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配信日 04年1月9日 (10年7月11日 記述を追加)
タイトル 少子化問題を嘆く
現在の日本で問題になっている「少子化」の問題ですが、テレビなどで報道されることも多くあります。
ダメダメ家庭ではこの少子化ということが結構遡上に上がったりしますね。

子供がいるダメダメ家庭では「全く・・・子供も作らないでケシカラン!オレたちの年金はどうなるんだ!!」とテレビの前で御立腹です。
子供のいないダメダメ家庭では、「政府の少子化対策がもっと進めば子供も作ろうか?」などと会話したりする。

この2つは共通点がありますよね?
子供を考えるにあたって、まず年金とか、必要な費用とかの、「お金」のことを考える発想です。

「このような少子化対策を施してもらうと、子供を育てることが、どれくらいラクになるか?」ということに関係なく子供を作り育てるのが、本来は、いい親というものでしょ?
勿論のこと、事情はあるでしょう。現実的には困難もありますよね。しかし、国のサポートがなければ子供なんて育てたくない・・・というのであれば、子供なんて最初から作らない方がはるかにマシ。

というのは、子育てに予想外に手間がかかった時に、このような「手当てを当てにしていた親」は子供に対してグチるわけです。
「あ〜あ、国のサポートがあるというから、ラクに子育てができると思ってオマエを作ったのに、手間ばかりかけて・・・」
そう言われても子供としてはねぇ・・・
一体どうすればいいの?

というよりも、そもそも子育てに関して、予想というか、全体的な構想を持った上で子供を持つということとは無縁なのがダメダメ家庭。
「な〜んとなく」「てきとう」「周囲も子供を持っているから」・・・それくらいの感覚で子供を持ってしまう。そして、実際に子供ができてしまってから、子育ての苦労を実感することになる。だからこそ、子供が犯人認定されてしまっている。
だからこそ、子供に対して「見返り」を求めることになる。
その「子育てに対する見返り」を、別の言葉で言うと、「年金財政」とか「老後の問題」と言うことになるわけ。逆に言うと、そんな高邁な政治的な言葉をスグに言う人は、被害者意識が強く、そして、自分で物事を判断しない人なんですね。

本来は子供という存在は、前の世代の年金を払うために存在し、生きているわけではないでしょ?
子供を育てることが楽しかったり、意義を感じているのなら、本来はそれそのものが見返りのはず。

ところがダメダメ家庭では、子育てというのは懲役刑とか徴兵の一種のように捉えられているわけです。だからこそ「子供を作らないのはケシカラン!!」という話になっちゃうんですね。
敵前逃亡罪だ!あるいは税金の滞納者だ!徴兵拒否者だ!

「こんな楽しいこと何故しないんだろう?」という会話にはならない。
「子育って楽しいのに、しないなんてお気の毒に・・・」
「何か大変な事情があるのかしら?」
なんて会話が自分の前であったりしたら、子供だって安心しますよね?

逆に「子育てから逃げて、年金財政を破綻させてケシカラン!!」という言葉は子供にはたまらないでしょ?
「ボクって年金を払うことを期待されているだけなのかな?」とか
「子育てってそんなにイヤなのかな?」とか思うでしょ?

政府における「少子化」⇒「年金財政の破綻」という直線的な図式は、家庭や個人のレベルでは「子供」⇒「金を払う存在」という図式に還元されますよね?
自らの存在は、「お金を払う存在としての人間」としてしか規定されていない。
このような現実を認識して、将来がんばってみようと考える子供はいないでしょう。

また、子供の眼前で年金財政の破綻を嘆く親は、必然的に「年金は頼りにならないから、オマエが我々の老後の面倒を見るんだ!」という間接的なメッセージを発しているわけです。
少子化を嘆くこと・・・このことは確かに政府もやってこと。しかし、子供にとって「将来政府に年金で搾取され、親からは老後の面倒でかしずく自分」とダブルバインドで出口なしの状況が予想されてしまうわけです。

まあ、将来への希望なんて持ちようがありませんよね?

本来はダメダメ家庭は子供なんて持ってはいけないんですが、しかしダメダメ家庭の人間ができる社会への貢献?は「少子化対策」のみだったりする。だから妙にそれに拘ってしまう。
あるいは、会話能力がないダメダメ人間にとって、唯一相手になってくれるのは、自分の子供くらい・・・そのことは、ダメダメ人間にも予想できる。だから、「子供を育てる覚悟」や「子供を持つ資格」について、考えないようにして、「な〜んとなく」で妊娠して、出産することになる。
そして、子育ての苦労に直面し、子供に対して「謝罪」と「補償」を求めることになる。

子供を叩いたりして虐待している親に対して、私がある時に「そもそもアナタがマトモに子育てできるわけないことは、最初から分かりきっているじゃないの?アナタだって虐待されていたんだから・・・」
と言ったところ、
『そんなこと言い出すと、日本はますます少子化が進んじゃうわ!』
と反論されたことがあります。
まあ、虐待されて育ったそのお子さんが、年金財政の健全化に貢献するかは疑問ですが・・・

「ワタシは子供なんて欲しくはなかったんだけど、政府が色々とうるさいから、しょうがないから、子供を作ってやった!」それが、その手の親の考えですし、その考えを自分の子供の前で語るわけ。

少子化ということを声高に叫ぶことは、このような出来の悪い親の免罪符になってしまう。
覚悟や、将来的な見通しなどの自分自身の問題から逃避して、日本の少子化問題という客観的で第3者的なマターになってしまうわけ。
自分の子供という固有の問題として考えるのではなく、社会全体の子供の数という一般論だけしか考えられないわけ。それだけ、自分の子供が「その他大勢」の扱いになっているわけです。だからこそ、その手の親ほど「ふつう」と言う言葉を使いたがるものでしょ?
固有性がなくなって、「その他大勢」を志向する発想なんだから、「ふつう」という言葉が大好きとなるのは当然のこと。
そして、その「ふつう」ということは、固有性がないがゆえに、規格品的な商品性とつながる。商品性なんだから、やっぱり経済的な観点から見ることになりますよ。

また先日に、日本では自殺者により、経済損失がいくら・・・との報道がありました。
これも同じですよね?

自殺を経済損失という観点からしか見ることのできないような貧しい心根が社会に根付いている限り、自殺者は増え続けるでしょう。
同じように、少子化を年金の支払い者としか考えられないような貧相な精神が充満している社会に、子供を送り出そうというのも無謀な話。

ちょっとした例で考えて見ましょう。もし知人に子供が産まれたとしましょうか?
その知人のところに遊びに行って、その第一声が「これで日本の少子化も、ちょっと改善されたわね!」などと言うような人がマトモでしょうか?
マトモだったら、「子供って、かわいいわねぇ・・・」が第一声でしょう?

あと、以前見ていた少子化問題についてのテレビ番組で、オバサンたちが「近頃の若い女性は子供を作らないなんてケシカラン!」と息巻いていましたが、このようなオバサンが少子化を進展させているんですね。
そんな言葉を聞かされた人間にマトモな感覚を持っていたら、「子育てって、そんなにイヤなのか?!」と思いますよね?そんなことすら分からないような鈍感なオバサンが、がんばっている家庭。それがまさにダメダメ家庭というものでしょ?

ダメダメ家庭は、何かを達成するという肯定的な発想をしない。
常に何かを否定しているだけ。
それこそ、子供を持ち、育てるということにおいても、「子供を作らないのはケシカラン!」という二重否定的な見解を持つことがあっても、「子供と一緒だと楽しいよ。」とか「子育てによって、自分も有意義な体験を持つことができたわ。」というシンプルな肯定形では言えない。

ボンクラな人にしてみれば、二重否定的な物言いとシンプルな肯定形との区別がつかず、「子供を作らないとケシカラン!」という物言いも、まるで子供という存在を肯定しているように受け取ってしまうこともある。しかし、その内実としては、子供という存在を否定的に見ているということでしょ?

テレビの報道に対するちょっとしたコメントでも、ダメダメ家庭はますますダメダメになって行くんですね。

(終了)
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発信後記

年明け早々ダメダメ家庭が本当に活躍し始めましたね?
中高生が同級生に援助交際を強要って・・・
加害者の親も勿論ですが、被害者の親も一体全体何やっていたのかな?
R.10/7/11