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カテゴリー | ダメダメ家庭にないもの |
配信日 | 04年3月31日 (10年8月16日,10年12月1日 記述を追加) |
タイトル | 写真がない |
友人からの年賀状で、その人の子供が写っているのが結構ありますよね? あるいは、そのような友人の家に行ったりすると、家族のアルバムを得意げに見せられることになる。 見せられる方は、正直言うと、たまったものではない。 家族の写真なんて当人たちには面白いものなんでしょうが、無関係な人間にしてみれば興味もないし・・・ 否定的コメントを出すわけにはいかないし、何と言ったらいいのかわからない状況ですよね? しかし、友人の家族のアルバムを見せられて困惑した人間も、逆の立場に立つと、他人に対して、自分の家のアルバムをうれしそうに見せたりする。 まあ、「自分がやられてうれしくないことは、人に対して行ってはならない。」というのが人間関係の基本です。 他人に自分の家のアルバムを延々と見せるというような迷惑行為はご法度ですよね? 基本的には・・・ しかし、世の中には許される迷惑行為というものがあって、「他人に自分の家のアルバムを見せる。」という迷惑も、この種の許される迷惑行為に属するものになるわけです。 なぜって? 皆がやっているから? 勿論、皆がやっているということもありますが、そのような迷惑行為をしない親は、周囲に別の迷惑をかけるわけです。 たとえば昨年に長崎県で起こった児童殺傷事件(中学生がビルから幼児を突き落とした事件)の家庭は、知人に自分の家のアルバムを得意げに見せたでしょうか? ちょっと考えられませんよね? 「そういう意味」では、あの家庭は、迷惑はかけていないわけです。 また、あの家族は、その犯人の中学生が生まれた時からの写真をアルバムに整理して、時折取り出し、家族で見ながら、そのアルバムを元におしゃべりでもしていたのでしょうか? それも、ちょっと考えられないでしょ? 以前に配信いたしました「イヴェントが少ない」というお題の文章でも触れましたが、ダメダメ家庭では家族の写真が少ない。 そもそも写真を撮っても、後で家族で見たりするようなこともないので、結局は撮らなくなるわけです。何かハコの中に古ぼけた写真が乱雑に入っているだけになってしまうんですね。 もう、そうなってしまうと、新たな写真も撮ることもなくなります。 大体において、ダメダメ家庭では家族での楽しいイヴェントなどありませんから、後で思い出す時のために・・・なんて写真を撮ることはない。 思い出しても不快なことばかり・・・というのがダメダメ家庭というもの。 ちなみに、後進国(あえてこう書きますが)の子供への援助を行っている人によりますと、このような悲惨な後進国の子供は、写真を撮られるときに顔が引きつるのだそうです。 写真に撮られることに慣れていないので、緊張するそうなんですね。 同じようなことは日本のダメダメ家庭の子供にも言えますよね? ダメダメ家庭の子供は写真に撮られることに慣れていないので、顔がこわばってしまう。 ダメダメ家庭の子供を判別するのに、使える方法です。 その点に関して言えば、ヴィンセント・ギャロさんの「バッファロー‘66」という映画でもそんなシーンがありました。 そもそも、実家には子供の写真がないし、写真を撮るとなっても、自動式のコイン写真で撮ったりするんですね。それも顔がこわばったりする。写真とは無縁のダメダメ家庭の人間に典型的な姿といえます。 また「ワタシの子供が尋ねてこない。ウチの子供は親不幸ものだ!」と周囲にグチる親に限って、居間に家族の写真を飾るようなことはしない。「残された?」家族で、適宜アルバムを取り出して、没交渉状態の子供の写真を見るようなこともしない。親の方から子供のことを忘れているんですね。 それなのに周囲にグチるわけ。 「子供が尋ねて来ない。」とグチられたら、ちょっと家の中を見てみたら面白いですよ。 これだったら子供もこの家には来たくはなくなるだろうなぁ・・・と思えるような家庭ばかりですもの。 ということで、子供の写真を楽しそうに見せる迷惑行為も、それをしない家庭が行う迷惑よりははるかにマシなんですね。 写真というのは、まさにその時間を肯定的に見ているからこそ、それを、何らかの形で「残したい」と思うから、撮るわけでしょ? あるいは、写真に写っている人物を肯定的に見ているからこそ、その姿を残しておきたいと思うわけでしょ? 逆に言うと、その時間なり人物を肯定的に見ていなければ、写真なんて撮りませんよ。 つまり、写真がないということは、家族で過ごした時間なり、その日々における家族そのものを肯定的に見ていないということ。 家族で一緒に過ごした時間を肯定していない家族なんだから、そんな家族が上手く行くわけがないじゃないの? 写真を撮るとお金がかかってしまうという発想もあるわけですが、そこまでお金にケチっているのなら、子供なんて作ってはダメでしょ? しかし、写真を撮るのをケチる家庭でも、子供は作ってしまう。 それって、避妊具を買うのをケチって、子供ができてしまうようなもの。 そんな子供が大切に扱われるわけがないでしょ? 写真というのはその家庭の実態をよく表していますよね?例えば、結婚するような段階になったら、相手の家に行くでしょ? そのとき、アルバムを見せてもらうと色々とわかるわけです。 そもそもアルバムもないようなダメダメ家庭もある。 ああ、このアルバムをもう何年も見ていないなぁ・・・と歴然としているようなアルバムもある。 アルバムがあったとしても、その写真を説明する相手の親の表情から、相手の家庭環境がスグにわかるわけです。 一体誰が説明するのか?どのように説明するのか? 相手の家族のことが実によくわかりますよ。 祖母さんが一番元気に説明する家庭は要注意ですよね? 家族の写真というものは、写真そのものよりも、その写真を元にしての家族のおしゃべりに意味があるわけでしょ?そして、そのおしゃべりが家族の結び付きを作っていくわけでしょ? たとえ、物理的に写真が存在していても、その写真を元に家族が一回も話をしたことがないのなら、その写真は純然たる記録であって、記憶にはなりませんよ。 「オマエが生まれたばかりの頃に撮った写真だ!」と、古ぼけた写真を猪突に見せられて、「だから、オマエとワタシは親子なんだよ。」「これが証拠だ!」と言われても対応に困るでしょ? 生まれたばかりの頃の自分が写っている写真を、よく取りだして、その写真を元に色々と話をしている家族だったら、「だから、オマエとワタシは親子なんだよ。」と、その時点であえて言う必要もないんじゃないの? 自分の生まれたばかりの頃の姿を称する写真が、猪突に登場しても、「へぇ・・・こんな写真があったんだねぇ・・・」となるだけですよ。 そもそも、「生まれたばかりの頃」の姿なんて、誰でもそんなに変わるものではないでしょ?写真そのものよりも、その写真から生まれる会話こそに意味があるわけでしょ? しかし、ダメダメ家庭においては、写真は記憶のネタというよりも、記録という位置づけに近い。まさに証拠写真となるわけ。 だから、子供の生まれたばかりの姿を、証拠にして、「だから、オマエとワタシは親子なんだ。」と結論付けるわけ。 しかし、それこそ、大人になってDNA検査をして、親子とわかったとかの話もありますが、そんな検査に意味があるのは、それまでに面識がなかったからでしょ? 子供の頃から、同じ家に住んでいて、「DNA検査をして、オマエとワタシは親子だとわかったぞ!」と成人後に言われても対処ができませんよ。 ダメダメ家庭においては、写真というものは、記憶につながるものではないんですね。 家族の記憶とか、日々の記憶を残し、それを元に、おしゃべりをしていくというものではないわけ。 免許証の写真のように本人確認としての位置づけであって、純然たる記録の範疇にあるもの。 だから、そんな写真からは、記憶につながることはない。 所詮は、本人確認という位置づけなので、写真を取りだして家族で話をすることもない。 結局は、写真などは撮らなくなるし、どこにあるのかも分からなくなってしまうし、写真を説明する話しぶりもぎこちない。 逆に言うと、その点をチェックすれば、結婚相手の出身家庭についても、よくわかるものなんですよ。 このような当然のことをやっていれば、まさかドメスティック・ヴァイオレンスにあうようなことはなくなるわけです。 まあ、そのような当然のことをしなかったり、できなかったりするので、ダメダメ家庭出身者は色々な事件に巻き込まれてしまうわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 前回と前々回の「相談」ネタですが・・・ 頭カラッポのオヤジやオバン・・・という表現が気に障った人がいらっしゃったようですね。 ネタ自体は穏当なものだと思いますが、表現が過激だったかな? |
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R.10/12/1 |