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カテゴリー ダメダメ家庭は嘆き節がいっぱい!
配信日 04年3月5日 (10年10月26日 記述を追加)
タイトル 周囲に自分の子供の出来の悪さを語る
自分の子供は出来のいい方がいいのか?
出来の悪い方がいいのか?

「アンタはバカなの?そんなことわかりきっているじゃないの!出来のいい方がいいに決まっているわ!!」

勿論そうですよね?
出来のいい子供を持った親は幸福ですよね?
しかし、「幸福な親」と「立派な親」は違います。

出来のいい子供を育てるのは誰だって出来ます。しかし、出来の悪い子供を育て上げるのは、誰だって出来るものじゃないでしょ?
「出来の悪い子供を苦労しながら育て上げること・・・これぞまさに立派な親の姿じゃないの?」

と言うことで、ダメダメ家庭の親は自分の子供が「いかに出来の悪いか」周囲に説明していくことになります。

「全くウチの子はどうしようもなくて・・・」
「お宅のお子さんは出来がよくてうらやましいですわ!」
それをご丁寧に自分の子供の前でやったりする。
また、自分の子供がその場にいなかったら、そのような話を後で丁寧に説明したりする。

「○○さんにアンタのことを話したんだよ。『そんなにヒドイの?』って同情されちゃったわ。」「全くアンタの出来損ないぶりは、ご近所の方も驚いていたよ。」
会話の内容を正確に伝えるだけですので、法律には触れませんよね?

自分の子供の出来の悪さは、その出来の悪い子供を養育している親の立派さにつながっている。ダメダメ家庭の考える「立派な親」というものはそんな感じなんですね。
「子育てで自分がいかに苦労しているのか!」
その苦労を周囲に印象つけたりするわけです。勿論、自分の子供に対しても「子育ての苦労」を強く印象つける。
「おお!私はこんなに苦労しながらも、けなげに子育てをしている立派な親だ!!」
「我が子よ!立派な私を尊敬しなさい!!」

まあ、確かに子育てで苦労することもあるでしょう。しかし、「出来の悪い」子供と言われ続けたら、子供はどうなるでしょうか?

周囲から「ああ!親御さんを泣かせる極道息子がやってきた!」と言わせたいのかな?
それとも「聞いたぁ?奥さん!あの娘さんがこんなことしているんだってぇ・・・」と周囲から噂してもらいたいのかな?
「あのお子さんのおかげで○○さん、困っていらっしゃったわよ!!」
きっとご近所で評判になりますよね?
こうなると、まさに、名実ともに出来の悪い子供になることは自明ですよね?

ダメダメ家庭はやたらグチを言いたがる。まあ、唯一の楽しみなんでしょう。
自分の子供の出来の悪さも一種のグチでもあるわけです。
なんと言っても周囲にグチが言えるし、子供にもグチが言える。一回で2度おいしいネタと言えます。
と同時に、親としての自分の立派さの主張なんですね。
「出来のいい子供を育てるのはアンタたちのような誰でも出来る。出来の悪い子供を育てているワタシは立派だ!!」

しかし、子供の出来の悪さを語ることの結果として訪れるのは、子供が本当に出来が悪くなることと、子育ての苦労が深刻化することですよね?
しかし、グチというか、苦労自慢や不幸自慢しか人に語ることがないダメダメ人間にしてみれば、まさにそれゆえに、子供の出来の悪さを語ることになるし、そんなシチュエーションを求めることになる。

たとえば、身体障害者の子供を育てている親は立派と言われますよね?
当然のこととして、健常者の子供より親御さんとしては苦労も多いでしょう。
それと同じような理屈で、「出来の悪い、いわば『人格障害者』の子供を育てている親も立派なんだ!!」

しかし、そう・・・なのかな?
身体障害者の場合は親が望んでなったものではありませんよね?
しかし、人格障害者(=出来の悪い)子供は親によって作られたわけじゃないの?少なくともその要因の一端は担っているわけでしょ?
そんなことについて何も考えずに、子供の出来の悪さをますます周囲に語ることになる。一種自慢げに。そして、高らかに嘆きの声を上げることになる。
「ああ!子育てって、なんて大変なの?!」
「こんなに苦労して子供を育てているワタシって、なんて立派なの?!」
「ウチの子は、こんなにもダメダメなのよ!」

ダメダメ家庭の人間は被害者意識が強い。
単に被害者意識が強いということよりも、「自分がかわいそうな被害者である。」ことが唯一のアイデンティティになっているわけ。
だから、子育てによる苦労なり被害を、周囲の人に対して語りたいと思う。それによって、親としてのアイデンティティを主張しているわけ。

だからこそ、ヘタに自分の子供を褒められてしまうと、被害者としての自分のアイデンティティを否定されたように感じ、怒り出す。
「何を言っているの?ウチの子はどうしよもないダメな子だよ!」
「わかってもいないくせに、ヘンなことを言わないでよ!」
逆に言うと、そのように言えるようにしておきたい。

だからこそ、あら探しの視点で自分の子供を見ることになる。
「こんな欠点がある。」「あんな問題点がる。」そんなあら探しばかり。
かと言って、子供のその欠点を親として修正しようとは考えない。
だって、そのような問題点なり欠点は、子供の出来の悪さであり、それはすなわち、親である自分にとっての被害であり、それゆえに、自分のアイデンティティに繋がっているわけですからね。

自分の子供の問題点を修正したりカバーするのではなく、それを主張しやすいシチュエーションを求めることになる。
だからこそ、たとえば自分の子供に身体的な障害があったら、そのハンディキャップに対応した学校に入れるのではなく、「ふつう」学校に強引に進学させようとするわけ。
そんな「ふつう」学校なら、まさに「身体障害者」の子供を持った親の苦労なり被害を存分に語れるでしょ?

その親が、被害を語るのはいいとして、そんな「ふつう」学校に放り込まれた子供の側はハンディキャップとの付き合い方が習得できず、独り立ちから遠くなるばかり。
しかし、それゆえに、親の側はますます「出来の悪い」子供を持った被害を語ることになる。

あるいは、子供が複数いれば、そのうちで、できの悪い方が、親としての存在証明に繋がるわけだから、盛んに言及することになる。しかし、兄弟のうちで出来の悪い方に盛んに言及しても、問題を修正する発想はない。
ただ、嘆いているだけ。
そんな親の姿を見せられれば、出来のいい方も「親から、あのように言われないようにしよう・・・」とビビってしまって、切羽詰った心情になってしまうでしょ?
そんな切羽詰っているがゆえに、実際にトラブルになってしまう。
結局は、兄弟そろって、親のグチのネタになってしまうわけ。
そうして、ますます子供の精神は荒廃していくわけです。
そうしてますます親は子供の出来の悪さを熱く語ることになる。

それに、日頃から子供の出来の悪さを語っているので、その家庭がうまくいかないのは子供のせいとなってしまう。
常識的には、そんな出来の悪い子供にしてしまった親としての問題点に注目されたりするものですが、ダメダメな環境だとそんなグチが通ってしまい、むしろ同情を受けるだけ。
その同情に力を得て、ますますグチることになる。
そして、諸悪の根源は、出来の悪い子供の側であることが、家庭内外で定説となってしまう。

そして、そのことを、その家庭の親自身も、そして子供も、そして周囲も当然のこととして、受け入れてしまう。だから何も改善されることはないわけ。自分の子供の出来の悪さを執拗に語る人は、逆に言うと、それを語れないと何も語るものがないわけ。だからこそ、もっともっと語れるように行動するわけです。

(終了)
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発信後記

なんとなくウィルスに攻撃されたようなので、メールマガジン用のメールアドレスを変更いたしました。
しばらくは従来のアドレスも残しておきますが、できれば新しいアドレスまでよろしくお願いいたします。
R.10/10/26