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カテゴリー ダメダメな親は子供に求めているばかり
配信日 04年4月14日 (10年11月14日 記述を追加)
タイトル 産んでもらった事への感謝を要求する
「人間は生きているだけで素晴らしい存在なんだ!」
その言葉によって、「生きている」状態からむしろ遠のくことについては、以前に配信いたしました。

今回の文章においては、ダメダメな親がよくいうセリフである、「オレたちがいたからこそ、オマエは産まれたんだ!オレたちに感謝しろ!産んでもらったことを感謝しろ!」というセリフを取り上げてみましょう。

ダメダメ家庭ではよく聞かれる言葉ですよね?
決して「育ててもらったことを感謝しろ!」とは言わない。サスガに、子供を「作る」ことは簡単に出来ても、子供を「育てる」ことを十分にできたとは言えない事は、ダメダメな親だって無意識的には分かっているんでしょうね。

しかし、子供としては、この手の感謝を、命令されてもどのように対応すればいいの?
その感謝を要求された子供は「ウンウン」と生返事して、うなずくだけでしょう?
あるいは、無言になってしまう方がポピュラーといえるでしょう。
他に何かしようがあるの?

しかし、ダメダメな親ほど、「産んでやったことについての感謝」を子供に要求するものでしょ?しかし、それは、別の言い方をすると「産んでやった」こと以外は何もしていないし、誇るものがないということでしょ?
しかし、親という存在の本当の価値は、子供を「産んだ」ことではなくて、子供を「育てた」ことじゃないの?
子供を産むだけだったら、ミミズだって、オケラだって、アメンボだって出来るんですからネ。まあ、この場合は卵になるのかな?
子供を「産んだ」ことで満足してしまっている状態は、子供を「育てる」意欲のなさを示しているわけですし、「育て上げた」実績のなさも示しているわけ。

「産んでやった。」ことを強調し、実績とし、子供に誇ることによって、「産んだ」こと以外の子供に対するサポートを拒否する格好な理由になってしまう。

「産んでもらっただけでもありがたく思え!」
「それ以上は、親に対して何か望むのは贅沢だ!」

オードリー・ハップバーン主演の映画「マイ・フェア・レイディ」でも父親のアルフレッドがそのようなセリフを言っていました。
酒びたりのオヤジが、娘のイライザに対して「この世界に生まれただけでも幸せと思え!」というわけです。
それに対して、イライザは明確な返事もなく「・・・」となる。まあ、実際問題として、何も言えませんよね?

しかし、何も言えないからと言って、心から同意しているわけではない。
ダメダメ家庭を作る人間は、やり取りにおいて相手が何も反論しないから自分に同意しているんだろう・・・と勝手に認定してしまう。
「反論しない」「反論できない」という二重否定状態と、「合意している」という単純な肯定形を一緒にしてしまっているわけ。

「産んでやったこと」へ感謝を求められた後で、子供としては親に対し別のサポートを依頼することは難しくなります。結局は、「産んでもらった」後のことは、全部自分でやっていくしかないでしょ?
子供が何か親に頼ろうとしても「オマエを産んでやっただけでも、ありがたく思え!」とお説教されてオシマイですからね。

大体において恩恵というものは「与えた」方が指摘するのではなくて、「与えられた」方が指摘し感謝することが本来のスタイルですよね?
問答無用に「恩」を着せられて、ありがたがる人はいるの?

「与えられた」方が指摘する前に、やたら与えた「恩恵」を強調する。そんな姿は典型的なダメダメでしょ?それだけ、自分の側の持ち出しに目が行っていて、つまりその発想の根本に被害者意識があるわけ。

ちなみに、韓国の方がよくおっしゃる「日本の文化は全部韓国が教えてやった。」という「恩を着せる」言葉も同じもの。「与えた」(と自分では思っている)恩恵を強調するようでは、その人間も終わっているんですね。文化だったら、その文化に本当に自信があるのなら、むしろ「学んでくれた」という言葉になりますよ。
「教えてやった」という言葉を使うこと自体が、その「文化」とやらの質の低さの証明のようなもの。

「生きているだけで素晴らしい。」「産んでもらったことを感謝しろ!」
ある意味において、正論であるわけですが、会話における正論の登場は議論の終結であり、取り付く島のない状態を作り出す効果しかありません。
ダメダメ家庭ではこのような「取り付く島がない」発言ばかりなんですね。
そのような正論によって、子供の発言は封殺され、ストレスが溜まっていくわけです。

いくら勇気ある子供でも、「産んでもらってもうれしくない。」と親に堂々と発言できる子供はいませんよ。結局は、そのストレスにより、産んでもらったことをますます恨む結果に繋がって行くわけです。
「産んでもらったことを感謝しろ!」と、親がそのように発言するダメダメ家庭では、子供の方は決して「産んでもらったことへの感謝」なんて、持ったりはしていないものなんですね。

そして、そのことを自覚する必要があるわけ。
その言葉に対して違和感を持てば、まだいいわけです。
「産んでもらったことを感謝しろ!」と命令されて本当に感謝してしまったらどうなるの?
その親と同じように、当人自身も子供を「産んでやる」ことになりますよね?
だって、そのことは感謝に値することと命令されたんですからね。
しかし、「育ててやる」ことは感謝の範疇外にされてしまっているわけだから、「産まれてしまった子供をどのように育てるか?」は問題外になってしまって、次の子供を「産んでやる」ことになってしまう。
ということで、「産むだけ産んで」後は放りっぱなし。
しかし、それでも「産んでもらったことを感謝しろ!」という理屈から見ると、感謝に値する行為でしょ?

そうなると、まさに絵に描いたようなネグレクト事件になってしまう。
あるいは、平気で「赤ちゃんポスト」に放り込むようなことをすることになる。
「赤ちゃんポスト」に自分の子供を放り込む親も、「オレたちはこの子に命を与えてやったんだ!」「この子も産んでもらったことを感謝すべきなんだ!」と思う場合もあるわけ。
たまに起こったりするネグレクト事件も、「産んでもらったことを感謝しろ!」という親からの道徳的な教育の賜物とみると、理解しやすいでしょ?

(終了)
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発信後記

まあ、一般的にみても「感謝しなさい!」と連呼する人はダメダメなことが多いですよね?
楽しい具体的な事項を指摘すれば、人間は自然に感謝の念を持つものでしょ?
そのような具体的事項を指摘せず、「感謝しろ!感謝しろ!」とカルトな宗教団体のように洗脳しようとするのがダメダメ家庭ですね。
R.10/11/14