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カテゴリー | ダメダメ家庭と学校 |
配信日 | 04年2月16日 (10年8月24日,10年9月19日 記述を追加) |
タイトル | 子供の作品を酷評する |
学校ですと、ペーパーテストの成績は数字となって現れてきます。国語とか算数など試験の成績は客観的な形で出るものです。その成果を論評しアドヴァイスを与えること、それは多くの親が行うことですよね? まあ、ペーパーテストの成績は数字で出てきますので、論評も簡単ですし、その論評も客観的なものにすることができる。 「次回のテストでは、あと10点くらいいい点を取りなさい。」とか・・・ このような場合は、そのコメントを聞いた子供の側も納得しやすい。 「じゃあ、次回はもっとがんばろう!」と思うだけです。 しかし、学校の成績はペーパーテストだけではありませんよね?工作で作ったものとか、音楽での演奏の成績などもありますよね? 工作・・・あるいは図画・・・あるいは音楽・・・このような「曲がりなりにも」芸術表現に属するような成果物は、客観的な数字で成果が出ない分、より論評者の感想は自由となります。 ダメダメ家庭では実に手厳しく、このような子供の「作品」を論評するわけです。 「何なの?この色使い!!」「アンタが工作で作ったこの貯金箱って、形がヘンだわ!」「ひっどい輪郭だなぁ・・・」次々と酷評されたら、それがどのような可能性を秘めたものであっても、その図画や工作についての興味を喪失するでしょう? そして、このようなある種の「芸術」、つまり初期の「自己表現」を叩くことによって、子供は自己表現に臆病になってくるわけです。 これは工作のような造型に関するものだけでなく、音楽でも、あるいは国語においての作文でも同じですよね?読書感想文を読んで酷評するだけで、影響があるわけです。 「何なの?この読書感想文は?この本はそんなこと言っている本じゃないのよ!」 「全く・・・感想文に何てこと書くのかしら!? 私は恥ずかしいわ!!」というわけです。 音楽だって「まあ、なんて、ヘタな歌!一体、誰に似たのかしら?」と、呆れ顔で論評。 まさに「出る杭は打たれる。」状態ですね。 子供が制作した作品をどのように論評しようと、自由であり、勿論のこと合法的なことです。 どんなひどい論評であろうと、あるいは、的外れの論評であろうと、親の権利の範疇といえるでしょう。だから、親の正当な権利として、考えもなしに論評し、子供を傷つけることになる。 オマケにダメダメ家庭の親は、普段から子供が何を考えたりしているのかについて考慮していないので、学校における子供なりの自己表現も、「何なの、コレ??」とあっさり否定しちゃうわけです。本来は子供なりの考えもあったりするものですが、ダメダメ家庭ではそんなことはお構いなし。 無邪気に学校の工作での「作品」を親に見せた後で、「何なの?ひっどいわねぇ・・・」という返事が返ってくる。 こうなると、もう子供は自己表現自体に臆病になるわけですね。ダメダメ家庭にお約束のコミュニケーション能力の低さが、こうやって進展していくわけです。 そんな酷評を受け続けた子供は、手厳しい批評を親から受けないように、「無難に」「普通に」と周囲の子供をマネするようになる。そして、親から何か言ってきたら「だってぇ・・・ミンナも、こんな感じだよ。」と言えるようにするわけ。まさに、目立たぬように・・・なんですね。 こうなると自己表現どころか、自己埋没作業ですよ。 自己表現を諦めた子供は、親として扱いがラクになります。子供としては、表現することを閉ざされてしまった状態の中では「自己」にこだわることよりも、表現したい「自己」を喪失した方がストレスも低くなりますよね? まあ、「ふつう」という言葉を常用し、人に合わせているだけの存在になるわけです。 もうこうなったら、後の結果は見えていますが・・・ だって自己を喪失する訓練の成果なんて決まっているでしょ? 前にも書いておりますが、子供の作品を、親として、どのようにコメントしようと、まあ、法律的に自由でしょう。 どうせ、子供の作品なんだから、権威筋が認定しているわけもない。 どこかの流派に属していたり、注目すべき技法とかがあるわけではなく、その点を踏まえたコメントをしなくてはならないというものではない。だから、そのコメントにおいて、正しいコメントのようなものもなければ、「間違った」コメントもない。子供の作品に対して、どのような視点で臨もうと、受け手の自由ですよ。 しかし、逆に言うと、その自由なところが、抑圧的なダメダメ人間にしてみればプレッシャーになったりすることもあるわけ。 自分で認識し、自分で考えることをせず、ただ、人に合わせているだけのダメダメ人間としては、「作品」に対するコメントも、「て・き・と・う」に、人に合わせているだけで済ませたいわけ。 いわば、ありきたりの規格品的な感想を、出しておくだけで済ませたい。 抑圧的なダメダメ人間は、作品へコメントするような状況においては、自分のコメントで人から笑われるというマイナスへの警戒が先にたち、自分なりの感想を表明する習慣を持っていない。自分が発する感想においても、規格品的な、「ふつう」を求めてしまうわけ。 逆に言うと、子供の作品に対する感想なり論評は、規格品的なものがないでしょ? それこそ、有名なドラマでも見た後だったら、「感動した!」「泣きました!」「すっごくいいわ!」「○○様の演技がステキ!」のとかの、事前に用意された、とおりがいい感想があったりするもの。 つまり、周囲のみんなが絶賛しているような作品だと、その絶賛の言葉に合わせていればいいだけなので、リラックスできるわけ。それに対して、子供の作品に対する感想は、事前に用意されたものがないでしょ? 本来なら、的確無比な論評でなくても、子供が作った作品を前にして、自分の子供と会話すればいいだけ。 「ここの部分は、どうしてこの色を使ったの?」 「この文章を書いていたときには、どんなことを考えていたの?」 そんな感じで、自分の子供に聞けばいいだけ。 そういう意味では、周囲が絶賛しているような既製品の作品を論評するよりもラクですよ。何と言っても、「作者」が目の前にいるわけですからね。 しかし、別のところで集中的に書いていますが、「他者という存在」を心理的に認識できない抑圧的な人間は、自分の子供とフランクに会話することも難しいわけ。オマケにダメダメ家庭の親は、会話の能力も意欲もない。そんな親にしてみれば、子供との間で「命令と服従の関係」は構築できても、会話によって、相互理解を達成し、そして信頼関係を作っていくことはできない。 子供なりの表現意欲も、子供なりの問題意識も知らないし、子供の作品なので、その作品への感想も、事前に用意された規格品的なものがあるわけでもない。 そのようなことがあるので、子供の「作品」を見せられると、心理的なプレッシャーを感じ、むしろ逆上気味になってしまう。 だからこそ、「な〜に、コレ?ヘンなの!」と一刀両断してしまうわけ。 ヘタをすれば、「ワタシにプレッシャーを与えるコイツなんて見たくない!」と、子供の制作した作品をゴミ箱にポイっということをやってしまう。 自分の制作した作品がそんな扱いを受けたら、子供としては、どんな気持ちになるの? まさに「次に捨てられるのは、ワタシの番だ!」と戦々恐々となってしまうでしょ?子供の側としては「親の意向に合わせないとタイヘンなことになってしまう!」と切羽詰ってしまう。そんな日々だったら、子供の側からトラブルになりますよ。 しかし、子供だけでなく、親の側も切羽詰っているわけ。 「人に合わせないといけない!」と切羽詰って生きている抑圧的な人間は、評価の定まっているものには対応できても、評価の定まっていないものには、心理的なプレッシャーを持ってしまう。 たとえば、序列意識が強い人間にしてみれば、自分との序列関係が定まっていない相手とやり取りをするだけで、プレッシャーになってしまう。作品へのコメントにおいても、作品の「位置づけ」が定まっていないと、どんな反応をしていいのか分からずに、プレッシャーになるわけ。だからこそ、過激な反応になってしまう。 以前に東京の漫画家さんの邸宅に対し執拗に抗議した女性がいましたが、その「抗議の女性」には、「評価の定まっていない作品」に対する心理的なプレッシャーがあるんですね。 オマケに、ダメダメ家庭では子供っぽいものは許されない。 まさに、諸般の事情に配慮できる「大人」になることを求められる。 だからこそ、臆面もない子供っぽいものを見せられると、心理的なプレッシャーになるわけ。 だからこそ、その「子供っぽい作品」を、いわば強迫的に叩こうとすることになる。 子供が制作した作品は、まさに作者が目の前にいるわけだから、その「作者」の意図を確認することは簡単でしょ? しかし、逆に言うと、それが恐怖感に繋がったりする。 作品に込められた、作者というか子供の意図なり感情なり希望なり不満・・・そのようなものを、親として、あるいは教師として見たくないと思っている。 学校においては、その手の作品を制作することは授業の一環といえるでしょう。だから、対応にあたっても、「それなりの」決まった型もある。しかし、その対応にあたって、型がまったくないようなものには対応ができないわけ。だからこそ、心理的にプレッシャーになってしまう。 それこそ子供が家で絵を描いたり、他愛のない自作の御伽噺を作ったり、あるいは、漫画でも制作した場合には、その手の作品を、酷評し、笑い飛ばし、子供の表現意欲をそごうとするわけ。 親としては、作品に込められた子供の心情そのものを見せられるのが怖いので、そのような「見せられる」事態を早めに回避しようとするわけです。 ちなみに、このような「表現を叩く」のはダメダメ家庭だけでなく、ダメダメ教師やダメダメ学校でもやりますよね? ダメダメ家庭の親は、自分の子供がダメダメ学校に通っていて、学校で精神的に不快な思いをしていても平気。そして、その感情を表現することを押さえつけようとする。子供としては家庭のダメダメと学校のダメダメで、まさに出口なしの状況になるわけです。 こうなると、「非行に走るな!」とか「自殺するな!」という方が無理な要求ですよね? (終了) *************************************************** 発信後記 このメールマガジンは基本的に「質より量」をモットーとしています。 子供時代の「モヤモヤ」を、できる限り多く言葉にしていく。 それがコンセプトですね。 当然、育った家庭環境によって、該当するもの、しないもの色々とあると思います。 また同意するもの。同意しないもの色々とあるでしょう・・・ しかし、とにもかくにも言葉にしないと、考えることもできませんよね? ただの「モヤモヤ」だけだったら、同じ種族?同士でないとわかりませんもの。 まあ、今回のお題は該当者も多いと思いますが・・・ |
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R.10/9/19 |