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カテゴリー ダメダメ家庭と「いい人」
配信日 04年2月2日 (10年10月18日 記述を追加)
タイトル 善意が目立つ
それこそインターネットの掲示板などで、「熱烈に善意が目立つ」人っていますよね?

「元気を出して!」
「生きていることはすばらしいよ!」
「自分の子供を虐待しちゃダメ!!」

ご立派でもっともなセリフを熱心に語る人。
しかし、そのようなもっともなセリフを読んだ人はどう思うのでしょうか?

「言葉自体に異論はないけど・・・言葉だけじゃあね。」
って、とこでしょ?
一般論ではなく、個別の具体に対して、あるいは、実際の事例に対して効果が必要でしょ?
それこそ、「同情するより金をくれ!」という言葉があったくらいですからね。

何も、インターネットの掲示板に限った話ではありませんね。
対面でのやり取りでも、その手の一般論的な善意を熱く語る人はポピュラーでしょ?

熱く自分の善意を語るだけでなく、他人の弱音を糾弾したりする。
「そんなこと考えちゃダメ!」
「自分の子供を虐待するなんてケダモノ!!」
まあ、意外といらっしゃいますよね?

私個人もこの手の人に糾弾されたことがあります。
その女性(女子高生とのことですが・・・)は「私はこの世界から虐待をなくしたい、と熱心に願っている。」とのことでした。

まあ、それはそれでいいのですが、逆に「虐待をなくしたいと願っている。」こと自体が、ある意味において、その女子高生のダメダメを示しているわけです。

だって、高校生だったら、「願う」だけでなく実際の行動もできるはずでしょ?
それこそお小遣いからカンパするなり、ボランティアをやるなり・・・
そのような具体的な活動から、新たな視点なり、問題意識も出てくるわけでしょ?

その手の一般論的な善意を熱く語る人は、「今までそのような問題が解決されてこなかったのはなぜか?」などと考えたことはあるんでしょうか?「自分がその気になればたちどころに解決!」というものではありませんよね?

それに、インターネットの掲示板まで来ないと、困っている人を見つけられないような鈍感な人では、現実社会において、人なんて助けられないでしょ?

クラスの中だって、近隣だって、困っている人は沢山いますよね?
何故にそのような手短の困っている人を助けないのかな?

実はそのように「善意が目立つ」人に対しては、本当に困っている人は相談を持ちかけないんですね。だって、まさに「一般論的な」「問答無用の正論」で説教されるのは目に見えていますものね。
それこそ弱音を吐こうとするものなら、「だらしない!」と一喝されるだけですよ。

「ねえ、浮かない顔ねぇ・・・何か困ったことあるの?」
『ううん・・・ありがとう。何でもないの・・・』
まあ、よくある会話ですよね?
しかし、善意が目立つ人は、その「何でもないの。」という言葉で納得しちゃうんですね。
しかし、もともとは、その友人が「浮かない顔」をしていたから、その人なりの善意で声をかけたんじゃないの?

「何でもないの。」と回答した人の真意は、「アナタに言ってもしょうがないし・・・」、あるいは「アナタに迷惑をかけたくないの・・・」ということですよね?

本当に「何でもない。」のなら、「ちょっと頭が痛くて・・・」とか、「おなかが空いているのよ・・・」とか、「宿題忘れちゃった。」とかの回答でしょ?
「何でもない。」という回答は「何でもない。」という意味ではないんですね。
ただ、「善意が目立つ」人は、そのあたりがわからない。

だから本当に困っている人は、「善意が目立つ」人には相談しないんですね。
近場に困っている人を見つけられない「善意の人」は、だからこそインターネットの掲示板などに出向いて、困っている人を探そうとするわけです。

そして自分の善意を熱烈に語ることになる。
善意を語るわけですので、言葉自体は問題がありません。
問題が無いだけでなく、立派な言葉が並んでいるわけですので、賞賛を浴びたりする。
しかし、ここでも人の弱音を非難して盛り上がることになる。

だから、ますます善意が目立つことになるわけです。

本当に自殺とか虐待を防止したいと思って、掲示板に書き込みをしているのだったら、自分の電話番号を書いた方が効果的でしょ?
せめて、メールアドレスくらいは書いておいてもいいのでは?
「何かあったらいつでも電話してねっ!」「困っていたらメールをください。」って・・・
しかし、そのようなことは決して行わない。その手の人は常に安全圏にいて、そこから熱く語るだけ。
しかし、リスクのないところに効果などありませんよね?

そしてどこに行っても立派な言葉を熱く語り、人の弱音を糾弾することになる。
逆に言うと、この手の人は「語る」ことが目的であって、事態を改善することはどうでもいいわけ。

これがインターネットの掲示板だけだったら、まだ問題なんてそれほどありません。
しかし、そのような人が家庭を持ったりしたら?

本来は、家庭なんて、もっとも自由に弱音を言えるところでしょ?
弱音というか、外では言えない本音も言えるところでしょ?
ところが熱烈に善意を語る人は、決して自分の子供も弱音は吐かせないわけです。
だって今まで弱音を吐いている人なんて見たことないわけですしね。

このような家庭内から弱音や本音が消えている家庭・・・そんな姿はダメダメ家庭そのものでしょ?
結局は、善意を語るその家族に対して、他の家族の側は、「私は大丈夫!」って演技することになるわけです。
困っていても相談できないわけ。
本当に困っている人は、ちゃんと自分を助けてくれる人しか相談しないものです。

インドにいらっしゃったマザー・テレサは自分自身の善意を熱く語ったでしょうか?
むしろ、困っている人がどんどん、むこうからやってきたというのが実情でしょう?
「有言実行」とか「不言実行」とか色々と言葉がありますが、実行することがまず第一ですよね?そして、相手から「信頼」を持たれることが必要でしょ?

熱烈に自分の善意を語る人・・・このような人は、周囲に対して善意を語り続けるだけなんですね。その横で自分の子供が何を考えているのか?全く推し量ろうともせずに。

そういえば、以前、東京の文京区で幼稚園児を殺害した主婦がいらっしゃいましたよね?
お坊さんの奥さんでした。
その殺人を犯した女性、あるいはその周囲の女性の問題はさておき、亭主のお坊さんは一体全体何やっていたのでしょうか?

しかし、そのお坊さんは仕事として、常に「ありがたい善意」を語っていたわけでしょ?あるいは「御仏の慈悲」ですか?
自分の善意を語り続けられる人は、善意が必要とされる現場のことは全く知らない・・・あの事件は、典型的な事件といえるわけです。

あるいは先日の大阪の事件(大阪の事件といっても沢山ありますが、長男を虐待した最近の事件)でも、児童相談施設や学校に抗議の電話をかけた人も多くいたそうです。あるいは逆に励ましのお便りの人もいたそうな・・・
励ましはともかく、抗議しても今更どうしようもありませんよね?

それより重要なのは、例えば自分の子供に向かって「オマエの周囲で、何か困っていそうなクラスメートはいないかい?」とか聞いたりして、今回の事件について色々と話をしたりすることですよね?

抗議の電話をした人・・・あるいは励ましもそうですが・・・今回の事件について自分の子供と話をしたのでしょうか?あるいは身近に自分にできることはないか自問したでしょうか?
ダメダメ家庭では、子供の前では「ケシカラン!!」とプンプンしていただけの親も多かったでしょ?

それこそ、虐待事件があったら、親を糾弾することは熱心。
かと言って、糾弾以外は何もしない。
むしろ、糾弾する自分に酔っているだけ。

抗議とか励ましもハデな行為で自分自身の「善意」に酔うことができます。
しかし、抗議の電話をかけている横で、自分の子供が何を考え、何に困っているか?考えていないのがダメダメ家庭ですね。

それに、その人の善意が目立つということは、逆に言うと、その人の能力なり実績は見えてこないということでしょ?
困っている人にとって本当に頼りになるのは、能力なり、それに基づいた実績ですよ。
「ワタシはこんな能力があるし、今までこんな問題を解決してきたよ。だから、この面で困った時は、ワタシに連絡してよ。」そのような申し出こそが、困っている人にとって必要でしょ?

「ワタシはアナタたちを助けたいのよ!」
「ワタシはいい人なのよ!」
そんな主張そのものが、その人が、何も助けにならないことを、十分に語っているわけ。
それこそ、映画「マイ・フェア・レイディ」でのフレディのように、「恋に恋する」ように、自分の善意に酔っているだけ。

そんな人は、人助けができる状況においても、「してあげる」という意識を持っている。
だから、相手先の問題よりも、自分の持ち出しの分に目が行ってしまう。
だから、安全圏から出ようとしない。だから、実際のアクションにはつながらない。

そんな人は、自己都合優先のスタイルで、サポートを申し出たりする。
申し出るというか、サポートの用意を声高らかに宣言するという趣になっている。
「ああ!ワタシは人助けをしたいのよ!」
私宛てのメールにそんな文言があったこともあります。

そんな熱い人に対して、『そんなに人助けをしたいのなら、この私が依頼したいことがあるけど、やってくれる?』と聞いても、まったく無視。
そして、「ああ!この燃え盛るワタシの善意をぶつけたいわ!」と、ますます熱くなる。そして、「どこかに困っている人はいないのかしら?」と、やっぱり熱く燃え上がる。

と言うことで、私としても、『だから、この私が助けてほしいと言っているんだけど・・・』と言っても、「フンっ、そんなツマラナイことではなく、もっともっとかわいそうな人たちを助けたいのよ!」と、恍惚の表情。
そして、「以前に、○○の人を助けようとしたんだけど、全然聞いてくれないわ!ホント、困ったものだわ!あの人たちはどうしたらわかってくれるのかしら?」と、被害話になってしまう。「助けてあげる」という感覚には、自分の持ち出しが意識されているわけですから、その背景として被害者意識がある。前にも書いていますが、「わざわざ助けてアゲル」という感覚なんだから、サポートの相手先よりも、自分の持ち出しばかりに目が行っているわけ。
そして、自分の持ち出しに対して、相手が配慮しなかったら、今度は怒り出すことになる。

まあ、そんな自己都合で善意を語る人のサポートをヘタに受けてしまったら、結局はメチャクチャにされ、挙句の果てに、「せっかく、このワタシが助けてやったのに・・・どうして感謝してくれないの?!キーっ!」と逆上されてしまうのは、火を見るよりも明らかでしょ?
というよりも、たとえば神奈川県での福祉施設のように、放火事件などになってしまうだけですよ。あるいは、別のところで取り上げておりますが、映画「愛は霧のかなたに」での主人公ダイアン・フォッシーさんが典型的にそのキャラクター。実際にそんな人もいるんですよ。

このサイトではダメダメ家庭の人間は、「信頼と好意の区別ができない」ことを頻繁に書いていますが、自分に信念や覚悟があるのなら、周囲の人に対して語り、そして理解してもらうことも必要でしょう。そして相互理解に達し、それが信頼となるわけでしょ?

逆に、善意を熱く語る人は、相互理解ではなく、周囲の人から好意を得ることを志向しているとみることができるでしょ?好意は得ても信頼にはつながりませんよ。
つまり、善意が目立つ人は、ダメダメ人間なんですね。

「常日頃から立派な善意を語るから、あの人は立派な人だ。」
ボンクラな人はそのように判断してしまうわけですが、善意を語る人は、能力や実績やあるいはその人の信念や覚悟を語れない・・・そのように見た方が、その人の実態を理解しやすいわけ。
それこそ災害地に千羽鶴を送って、自分の善意に酔っている人は、逆に言うと、千羽鶴以外のことができない・・・そのように見た方が実態をよく表しているわけ。

その種の善意は、被害者意識と近く、それだけ、自分からの持ち出しに対して、過剰な意識があるもの。
善意を熱く語る人と、やり取りをしても、結果的に不毛なだけでなく、実に危険なんですね。

(終了)
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発信後記

今回の文章をお読みになられて「じゃあ、オマエは何なんだ?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが・・・私は基本的に善意も悪意もないニュートラルな文章にしたいと考えています。お説教やあるいは小説ではなく、辞書やマニュアル集のようなスタイルです。

まあ、私の文章から多くの小説や映画をつくることができるでしょうが、私個人はとりあえずネタの提供ですね。
R.10/10/18