トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー 形への依存
配信日 03年12月29日 (10年11月15日 記述を追加)
タイトル 儀式にこだわる
何度も書いていますが、ダメダメ家庭というのは形に拘ります。
逆に言うと中身には拘らない。形から入っても中身に進めばいいのでしょうが、ひたすら形を整えようとする。
家族の意向などよりも、形を整えることに力を尽くすわけ。

たとえば、もうスグ、お正月です。家族で初詣などに行ったりする場合もあるでしょう。
ある種のダメダメ家庭というのは、このようなラッキー・イベント?を重要視いたします。
どうして?なぜなの?

まずは、ダメダメ家庭特有の「普通にしなきゃ!」という強迫観念があります。
ダメダメ家庭は、「ふつうの家庭が、ふつうにやっているもの。」とされるイベントを、つつがなくこなすことに強迫的に意識しているんですね。
必死で人に合わせようとするわけ。
人に合わせてさえいれば、自分で考えなくてもいいでしょ?

だからこそ、自分たちなりの固有の要素なり、自分で考える要素が出てくるイベントには関心を持たない。
それこそ、子供の誕生日にはまったくの無関心だったりする。
だって、子供の誕生日のイベントを、周囲の「人に合わせて」、お隣さんの子供と同じ日に挙行するの?

誕生日は、人に固有のものでしょ?
つまり、誕生日のイベントは、人に合わせる要素が相対的に小さいわけ。だからこそ、「人に合わせなきゃいけない!」と切羽詰っているダメダメな親にしてみれば、関心を持つことはない。
「やらないと」「目立ってしまう」イベントに対して、強迫的に関心を持つだけ。

たとえば、七五三とかひな祭りとなると、多少は関心を持ったりする。
しかし、七五三とかひな祭りだと、子供がいても、該当者ではない場合もあるでしょ?
だから、やらなくても目立たない。
だから、相応の程度で関心を持つわけ。

「どうやったら、その種のイベントで家族が楽しめるのか?」という肯定方向の視点ではなく、どうやったら、周囲から目立たないかという減点方向の視点だけでその種のイベントを捉えているわけ。
だからこそ、みんなが、同じ日に行うイベントには関心を持つわけですが、その種のイベントをする際にも、義務感が伴っていて、そのイベントを楽しむという感覚は持っていないわけ。

イベントに向き合う姿勢においても、「これをやれば、楽しめる。」という肯定的なものではなく、「これをやらないと、不幸になる。」という二重否定的な感覚なんですね。
幸福の方向を向いて、イベントを行うのではなく、不幸を向いてイベントを行っている。そんなことだから、強迫的な雰囲気になってしまいますよ。

ダメダメ家庭においては、周囲に合わせなくてはいけないという感覚で、その種のラッキー・イベントを捉えているわけですが、それ以外にも、不幸というか、ラッキーの問題については、ダメダメ家庭ならではの視点もあります。

ダメダメ家庭では、自分たちの家庭がうまくいっていないのは、「福の神のせいだ!」などと考えたりしているんですね。
自分たち本人に原因があるなんて、これっぽちも考えていないわけ。
だって、当人としては、周囲の人たちの行動に合わせているだけなんだから、「みんなと同じことをやっているのに、ウチだけうまく行かないのは、ワタシのせいじゃない!」と考えているわけ。
「福の神様が、我が家においでにならないせいだ!」
それくらいの感覚になっているわけです。

ということで、誠心誠意に「福の神」の来訪を待ち望むことになるわけです。

だから、お正月の初詣とか、節分のように「福の神」の来訪に関わるラッキー・イベントには拘ることになるわけです。ダメダメな親の側も、それなりに家庭の幸福を考えているわけです。

「我、福の神の降臨を待ち望む。」の心境なので、クリスマスのような、「福の神」とは別の神様は、特に期待されない。キリストさんが来てくれたって我が家がよくなるわけでなし・・・

勿論、お正月なり節分なりの、ラッキー・イベントを盛大に挙行すること自体は、悪くはないでしょう。しかし、重要なことは、現実の家族が喜んでいるかどうかですよね?

むずがっている子供や、面倒臭がっている夫を強引に連れ出して、家族そろって初詣と言っても、いい結果にはならないんじゃないの?
強引に連れ出された子供や夫だって、さながら徴兵された気分でしょ?
新年早々そんな気分の家庭が、これからうまくいくわけがないじゃないの?
そんなことでは、ダメダメが進行するだけじゃないの?

しかし、福を呼び込みたいダメダメ家庭では、お正月の行事だけでなく、「福はウチ!」とするべく、節分なども大変に意欲的に取り組んだりします。
まさにこの節分というラッキー・イベントを利用して、「我が家に巣食う『鬼』を追い出してやろう!」などと意気込むわけです。

というわけで、他の家族の無視や反対をものともせずに、「鬼は外!」と目を血走らして金切り声を上げて、豆撒きすることになる。
まあ、豆撒きをしている側としては、「鬼よ!我が家から出て行け!」と必死なんでしょう。
しかし、それを見ていた子供は、『「鬼は外!」って・・・鬼って、アンタ自身じゃないの?』と呆然と見つめることになる。

しかし、ラッキー・イベントに取り組んでいる本人は、至ってマジメ。
「このイベントを通じて、我が家に幸福をもたらそう!」
本気に思っているわけです。

しかし、その家庭がうまくいかない原因を、まずもって、福の神に求めるような発想では、その家庭の改善なんて絶対にありえませんよね?
結局は、問題から目を逸らしているだけなんですね。

オマケに、初詣や節分に非協力的な家族を叱責し、「オマエたちがマジメに取り組まないからこそ、我が家はうまくいかないんだ!」となるばかり。
トラブルの原因を、福の神の問題にしてしまうことを、その種の儀式によって、自分に納得させるわけ。
そうして、家族の考えをますます聞かなくなってしまう。

前にも書いていますが、ダメダメ家庭がこの種のラッキー・イベントと向き合う姿勢は、「不幸にならないように。」という発想が基本であり、幸福ではなく、不幸の側に対して視線が向かっている。

だから、「こうすればお子さんも喜ぶでしょう。」・・・そんな話には無関心。
しかし、「こうしないと、家が不幸になる。」という否定的な話には、過敏に反応することになる。
子供が喜ぶようなお誕生日会は、そういう意味で、ダメダメな親にしてみれば、どうでもいいわけ。

ダメダメ家庭が持っているそんな心理を上手に突くと、たまに話題になったりする新興宗教のように「ありがた〜い」ツボを買わせることもできてしまうわけ。
「このツボを買わないと、この家庭はメチャクチャになってしまうぞ!」
そのように言われてしまうと、『じゃあ、そうしなきゃ!』と思ってしまうわけ。
しかし、「誕生日おめでとう!」の呼びかけもないような家庭が、そんなラッキー・アイテムを買ったり、ラッキー・イベントを挙行しても、家族が笑顔になるわけがないでしょ?

結局は、ラッキー・イベント?を通じて、ダメダメ家庭のダメダメ振りが進行するだけなんですね。実際には、「このツボを買ったせいで、この家庭は、ますますダメダメになってしまう。」ことになる。
しかし、その種のラッキー・アイテムを購入した当人にしてみれば、「こんなに努力しているのに、この家庭がうまく行かないのはどうしてなんだ?誰のせいなんだ?」と、ますます犯人探しに血道をあげることになる。

そして、犯人を設定して、「コイツが悪いんだ!」「悪いのは全部コイツのせいだ!」「コイツをやっつければ、我々はうまくいくはずだ!」と犯人確定のための儀式を挙行することになる。
それこそ「つるし上げ」などをやって、「オマエのせいで!オマエのせいで!」と主張するわけ。

儀式というものへのこだわりは、ラッキー・イベントで留まっているレヴェルだったら、まだ、シャレになるわけですが、結局はつるし上げようなマイナス方向の儀式に向かってしまうわけ。
逆に言うと、その種のラッキー・イベントを「人に合わせる」ために、強迫的に挙行している人は、犯人確定のための過激な儀式を行う可能性も高いわけ。
だからこそ、上手に距離をとらないと危険なんですね。

(終了)
***************************************************
発信後記

次回の配信は12月31日大晦日です。
と言っても、来年にお読みになられても、特に支障のあるものでもありませんが・・・
R.10/11/15