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カテゴリー 子供にすがるダメダメな親
配信日 03年12月17日 (11年1月7日 記述を追加)
タイトル 息子を自分の理想の男性にしたがる
このメールマガジンでは、今までは、どちらかというと「愛のない家庭」と言ったタイプのダメダメ家庭を多く取り上げましたが、今回はむしろ「仲良し親子」と言ったタイプのダメダメ家庭を取り上げます。
その1つとして、母親が自分の息子に深い思い入れのある場合です。
別の言い方をすると、母親が自分の息子にいささか入れ込んでいる状態と言えるでしょう。

それこそ、「いつか白馬に乗った王子様が私を迎えに来てくれる!」と思春期の女の子は念願したりしますよね?
若い頃は、そのような妄想も楽しいものでしょうし、人間は、そのような現実離れした願望を持つ時期があった方がいいでしょ?
小学生の頃から、「大人になったら、地方公務員のような堅実な職業の人と結婚して、堅実な家庭を持ちたい。」などと言ったりする女の子がいたら、ちょっと不気味だし、むしろ、お気の毒とも言えるでしょ?それは、別の面でダメダメですよ。それだけ、「自分の身は自分で守っていかないと!」と切羽詰っている状態といえるわけですからね。

しかし、そのような「夢見る女の子」あるいは「恋に恋する女の子」も、現実と折り合いをつけるために妥協したりするわけです。
20歳を過ぎても「白馬に乗った青い目の王子様」を待ち続けているような、根性のある女性はほとんどいないでしょう。
勿論のこと、現実の結婚は妥協の産物ですが、そのような結婚相手についての視点の変化は、人間の成長に従っての人を見る目の変化であるとも言えます。

「青い目」とか「白馬」とかの諸条件は、「どうでもいいこと」に格下げされ、「優しさ」とか「誠実さ」とか「知性」とかの条件に取って変わることになる。当然のこととして、収入という現実的な面も出てきます。
人間において、収入がすべてではないことは言うまでもありませんが、「収入なんかどうでもいい!私には青い目が重要なの!」というような女性は・・・「困ったチャン」と言えますね?
それが一般的な人間の成長とも言えるわけでしょ?

そう!妥協というより、成長なんですね。
青い目とか端正な容姿などは、認識とか感想とか印象の次元のもの。つまり、自分自身の世界で完結していまいますが、「知性」とか「優しさ」とか「誠実さ」によって、お互いの「会話」が出来ることになる。「人・間」にとって、この「会話」こそが重要になります。
現実において、問題が発生した場合には、会話によって、当事者同士で調整して、解決していく必要があるでしょ?
妄想は一人でできますが、会話は一人ではできませんものね。

しかし、形の上では「青い目」を諦めても、心の中では諦めていないような場合は、その理想追求が自分の子供に向かうことになってしまう。
成長して「青い目」には興味がなくなったのではなく、現実上の限界から「青い目」を断念せざるを得なかった場合です。そのような場合は、心の中でくすぶっている「青い目願望」が、今ここに誕生した自分の息子に向かったりする。

子供にいい服を着せるとか、お稽古事をさせるといった程度であればまだしも、人格面においても、自分の「王子様」であることを要求する。
このような傾向を持った母親は現実に存在しているでしょ?
そんな母親は、実際問題として、コミュニケーション能力が低い人が多いでしょ?
現実よりも、妄想を重視する姿勢は、若い頃から何も変わっていないわけです。

だからこそ、自分の息子に対して現実離れした要望を持つことになる。
自分の息子が、常に清潔で、趣味がよく、お行儀がよく、女性を大切にする・・・そして決してエッチではない!
そんな期待を強く持つことになる。
まあ、確かに大切なことでもあります。
しかし、「いざと言う時」できればいい事を家庭内でも常に要求されると、子供だってリラックスできないわけです。それこそオナラでもしたい場合もあるかもしれません。エッチなことに関心がない少年と言うのも不気味でしょ?

しかし、そのようなリラックスを否定し、常に母親の理想の王子様になるように要求する。その手の母親は、自分の子供のプラス方向をサポートするというよりも、マイナス面に対して過剰に反応することになる。
母親からのそんな要求を受けた子供としては、母親の前で「よそ行き」のスタイルでいるだけですので、子供としても対応可能なことです。しかし、緊張することですね?・・・家庭内なのに・・・
それこそ、息子が「エッチな本」でも隠し持っているのを見つけたらパニックになったりして・・・息子の方もそれを察して、母親の前では慎重の上にも慎重に行動するわけことになる。

この緊張がどのような結果になっていくのかなんて、簡単に予想がつくこと。
母親の前では演技して「王子様」をやって、母親のいないところで「悪ガキ」に変貌。
母親は自分の前での「王子様」しか知らないものだから、対応もできない。
そんなシーンは、よくあるでしょ?
そして、「ウチでは、本当にいい子なんですよ・・・」と怪訝な顔。

何も「男の子は男の子らしく」とか「女の子は女の子らしく」という固定的な性役割を当てはめることが重要であると申し上げているわけではありませんよ。まあ、どんな子供も、基本的には自分のやりたいように・・・と言うわけです。子供時代から自分自身を偽っていたら、逆に言うと、自分の感情との調整ができなくなってしまう。
自分の感情を認め、周囲との間で調整するのではなく、そもそも自分の感情を「抑える」ことしかできない。
だから、いずれかは爆発してしまう。

言うまでもなく、「自分の王子様」の役割を期待する相手は、本来は「自分の夫」のはず。
現実的には難しいのは当然ですが、その現実的な難しさは、自分の息子だって共通なんですね。実際に、自分の夫の子供時代はどうだったの?そんなに、清く、正しかったの?夫婦の間でそんな会話はないの?夫婦でそんな会話がないとしたら、子供がエッチな本を隠し持っているとかの次元ではなく、もっと深刻な事態になってしまいますよ。
子供に対して要求を出すのもいいのですが、夫婦での会話も必要でしょ?

しかし、夫の場合は夫も反論したり、無視したりする。夫婦は大人同士ですので基本的には同格ですからね。
しかし、母親と息子という間柄では同格とは言えないでしょ?
息子の方も母親の意向に従わなくてはなりませんよ。
しかし、そんなやり取りにおいては、本当の意味での「会話」が成立していないわけです。
自分自身の妄想の構成要素として、息子が王子様役をやっているだけなんですね。

子供への過剰な期待は、逆に言うと、夫との間で適切なコミュニケーションが取れていないという状態を示しているもの。
しかし、大人同士でコミュニケーションが取れない人間は、子供との間でもコミュニケーションは取れませんよ。
ただ、自分の子供に対しては「命令」でことが済むというだけ。
だから、子供から反論を受けることはない。だからこそ、問題点に気が付かず、そのまま突っ走ってしまう。

ダメダメ家庭出身者は「妄想」との親和性が高い。
現実においては、ずっと自分の希望がかなえられず、妄想の世界のみで「お姫様」ができる状況だったので、「妄想」と「現実」がゴッチャになっているわけです。
だからこそ、現実に発生するマイナスとの接し方がわからない。
そして、妄想での行動基準を現実世界に強引に適用しようとすることになる。

その要求を受けて、子供も「清く、正しく」振舞うことになり、周囲から「いかにも仲がいい親子」と見えることになる。
しかし、子供にしてみれば「心ここにあらず。」という状況になってしまうわけです。
ヘタをすれば、息子の側が、そんな窮屈な現実から逃避して、それこそアニメとかの虚構の世界に逃げ込んでしまうことになる。
まさに、現実と虚構を混同しているというダメダメにお約束状態が、母から息子へ連鎖した状態。
そういう意味では「子は親の鏡」。
そんな家庭って、結構あったりするでしょ?

外見的には「仲がよく」見えても、それが相手の人格を肯定したものなのか?それとも、それ以外の人とは上手く行かないという二重否定なのか?
子供のプラス方向に目を向けているのか?マイナスを除去するという二重否定の方向なのか?
あるいは、愛情を持っているという肯定形なのか?それとも、「離れられない」という二重否定的な依存状況なのか?

自分の息子に対して過剰に依存している母親は、それだけ、それ以外の人間や、目の前の現実とやり取りができていないわけです。
所詮は二重否定どまりであって、肯定的な精神を持っていない。
だからこそ、自分に対して「従わざるを得ない」子供だけしか相手になってくれないわけです。

現実的に言うと、シングルマザー環境で育った女性が息子を持つと、こんな症状になりやすいもの。子供の頃からの妄想癖と、自分の立場の不安定さから来る入れ込みがあり、そして、自分の母親が見本として機能していないという点から、こんな症状になりやすかったりするもの。離婚してシングルマザーとなってしまった人は、現実的に見て、母親の役割の見本にはなえないもの。そのような母親を間近で見ているし、自分の母親以外の別の家庭の母親と接する機会が少ない。だから、そんな家庭の女の子は、適切な見本と接することが難しくなってしまう。

あるいは、子供に対して愛情があると言っても、それが母性なのか?それとも女性としての愛情なのか?
それによって違ってくるでしょ?
ジッドの「狭き門」を取り上げた際に言及しておりますが、フランスの劇作家のラシーヌの代表作である「フェードル」では、王妃フェードルは、義理の息子のイポリートに恋慕いたします。
そんな恋慕は、女性的であっても、母性的とは言えない。

母性というものは、道を指し示すものではないでしょ?
成功への道しるべというよりも、子供の失敗を受け入れる役回りに近いでしょ?
成果への道を指し示すのは、どちらかと言うと父性の役回りですよ。
自分の息子を理想の男性にしたがる母親は、そのような意味で、母性がないわけです。
方向性を示すという父性はあり、男性に入れ込むという女性はあっても、母性が欠けた母親なんですね。

そのようなことは、恋に恋する夢見る母親のパターンばかりではなく、過度に厳格な母親のパターンでも同じです。まさに、エッチな本などを見つけて大騒ぎしたり、ちょっとでも失敗すると大騒ぎして、子供を弾劾する母親も現実にいるでしょ?
そんな厳格な母親は、女性はあっても、母性を持っていないわけです。
生物的な意味での、そして、法律的な観点での母親は存在しても、子供にとっての心理的な意味での母親は不在のままとなっている。
厳格な母親という存在は、ちょっと見には教育熱心とみられたりすることもありますが、別の観点からみると、母性の不在とも見ることができるわけです。
女性はあっても、母性がないと、夢見る母親になり、自分の息子に入れ込むことになる。
父性があって、母性がなく、女性の面が小さい母親となると、異常に厳格な母親になる。
そういう意味で、自分の息子に対して入れ込む母親が作っている家庭は、母親という機能が不全となっている家庭なんですね。

実際に、秋葉原で通り魔事件を起こした人の母親は、まさに上記の「厳格な母親」の姿そのものでしょ?
子供の間違いを許さず、徹底的に弾劾する。
そんな母親を持っていれば、子供としては、自分自身との付き合い方ができるわけがありませんよ。
間違いを絶対に許さないがゆえに、大きな間違いをしてしまう・・・そのような流れは、ダメダメ家庭においては、いつも起こっていることでしょ?

(終了)
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発行後記

寒くなりましたので、お体お気をつけくださいね。
R.11/1/7