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カテゴリー ダメダメ家庭は嘆き節がいっぱい!
配信日 04年4月19日 (10年11月17日 記述を追加)
タイトル 苦労自慢、不幸自慢
ダメダメ家庭では日頃からグチばかりですね?
「家族の会話」なんて大層なものはなく、交わされる言葉といえば親からのグチばかり。

「オマエを育てるのに苦労した。」
「この食事の支度に苦労した。」
「あんな人と結婚するんじゃなかった。」・・・等々。
個々の事例については、以前より配信しております。

じゃあ、このようにグチばかり聞かされてきた子供がどうなってしまうの?
その一例として、「苦労自慢や不幸自慢」の人間になったりする例が多くあります。
そもそも、その親から不幸話や苦労話以外の話を聞いたことがないんだから、子供だって、自分の不幸を語るしかないじゃないの?
皆様の周囲にも、不幸自慢や苦労自慢ばかりの人もいるでしょ?

まさに、当人の親と同じように、被害というか、苦労というか、不幸を語り、そして、被害者という立場でもって自分のアイデンティティを設定するわけ。
被害者として、自分の被害を語り、被害を語ることという行為によって、「被害者としての自分」という立ち居地を自己確認するわけ。

やり取りにおいても、被害というか、持ち出しをやたら強調することになる。
「アナタのために、損をした!」
「アナタのために、大変な犠牲を払った!」
「アナタの文章に、不快な思いをした!」
まさに出身家庭での会話?の再現というわけです。

ちなみに、このような「自分自身の損失を強調することで、相手への敬意を示す。」という発想は決してダメダメ家庭に特有のものではありません。
たしか、文化人類学でも、そんな発想がありました。
ダメダメ家庭の出身者は、この「犠牲を強調することで、自分のアイデンティティを主張する発想」に近いわけ。

だから、家庭内でのやり取りに限らず、ちょっとした普段の会話から、「犠牲」というか「持ち出し」に関する話が出てくることになる。
自分が払った犠牲を積極的に語るわけ。

まあ、語る相手が同じダメダメ家庭の出身者だったら、お互いの共通理解があるので、会話?も進むことになるわけですが、マトモ家庭の出身者だったら、そんな話をどのように受け取るのでしょうか?

「この人、何を不幸自慢しているのかしら?」
と、なりますよね?
聞いている方も面白くはないでしょ?
それに犠牲や持ち出しを主張しているということは、結局は恩着せがましい雰囲気となるもの。
聞いている側も警戒しますよ。

しかし不幸自慢している方は、ただ自分の出身家庭の流儀で相手への敬意を表しているだけのパターンもあったりする。
「私は犠牲を払ってきた!」
「アナタのために苦労した!」
こうやって相手への敬意を表現するわけ。
そして、「犠牲を払ったワタシ」「持ち出しを厭わなかったワタシ」という物言いで、自己紹介をしているだけ。

前回配信の文章で「若い頃の苦労は買ってでもしろ!」という言葉を取り上げました。
ダメダメ家庭では子供に苦労させることが美徳とされてしまっている。
だから、子供にしてみても、「自分は苦労を体験した!」ということがステータスなんですね。立派な学歴があれば、その学歴を語ることができるように、立派な不幸歴があるので、その不幸歴を語っているわけ。

だから、ますます苦労自慢に熱が入ることになる。
しかし、マトモな家庭出身者にしてみたら、人から、いきなり苦労自慢されれば「???」となるのは当然のこと。

しかし、ダメダメ家庭出身者はありのままの自分では親から認めてもらえなかった原体験がある。
だから、「いかに自分が犠牲を払ったか!」、「いかに自分が大変な被害の中で生きてきたか?」、そのようなことについて、執拗に主張するようになるわけ。

その人のアイデンティティに直結しているわけだから、逆に言うと、犠牲が生じそうな環境を率先して求めることになる。

まさに戦時下のイラクのような環境が必要とされるわけです。
まさに現在(04年)のイラクでは「犠牲」や「被害者としての立場」が簡単に手に入るでしょ?
ダメダメ家庭出身者にしてみれば、ナイスな場所なんでしょう。
おまけに周囲の日本人は、みなダメダメ家庭出身者ばかり。きっと会話も弾んだことでしょうねぇ。

あの人質になったワカモノたちを非難することは簡単ですが、あのような状況下のイラクは、ダメダメ家庭出身者にとってはパラダイスのようなところなんでしょうね。

あのイラクのように、不幸自慢とか苦労自慢をする人間は、当然のこととして、同類が集まってしまう。
そもそも、マトモな人に対して不幸自慢をしても、「オイ!何を不幸自慢しているんだよ!」と呆れられるだけなんだから、吹き溜まりのように、同類が集まってしまう。
しかし、同類であるがゆえに、不幸で盛り上がり、そして、「どっちがよりかわいそうなのか?」と議論するようになってしまう。

「どっちが、よりかわいそうなのか?」と議論しているわけだから、「アイツの不幸に負けてはならない!」と気合が入ってしまう。
しかし、「どっちがより不幸なのか?」という競争で勝利することが幸福なの?
論理的に見て、矛盾しているでしょ?
しかし、それが唯一の幸福となってしまっている人もいるわけ。

不幸を語り合う場においては、
不幸自慢大会に勝って、高らかに自分の不幸を自慢する人がいたり、
不幸自慢大会に負けて、負けたことによる自分の不幸を嘆く人がいたりする。

インターネットの掲示板の様相なんて、そう見ると理解しやすいでしょ?

不幸というか、苦労というか、犠牲を語りたいので、自分に被害を与えている存在を探し回ることになる。つまり、あら探しばかりをしている。
あら探しばかりなので、自分で何かをやっていこうとは考えない。

人のやっていることを傍観者の立ち居地から否定して、「オレの方がもっとかわいそうなのに・・・」「アイツがこんなことをやったらから、迷惑を受けた。」と、グチってばかり。
何かを成し遂げることよりも、人がやったことを否定するほうが、つまり人の業績による被害を主張した方が価値があると考えているわけ。だって、それこそが自分の不幸に繋がるわけですからね。

不幸自慢や苦労自慢は、目標を達成するための苦労なりハンディキャップを語るというよりも、「アイツのせいで、うまく行かない・・・」そんな被害者としての立ち居地の主張に繋がっていくもの。
そんな人の近くにいたら、まさに不幸の発生原因とされてしまうのは、論理的に当然のことでしょ?
そして、ダメダメ家庭の中においては、その不幸の発生原因として、子供という存在が設定されているものなんですね。
子供を犯人認定するような環境だからこそ、その子供も実際に不幸になり、その子供が後になって「親のせいで、不幸な目に!」と不幸自慢に熱を上げるわけ。

(終了)
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発信後記

今回例のイラク事件について言及しておりますが、次回も言及する予定です。
R.10/11/17