専業主婦でも同じ状況になっている。
いきなり「フランスの4つ星レストランのシェフのように料理しろ!」と言われても、現実的には対応できるわけがない。
しかし、「4つ星レストランの調理場のように整理整頓しなさい。」と言われたら料理の才能がなくても実現可能でしょ?

人間の心なんて弱いものです。
「調理場の整理整頓なんてどうでもいいじゃないの?料理さえおいしければ・・・」この主張は間違いではありません。
しかし、このような考えでは、結果的にダメダメ進行していくことになる。
「料理なんて、おいしくなくてもいいじゃない。お腹さえふくれれば・・・」
挙句には、「お腹がふくれなくてもいいじゃない。死ななければ・・・」となってしまう。

こうなると、料理の才能の問題以前に、ヤル気の問題になってしまうわけです。
食事後のお皿を洗うのだって、大雑把になってしまいます。次の食事に使う時に、前の料理がこびりついているような状態になってしまう。お皿洗いなんて才能は全然必要ないでしょ?しかし、大雑把な人間は、「いいじゃない、前の日の料理だって毒じゃないんだし・・・」と言ったりして、自分の大雑把を弁護する。

勿論、生活上イヤなこともあるでしょう。常に楽しく朗らかにとは行きませんよね?
しかし、そんなにいつもイヤなら、何か行動を起こす必要があるでしょ?
離婚して一人になるなり、お金を出して家政婦さんを雇うなり・・・

いつも何事もイヤイヤやっている親の元で育った子供の将来なんて、判りきっていますよ。それに子供だって当然のこととして手伝ってくれませんよ。
そんなことは、当たり前ですよね?
親が「こんなにイヤなことを、やらされている。」という姿を子供に見せ付けているわけです。「イヤなこと」を子供が率先して手伝ってくれるわけないじゃないの?

楽しそうにやっていれば、子供だって興味本位から手伝ってくれますよ。
イヤそうにやっていれば、そんな状況から逃げるのが当たり前ですよね?

と言うことで、ますます「イヤイヤやらされる」ことになってしまう。

何事も「イヤイヤやらされる」という感覚が身についてしまった子供の将来は絶望的になります。子供にしてみれば、他の人間も「イヤイヤやらされている。」と思ってしまっているのは当然のこと。だって、自分が育った家庭内ではそんな姿しか見たことないんですから。
そのような発想や姿勢は、自分自ら望んでその場にいる人や、率先してそのような仕事をやっているような人には大変不快に見えてしまう。
「ヤル気がないなら、さっさと消えろよ!」
当然のこととして、そのように言われることになります。
しかし、言われた方のダメダメ家庭出身の人間はキョトンとすることになる。
「えっ!アンタは好きでこの仕事やっていたの?!」
「そんな人が本当に居たんだ!」

言うまでもなく、「何事にも大雑把」と言った発想は後々まで続くことになります。
文章でのやり取りの際にも、ヘタクソな文章のままで送りつけてくる。
もともと文章が上手でなくても、それなりに推敲の跡があれば、その意欲を汲み取ることもできますが、いかにも「て・き・と・う」という文章を投げつけてくるようなメールも実際にあったりします。
そんな大ざっぱな文章は、それこそインターネットの掲示板にいっぱいあるでしょ?
というか、あの場にある文章なんて、ほとんどがそんなものなのでは?
だから、あの場では略字が多いでしょ?
大ざっぱなスタイルと略字は、まさに直結しているでしょ?

その人自身に、やり取りの相手に「分かって欲しい」ことがあるのなら、それが相手にちゃんと伝わるような文章にする必要があるでしょ?
そんな人が子供を持ったりしたら、どんな子育てをするの?

それこそ、トルストイ描くアンナ・カレーニナのように、自分の実子はネグレクトしているのに、「てきとう」に構うことでも十分となる養子の側は、色々と手間を掛けるようになってしまう。「やらされている」という感覚が強いので、「いざとなったらやらなくてもいい」と言う対象には積極的になれたりする。
逆に言うと、「やめることができない」ものには、逃げ腰となってしまう。
そして、逃げ腰の立ち位置を示すことで、「やらされている」「押しつけられている」「かわいそうなワタシ」という立ち位置を自分に確認させるわけです。

何事も大雑把な人は、「子育て」という重要な問題だって大雑把なんですね。
子育てにおいても、親となっている当人としては、いつの間にか親になってしまったから、「やらされている」「押し付けられている」という被害者意識を持った感覚でいる。
だから、「普通でいいや!」という、おなじみのセリフが登場することになる。
逆に言うと、「ふつう」という言葉を頻繁に使う人は、「やらされている」という感覚であり、何事も大雑把でしょ?

よく言う言葉で、「折り目正しい」と言う言葉があります。
紙を折るにせよ、あるいは、布を折りたたむにせよ、「しっかり」と「きちん」と折りたためるか?
そんな点から、その人の精神状況が見えてくるもの。

それこそ、ハンカチの機能を考えた場合には、クシャクシャでも、雑然と折りたたまれていても、あるいは、プレスがかかって丁寧に折りたたまれたハンカチでも、ハンカチとしての機能は同じでしょ?
しかし、そのハンカチを使う側としては、やっぱり違いますよね?
ポケットから、ハンカチを出したら、丁寧に四隅がそろっていて、プレスがかかったハンカチが出てくる場合と、プレスもなく、「て・き・と・う」にたたまれたハンカチが出てきた場合では、そのハンカチを渡した人に対する敬意も違ってきますよ。
そもそも、ハンカチにプレスをかけ、丁寧に折りたたむことなんて、主義主張には関係なくできることでしょ?あるいは、特別な才能が必要になるわけでもないでしょ?
たとえ、戦争のような厳しい時代でも、それなりのプレスはかけることもできるでしょ?
あるいは、その、努力の「跡」は作ることができますよね?
たとえ、その人が政治的に反体制の発想を持っているにせよ、その反体制の見解を、相手に配慮した形で丁寧に伝えようとするのか?そんな点は、主義主張の問題とは別に存在しますよね?

逆に言うと、丁寧な人は、最後まできっちりやり通すことを前提に物事を始めることになる。
何事も大ざっぱなダメダメ人間は、自分のできることをやり通すという考えを持っていないが故に、将来的な展望もなく、「てきとう」に物事を始めることになる。だから、ますますトラブルが発生し、「ああ!どうして、こんなことに?!」と大仰に嘆くだけ。

あのキリストさんだって、「アナタは、小さなことに忠実だから、仕事を任せよう!」なんて言っているでしょ?
戦争とかの大きな問題は、個人では何ともならないわけですが、小さなことに忠実であることは、個人で対処可能ですよ。逆に言うと、その違いで個人の資質の違いも見えてくる。

ダメダメ人間は、何事も「やらされている」という感覚であって、だからこそ大ざっぱであり、そして、そんな大ざっぱな人間同士が結びつきて、大ざっぱに家庭を運営し、結局はトラブルになってしまう。
そうして、「誰のせいで、こうなってしまったのか?」とスグに犯人探し。
しかし、その犯人探しも「てきとう」にやって、とりあえず設定した犯人に、過激な報復行為をして、その関係性を、自分に確認する儀式とする。
犯人探しすら、大ざっぱなんですね。

「何事も大雑把」ということを韓国ではケンナチャヨと言うそうです。
そのような習性は、常にその場しのぎに終始してしまって、本当の成果に達することはないんですね。
そして、実際に上手く行かない状態になってしまうと、持ち前の被害者意識が爆発することになる。何事も大雑把な人ほど、スグに逆上したりするでしょ?

それはサッカーチームのようなスポーツ分野や、オーケストラのような芸術分野、会社のような実業の面における集団のみの問題ではありません。家庭という集団を運営する時にも全く同じように当てはまるわけです。
マトモな家庭とダメダメ家庭の差なんて、ハンカチの折り目とプレスだけでも、十分と判ったりするもの。逆に言うと、それに気がつかない人は、同類のダメダメなんですね。

(終了)
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発信後記

まあ、どの分野でも成果を収めるリーダーは同じようなことをやりますね。
基本に忠実であれ!
その場においては手を抜くな!
と言ったところですね。
R.11/1/26