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配信日 03年12月8日 (10年6月26日,10年11月28日 記述を追加)
タイトル 給食や制服を賛美する
先日(03年)、北海道の高校で、女子の冬の制服をスカートからスラックスに変更するという報道がありました。
「スカートの方がカワイイ!」
「スラックスの方が暖かい!」
それについては、色々な意見はありますよね?
しかし、どんなにスケベなオヤジだって、「雪景色にナマ脚は・・・ちょっと・・・何とかしなよ!」と思うんじゃないでしょうか?

しかし、一番マトモな意見は、
「そもそも制服なんて、なくてもいいじゃないの?」
というものですよね?公立の学校ではなおさらです。

これがイギリスやアメリカの私立学校だったら、制服にも価値がある。

「私たちはキミたちとは違って、お金がかかる私立学校に通っているんだヨ!」
そのようなステータスシンボルになりますもの。一種の身分証ですね。
雪景色にスカートだって問題はない。だって車で送り迎えしてもらえばいいだけなんだから。

しかし、公立の学校ではイギリスもアメリカも制服なんて一般的には設定していません。
当たり前ですね?
「自分たちは私立学校に行くことができませんでした。」というステータスなんて示す必要はありませんものね。

しかし、日本では公立の学校でも制服が設定される。
中学校や高校には、制服は必ずあると言えるでしょう。ヘタをすれば、一般の公立の小学校にもあったりする。
何故なんでしょう?

これは基本的には親の側の要望があったりするわけです。
親としては制服だとありがたい。
どんなに手を抜いてもわかりませんものね。

これが私服だと、子供の服装にどうしても親の力量が反映されることになってしまうでしょ?
ファッションセンスは勿論のこと、経済力、身だしなみ等々・・・
あるいは子供が過激なセンスの服を着たがった場合に、どのような会話が家庭内で展開されたか?
子供の一週間の服装を観察していたら、親の能力なんて簡単にわかってしまいますよね?

だからこそ、親は・・・ダメダメ家庭の親は・・・制服というシステムを学校に対して求めることになります。
そして、親が子供の前で、
「あ〜あ、ウチの学校は制服でヨカッタ!制服だとどんなに手を抜いてもバレないからね!」と喜ぶことになる。

このように「手を抜くことができる制服というシステムへの賞賛」を、自分の前で展開されたら、子供が困っている時だって、親には何も相談できないでしょ?親は子供の前で、公然と「手抜きがしたい!」「手抜きがうれしい!」と言っているわけですからね。

服装というものは、子供自身の自己表現の一種と言えるでしょ?
それを否定されると、子供としても窮屈ですよね?
イギリスとかアメリカの私立学校の制服は、逆に自己表現なんです。自分たちの社会的身分を表現しているんですからね。

子供が自分の趣味や自己表現を全く否定され、そして親の手抜きを肯定される「制服」というシステムは賞賛されてしまう。
自分の子供に対して直接的に言わなくても、制服を賞賛するだけで、子供に対して合法的な形で多大なストレスを与えることになるわけです。

逆に言うと、子供時代から「制服の方がラク。だってコーディネイトに気を使わなくてもいいから・・・」なんて言っている子供は、ダメダメ家庭の子供と言えるわけ。
子供だったら、多少コーディネイトがメチャクチャでも笑って済む話。まあ、清潔だったら問題ないわけでしょ?そんなに他の子供と比較して気を使っていること自体がダメダメ家庭の子供の特色といえるわけです。

それに、子供の段階で、審美眼を鍛えていけばいいだけ。
制服というシステムだと、自分には十分な審美眼がないということ、それ自体を認識しないまま、大人になってしまうということでしょ?子供の将来を考えることこそ教育の務めと言えるのでは?

また、公立の中学校で男子の頭髪が丸刈りを規定されているところも、未だにあるかもしれません。このような丸刈り規定もダメダメな親にとっては大変にありがたいこと。このような厳しい頭髪規定への賛辞を子供の前で述べたりする。そんな光景はダメダメ家庭ではおなじみです。

「あ〜あ、ウチの学校は丸刈りで助かった。もし、普通の頭髪だったら、どうしても親のセンスが他の人にわかってしまう。子供のことをいつも気にしなくてはいけない。丸刈りだったら、何も気にしなくてもいいからラクチン!ラクチン!」と子供の前で言ったりするわけです。

昨今でも、丸刈り規定廃止の運動が人権派?の弁護士を中心に行っているところもあるようですが、そのようなことは弁護士が行う話ではないでしょ?自分の子供に強制的な丸刈りをさせたくなかったら、さっさと転校させればいいだけです。実際にこのような運動を弁護士という家族とは無関係の人間がやっているということは、親の本当の希望ではないということですね?その手の親の本当の希望は「丸刈り」という手抜き志向なのですね。

ですので、ダメダメな親というものは、このような「親に手間をかけさせる弁護士の運動を糾弾」したりします。「あの弁護士も余計なことをしやがって!丸刈りでなくなってしまったら、親であるワタシが大変じゃないか!」
制服も丸刈りも、自分自身を抑圧し、自分を殺す訓練として大変に有効です。この「自分を殺す」訓練が、将来的にどんな事態を引き起こすかについては言うまでもないでしょう?

学校において、制服や頭髪で厳しい規定があると、子供の管理は家庭のマターではなくなってくるわけです。学校の規則で子供を管理しているわけですから、子育ての主体が家庭ではなく、学校ということになってしまうんですね。だから、ダメダメな親は、「子育ては学校がするもの。家庭はお金を出すだけ。」という認識を持っている。
というか、昨今では、お金を出すことすら渋ったりするでしょ?
そして、そんな親に対して、学校が困ったりしているとか・・・
しかし、学校側に厳しい管理を求めてくる時点で、子育てに対する当事者意識がないわけです。だから、お金を出し渋るのは当然なんですね。
それが予想できないとしたら、学校側も知能的に問題があるでしょ?

また、制服や頭髪の問題だけでなく、学校給食も同じ問題ですね?
そもそも、給食というシステムは、親が「手抜き」をするためのシステムなんでしょうからね。

「あ〜あ、ウチの小学校は給食でよかったぁ・・・。もし弁当だったら手間が大変だし、どうしても親のレベルがわかってしまう。給食だと手抜きがバレないで済むわ。安心して手抜きができる!」
このように「給食への賛辞」を子供に語るによって、子供は、親に配慮して「子育てで手抜きをさせるよう」日頃から考えるようになるわけです。制服のシステムと全く同じ効果があるわけです。

このような「手抜きシステムへの賛辞」を聞かされると、子供がどんなに困っていても、その困りごとを親には言わなくなります。困りごとを親に相談したら親としても手間になってしまいますからね。親は普段から子供の前で手抜きを礼賛しているわけですからね。

また、言葉で給食を賛美するだけでなく、給食が出ない土曜日の居残りとか遠足等のイベントに際し、明確なサボタージュの姿勢を見せたりする。これによって、単なる給食への賛辞だけでは得られない効果を持つようになるわけです。
「土曜日の昼食は?」『お金を出すからコンビニで買いなさい!』
「遠足のお弁当は?」『自分でおにぎりくらい作りなさい。』
法律上全く問題のない会話であり、親としての問題のない対応ですね?

勿論のこと、お弁当を毎日作るのは、親にとっては大変でしょう。
現実問題として、今時、そのようなことができる家庭はそれほどないでしょう。
「手抜きをできる給食というシステム」は現実としてありがたいものですね?しかし、普段は子供のお昼の食事を手抜きしていても、たまには手の込んだ食事を作ることだってできるでしょ?

あるいは、日頃から「本当はオマエにお弁当を作って上げたいけど、私も忙しくて・・・」と言っていればまだしも、ダメダメ家庭においては、「お弁当なんて絶対に作りたくない!給食でヨカッタ!!」と言っていたりするんです。
「結果的にお弁当が作れないのか?」
「そもそもお弁当を作るという発想そのものがないのか?」
給食のありがたさを考えるに際し、その前提条件の違いに目を向ける必要があるでしょ?

ヘンな話になりますが、ダメダメ家庭においては、子供の栄養について考えることも学校側の責任と考えているわけ。とにかく、子供の発育を考える主体は、学校側・・・そのように認識しているわけです。
だからこそ、給食がないと栄養がとれないような事態が発生してしまう。家庭内での食事なんて、あってないようなもの。だから、「給食がなかったら、たぶん、ワタシは死んでいただろうなぁ・・・」などと述懐するダメダメ家庭の出身者のような事例になったりする。
これが、戦争をやっている時代ならともかく、人々がバブルに浮かれている時代においても、そんな状況になってしまっているわけ。

あるいは、「親が食事を作ったら、悲惨な料理しかできない。」
そんな諦めの心情を持っている。
それこそ、遠足の際に、自分のお弁当を開けた時に、立ち上ってくる「ぞんざいさ」がイヤというわけです。
どうしてもお弁当を作らないといけない場合でも、ダメダメ家庭の親は「手抜き志向」でお弁当を作ったりするんですね。それは一緒に食べている友人のお弁当と見た目に違っているので、スグわかるんですね。

それこそ、会社などでの労働争議において、明確なスタイルのストライキのパターンもあれば、微妙なサボタージュのパターンもあるでしょ?子供に持たせるお弁当だって、ストライキではなく、サボタージュのパターンもありますよ。
一応の形は整っていたとしても、どの程度まで、気持ちをこめたのかなんて、ちょっと見たらスグにわかってしまうでしょ?

気持ちをこめた作った友人のお弁当と、ぞんざいさが漂う自分のお弁当を比較して、子供としてはどうしても気分が落ち込むことになる。
だから、「給食の方がいい。」などと言い出したりするわけ。
しかし、その横では、別の生徒は、「あ〜あ、お弁当だったら好きなものが食べられるのになぁ〜、給食だと、キライなものも出てくるので、ちょっとイヤだ。」と脳天気な表情をしている。
その言葉を聞いたダメダメ家庭の子供は、「もし、給食ではなくお弁当だったら、ただでさえ親からグチを言われているのに、お弁当を受け取る時には何を言われるのやら?」「それに、現実的には好きなものを食べられるんじゃなくて、食うや食わずに近い状況になるんだろうなぁ・・・」と思ってしまう。

ダメダメ家庭は、そもそも子供のことを考えることそれ自体がイヤ。
そんなダメダメ家庭に適応してしまい、そんな家庭の子供は、「給食の方がいい!」と子供の方から率先して言ってきたりするわけ。
「親に対して気を使いたくない。手間をかけさせたくない。」
そのように「親の事情に配慮した」「大人な(=adult)」子供になってしまうわけ。

学校において、ダメダメな親は「その学校で何を習得して、どんな大人になってほしいのか?」については何も考えない。とにもかくにも、「ふつう」であればいいと思っている。周囲の人と同じであり、当面において、問題が見えなければそれでいいと思っている。自分の子供の将来なんて眼中にないわけ。

目先の問題として、ダメダメな親は、自分のダメダメが周囲にバレなければそれでいいと考えている。というよりも、親自身が子供のことを何も見ていないので、子供の問題を知らないわけ。まさに「面倒を持ち込むな!」と子供に言い続けることによって、何も知らない状態を作っている。そして、問題を知らないがゆえに、トラブルの端緒があっても何も対処しない。そして、何も知らないし、何も対処していないがゆえに、大きな事件になってしまっても、「ワタシは何も知らなかった。ワタシは悪くない!」と周囲に主張することになる。

ダメダメ家庭の親は、子育てというものは、親である自分が背負わされた被害であると確信を持っていて、当然のこととして、当事者意識などはない。
当事者意識がなく、達成したいものもなく、手間をかけたくない。
そんな環境なので、親も子供も「制服がいい。給食がいい。」「何も考えたくない!」などと言い出したりする。
問題が見えない状態を保つことに汲々として、眼前の現実や潜在状態にある問題を直視しようとしない。
考えることといえば、「ふつう」とは違っていないようにしようということだけ。

だからこそ、生徒が一律的に「ふつう」となっている状況を求めることになる。
逆に言うと、過剰なまでにそのような一律化を求めてくる背景には、心理的な抑圧があるわけです。
そんな親は、子供に対し「ふつうになれ!」と要求し続ける。
その「ふつう」を形から入るためには、制服も給食も、実にフィットしたものでしょ?
そうやって、自分の子供の「出る杭を打ち続ける」ことになる。
そして、将来の可能性が毀損していることも、何も考えない。
だからこそ、そのひずみが、いずれかは爆発してしまうんですね。

(終了)
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発行後記

1ヶ月ほど前に私のPCがウィルスに感染して往生いたしました。今現在は私の身体がウィルスに感染して往生しているところです。
寒くなりましたので、皆さんお身体に気をつけてくださいね。
R.10/11/28