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カテゴリー 会話のスタイル(発言側)
配信日 03年12月15日 (10年11月29日 記述を追加)
タイトル わかりきったことをご丁寧に説明する
本来は、家庭というものは、家庭のみの閉じた世界であるというより、外の世界へつながっていくものですよね?
その家庭がどんなにうまく、別の言い方をすると、「問題なく」運営されていても、社会との間で、齟齬をきたすような運営では、その家庭がちゃんとしているとは言えないでしょ?

家庭という場は、子供にとっては、外に巣立って行く技術を習得する場であるわけです。
その代表的な技術が「コミュニケーションの技術」です。
人とのコミュニケーションの技術が確立していない人間が、社会でどのようになってしまうか・・・その点については、言うまでもないことでしょ?

家庭内での親と子の会話は、親と子の意思疎通であると伴に、コミュニケーションの練習であるわけです。
これについては以前に「コミュニケーションの訓練」というタイトルの文章の中で書いております。
ダメダメ家庭においては、形の上ではやり取りが成立していても、実質上は意思相通ができていないケースが多いわけ。つまり会話の成果としての相互理解が達成されていないわけです。

たとえば、子供がもうとっくの昔から知っているようなことを、丁寧に説明したりするんですね。
親からは丁寧に説明されるので、子供の方も形の上では聞かないといけない。しかし、もうすでに知っている事項なので、どう対応していいのかわからず困惑してしまう。

本来は、自分の子供がどのようなことを知っているのかについて、親の側が大体においては把握していないといけないでしょ?会話の積み重ねによって相互理解ができていれば、このような事態は発生しないものでしょ?逆に言うと、こんな事態が頻発するということは、相互理解ができていないことの証明でしょ?

前から知っていることを説明されても、誰だって困惑するだけですよ。
たとえば、
「月は地球の回りを回っているのよ!」と言った自然科学の事項とか、
「中国の首都は北京よ!」とかの社会常識とか、
「お隣の○○さんの子供は、△△大学に行っているのよ…」とかの近隣の話題だったり、
「オレンジの食べ方」のような実際的な知識だったり・・・
知識と言っても、色々とありますよね?

このようなことを5歳の子供に丁寧に説明したりすることは、親子の楽しい「会話」と言えるかもしれません。しかし、10歳の子供に丁寧に説明しても、聞かされる子供も困りますよね?
子供としては、「もうとっくの昔から知っていることなのに・・・」
「もう、このボクはそんな歳じゃないんだけど・・・この親はわかっているのかな?」と怪訝に思うことになる。
オマケに、以前にも親から「丁寧に」説明を聞いたことと全く同じだったりする。

そんなシーンは、親にとっては「絵に描いたような楽しい親子の会話」なんですが、子供にとっては「困惑する時間」となってしまうわけです。
子供にしてみれば、「この親は普段から自分のことを考えていなんだなぁ・・・」という理解が得られるだけ。

このようなシーンは、別のところで集中的にとりあげておりますバルザックの小説「谷間のゆり」において、
『彼は、勘のいい、あるいは、たしなみのある人間なら黙っていてもわかるような些細なことまで、いちいち物知り顔で教えてくれます。』なる記述になる。
それだけ、ダメダメ家庭においては、よくあるシーンといえるわけ。

前にも書いていますが、会話というのは、相互理解を趣旨としたものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、お互いがお互いについて、まったくわかっていない状態でやり取りをして、言葉だけが飛び交って、そして終了する・・・そんなやり取りになっている。

自分がとうの昔に知っていることを説明されても返答ができないでしょ?だから、やり取りが発展せずに、会話にならないわけです。前から知っていることを説明されても、聞かされる側は生返事の技術が向上するばかり。
そんなやり取りの成果として得られたのは、「やり取りをした」という歴史的?事実だけであって、相互理解にはならないわけ。

と言うことで、子供が困った時も親に相談しなくなる。
そもそも、相談というものは、自分のことを考えている、分かっている、あるいは、分かろうとしてくれる人に対して相談をするのであって、「その気」がない人に対して、相談しても、直面している事態が余計に悪くなるだけですよ。
それこそ、無理に相談を持ちかけても、誰もが知っているような正論を、問答無用に説教されるだけ。
相談することで、結果的に、事態がより悪くなってしまう。

このように、相手のことを考えずに、一方的に説明するクセがある人は、相手が大人でもやっちゃうんですね。
最初のうちは「わかりきったことを聞かされる」側の人も丁寧に説明してくれる相手に対し、いきなり「そんなこと、ボクだって知っているよ!」とは言いませんが、何回も「ご丁寧な説明」をされると鬱陶しくなる。

それに、同じ話を聞かされた側が思うのは「少しは相手のことを考えてみたら?」ということですね?
となると、周囲の人は、結局は、そのような同じ説明を繰り返す人間を相手にしなくなる。ということで、説明人間はますます自分の子供しかしか相手がいなくなるわけです。
だから、ますます分かりきったことを問答無用に説明する「会話」が家庭内で積み重なってしまい、会話に対する感覚が麻痺してしまう。

また家庭内での「会話」がこのように一方的なものばかりだったら、社会において「会話」する時に「会話の技術」の準備ができていないことになるでしょ?
そんな子供が社会でどのようにコミュニケートしていくの?

分かりきったことをご丁寧に説明する行為は、外見的には会話とも見えるわけですが、その実質としては独り言でしょ?いわば、外見的には対象がいて、心理的には対象がいない状態と見れば理解しやすいでしょ?

つまり、そんなことをする人は、本質的には他者という存在を心理的に認識できないわけです。ダメダメ家庭の人間が、他者というものを心理的に認識できなくなってしまうことについては、別のところで書いております。
他者というものが認識できないのだから、会話という他者との間で行う行為がぎこちないものになるのも当然のこと。
逆に言うと、会話のぎこちなさは、他者を心理的に認識する能力が欠落している可能性を示しているわけ。

会話という行為を実質的に成立させる能力が欠如しているがゆえに、やり取りの外見的な形にこだわらざるを得ない。
その会話の外見的な形へこだわりの発現した一例として、分かりきったことを丁寧に説明する姿につながるわけ。
そして、形の維持ばかりに目を向け、会話の実質としての相互理解がますます霧散してしまうことになるわけです。

(終了)
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発行後記

このメールマガジンは別にお説教を意図しているものではありません。
まあ、『子供の目から見たダメダメ家庭』と言った趣と捉えていただければ結構です。
ですから「ダメダメ家庭との交遊録」というタイトルでもいいんです。
R.10/11/29