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カテゴリー ダメダメ家庭の会話の雰囲気
配信日 04年1月14日 (10年6月24日,11年2月18日 記述を追加)
タイトル 名前を使わない
むかし、「itと呼ばれた子」なる本がありました。
私個人は、その本を私は読んでいませんが、itという英語での呼称はともかく、日本においても、それに似た状況が発生しているのを、実際にごらんになった方も多いでしょう。
まさにダメダメな親が、目の前にいる自分の子供を指さして「それ」とか呼んだりするんですね。

自分の子供を「it(それ)」と呼称するのは、比較的レアーな事例なのかもしれませんが、「that(あれ)」とか「this(これ)」という事例は例外的になるのでしょうか?
ダメダメ家庭では、現実的には結構な確率で存在するんじゃないですか?

自分の子供の前で隣人と会話して、子供の話題が出てきたとき、自分の子供を指差し「これは、○○なんだ。」とか、子供がちょっと離れているときには、「あれの場合は、△△だった。」とか言うことは、子供にとって大きな影響があります。文法的にも?価値がありますね。まあ、コレ(=this)とアレ(=that)の使い分けなんて、文法の基本に沿っていると言えるでしょう。しかし、人間関係というか家族関係の基本からは逸脱しているでしょ?

親からのそんな呼称を聞いた子供としては、「thatと呼ばれた我が身」「thisと呼称される自分」を自覚するわけですから、心理的には大きなインパクトですよ。

ダメダメ家庭においては、「it」とか「that」という代名詞呼称で、子供の存在が完全に一般化し、固有の名前がなくなってしまっている。これが、マトモ家庭の親の物言いだったら、「ウチの子供の『太郎』の場合は、☆☆だったわ。」という固有名詞が入った言い方がポピュラーとなっているでしょ?

自分の子供を「it」だろうが、「that」だろうが、「this」だろうが、あるいは「he」とか「she」でも法律的には問題はないわけです。また日本語では「オイ」「コラっ」等々、呼びかける方法は様々のパターンがあるでしょう。
あるいは、法律的に問題がないどころか、法律を志向した呼称もありますよね?
「娘」「息子」「長男」「次女」とかの属称を使うケースです。
ダメダメ家庭の親は、「ウチの次女は・・・」と、その次女を横にして、他の大人に話したりする。
戸籍法の精神にのっとっているのかな?日本国としても、法務省も文部科学省も大満足といえるでしょう。

順法的なダメダメ家庭は、家族での食事の時間でも、名前を使うことをせずに「息子」「娘」とかの一般的な代名詞を使用する。
実際のその娘を前にして、「昨日の娘のあの行動は・・・」と言ったりすることになる。
マトモ家庭の出身者には「そんなことは、ありえないだろう?!」とビックリされるかもしれませんが、ダメダメ家庭では、現実として結構見受けられる光景です。

それこそマルグリット・デュラスの小説「ラ・マン」においても、母親が「子供たち」「息子たち」と代名詞呼称で済ませてしまっている・・・そんな記述がありました。
ちなみに、その舞台となった家庭においては、「会話という言葉は、我々の家族の辞書にはない。」とのこと。
そもそも、長女とか次男とかの代名詞呼称を使っている段階で、会話が弾むわけがないでしょ?それこそ、「おい!次女!今日は学校で何かあったかい?」なんて呼びかけは、文法的には成立しても、会話の精神からは成立しない物言いでしょ?

そんな代名詞呼称ができてしまうということは、その家庭が、いかに会話がない状態なのかを意味している。
名前を呼ばないということは、単に物言いに名前が入っていないというだけでなく、やり取り自体が消失しているんですね。

会話がないからこそ、ますます名前なんてどうでもよくなってしまう。
自分が親となり、子供の名前を考える際にも、「てきとう」になってしまう。

以前に配信いたしましたが、ダメダメ家庭では自分の子供の名前を考えるのもいい加減になってしまう。
そもそも、自分の子供の名前だって、名前を付けたくて付けたわけではないんですから、やり取りにおいて名前を使うのも億劫になっている。
それに、名前をつける側の親自身も、名前に関して楽しい思い出なんて持っていない。
だから、名前について考えるだけで心理的にプレッシャーを持ってしまって、子供の将来をじっくり考えた上で、名前をつけるということができない。

固有の名前がなくなってしまっているということは、その家族の中での、その子供の固有の意味もなくなっているということ。
それこそ次女が死んでも、また次の子供を作って、次女を補充すればいいだけ。
しかし、次女の「花子」が死んだら、花子の代わりはいないでしょ?
逆に言うと、その花子が死んでしまって、次の子供に対して、また花子という名前を使ったら、2番目の花子さんは、その固有性がまったくないことになるでしょ?だって、2番目の花子さんが死んでも、次には、3番目の花子さんに受け渡せばいいだけ。
なんでも画家のヴィンセント・ヴァン・ゴッホのヴィンセントという名前は兄の死去による、2番目のヴァンセントとのことで、その点をあの有名なフロイトさんが指摘しているそうです。
ゴッホの生涯をちょっとでも調べてみれば、このサイトで記述しているダメダメ家庭のメンタリティが「これでもか!」というくらいに出てきますが、「ワタシが死んでも代わりはいるもの・・・」と言うあやうい立ち位置なんだから、「何とかして自分の存在を証明しなくては!」と、必死になってしまうのも当然なんですね。

名前は、その対象者の固有性に直結しているわけで、名前の使い回しとか、あるいは、名前そのものを使わない代名詞呼称では、その子供の固有性が親から認められていないことになる。
つまり、代名詞呼称ばかりの、ダメダメ家庭の親は、自分の子供をその他大勢の一員としてみなしている。
周囲と違いがない「ふつう」の子供であることを理想とし、周囲の子供と見分けがつかないことが理想となっている。
それこそ、ダメダメな親が、自分の娘に対して「次女」と呼称すれば、隣の家庭の次女との間に、言語的に違いはありませんし、中身的に違いがあっては困ると思っている。

名前というのは、その家庭の内実を、実に良く示しているといえます。
2人の子供がいた場合の呼称だって、色々なパターンがあるでしょ?
「子供たち」という一くくりの呼称だったり、「息子と娘」というパターンもある。
あるいは、「息子の○○と、お姉ちゃん」そんなパターンもあるでしょ?
こうなると、その「お姉ちゃん」の側にしてみれば、親の側が、自分を「その他大勢」と認識していることが想定できてきます。つまり、その家庭の男尊女卑の雰囲気が見えてくるわけです。
あるいは、2人とも名前を呼ぶ場合でも、順番の問題もあるでしょ?
やっぱり、普段から気にしている側の名前を先に呼ぶでしょ?

そのようなことは、実は、子供の側の方が鋭敏に察知するものなんですね。
なんと言っても、子供は親よりも弱い立場なんだから、身近にいる強い立場の存在に注目することは当然でしょ?
片方が名前で呼ばれ、もう片方が代名詞で一般化されてしまっていては、代名詞呼称によって固有性を認められていない側が、自らの固有性を認めさせるために、過激なことをするようになってしまう・・・このようなことは心理の流れとしては極めて自然なことですし、現実として起こっていることでしょ?

ちなみに、前回配信の文章でも言及いたしましたが、フランスの映画監督ジャン・ユスターシュの作品「ぼくの小さな恋人たち」では、母親は自分の子供の名前であるダニエルという呼称を1回も使いません。母親は「オイ!」とか「それ」という呼びかけですべて片付けてしまっています。2時間を超える映画なのに、母親は自分の子供の名前を一回も呼ばないわけです。
子供の側も「ママ」とは呼ばないし、母親の方も「ダニエル」と名前で呼ばない。
そんな家庭で育った子供は、長じた後になって自分の親のことを「あの人」なる代名詞で呼ぶことになる。
ダメダメ家庭というものは、暴力が日常化している家庭ということではないんですね。
マトモな家庭にはあるものがない。それがダメダメ家庭です。

1週間のうちに、子供の名前を何回言ったのか?
マトモ家庭では数え切れないほどでしょうが、ダメダメ家庭では「前回、名前を使ったのはいつの頃だったのかなぁ?」という状態になっている。
名前で呼ばれない子供は、当然アイデンティティが崩壊することになります。
代名詞呼称は固有性の否定につながっていて、つまり「代わりがいる」ということ。
そうなると、「代わりがいる」という状態をそのまま受け入れて、自分自身を「その他大勢の一員」と扱うようになるか、あるいは「代わりがいる」という状態を嫌って、過激な自己主張になるかの両極端になってしまう。

自然な形で自己の固有性を持つことができなければ、自分自身との適切な距離を取ることも難しいでしょ?まさに「その他大勢」の「ふつう」になろうと、自分の感情を抑圧してしまったり、自分自身から逃避してしまうようになってしまう。
そして、「ふつう」ということで、「な〜んとなく」結婚し、何も考えずに子供を持ってしまう。
そうやってできた家庭で、子供の名前を呼ぶわけもないでしょ?
しかし、そのように固有性を否定した家庭だからこそ、「ふつう」の家庭といえてしまうし、ある意味において、そんな家庭を作っている当人自身も、「それがふつうだ。」と思っている。

固有性の否定であるがゆえに、「ふつう」となっているのがダメダメ家庭というものであって、それは名前が消失している点に典型的に表れています。
名前を呼ばれない子供は、自分の固有性との付き合い方が自然にできず、かなりの無理をしてしまう。
その無理が事件につながってしまうこともある。
ということで、少年Aとか少女Bとかの代名詞呼称が登場してしまうんですね。

(終了)
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発信後記

次回もフランス映画「ぼくの小さな恋人たち」に関係したお題を取り上げる予定です。
R.11/2/18