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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 04年4月28日  (10年11月19日 記述を追加)
タイトル 差別意識が強い
ダメダメ家庭は差別意識を強く持っているものです。
現実的に見て、差別的に物事を見るのが好きなのは下層階級ですよね?どうしても自分より下の存在が欲しいわけです。上流階級はわざわざ下のものなどは意識しない。どうせ関係ありませんものね。上流階級だったら、たとえ、ある種のマイノリティの人と関係があったとしても、やり取りをする人は「それなり」の人に限定されてしまうことになる。出自や出身や趣味の問題はともかく、尊厳にそれなりに配慮する人とだったら、やり取りもスムーズに運ぶものでしょ?
だから、実質的には、その種のマイノリティの問題を考える必要はないわけ。

しかし、ダメダメ家庭においては、わざわざ、その種のマイノリティの問題に言及することになる。ダメダメ家庭の人間は自分自身を向上させて、周囲から尊敬を得ようとは考えない。自分より下の存在を見つけて、それに安心するわけです。
上を見るのではなく、自分よりも下を見て、そして、「オレはその『下』とは違っているぞ!」という主張になるわけです。

下として扱いたいものだから、表現自体が差別的である言葉が飛び交っている状態。

その手の言葉としては「あのニ○ロ・・・」「朝☆人・・・」「オ△マ!」「離婚家庭!」「アカ!」等々色々とありますね?

アメリカの黒人問題を扱った映画である「アメリカン・ヒストリーX」という作品でも、父親が黒人への差別的発言を家庭内で繰り返し、それが子供たちへ影響を与える様が出てきました。
勿論、自分の家庭の内のことですので、公での発言ほどには問題にはならないでしょう。家庭内での発言は、発言というようより個人の思想とか信条の問題に属すると考えた方が自然です。

ですので、そのような発言を子供の前ですること自体は、法律的には問題ない行為と言えるでしょう。
しかし、それを聞かされた子供は、人間をそのような、ある種の「ゆがんだ」まなざしで見るようになるので、他人とのフランクなコミュニケーションが難しくなるわけです。

大体において、ダメダメ家庭のダメダメなところはコミュニケーション能力の低いところです。会話によって相手の人格を判断できないので、どうしても一種のブランドで判断してしまうんですね。つまり、ダメダメな親から子供へ使えられるのは差別用語であり、そして身構えた意識だけとなっている。

マイノリティの相手に対し、会話前から身構えたりするようでは、まともな会話ができるわけがありませんよ。
そうなると、ますます会話の成果が乏しくなるわけです。

では、人間をブランド的に拘ったそのような態度は、高級なブランドの人間には好感を持たれるものなんでしょうか?

それは違うんですね。
そのような「正しいブランドの人間以外は認めない。」といった態度は、正しいブランドの人間にとっても狭量に写るものです。
「アイツ・・・何をケチなことを言っているんだヨ!」となってしまうだけ。

正しいブランドの人間に対し、そのような狭量で差別的な発想で媚を売るようなマネは逆効果なのですね。
つまり、差別問題というものは、人を差別することで、自らが区別される危険をはらんでいるわけです。

しかし、コミュニケーション能力が低く、人間をブランドでしか判断できない人間としては、ブランドに拘らざるを得ない。ダメダメ家庭の問題と差別問題はリンクしている問題なんですね。

意外に思われるかもしれませんが、アジアでもっとも人種差別が激しいのは韓国です。
特に東南アジアの人たちがイジメられるようです。
そもそも教科書の中ですら歴然たる差別用語が飛び交っている状態。
ダメダメ家庭は「自分以下の存在」を探すのに必死になってしまうんですね。
しかし、たとえ「自分以下の存在」が見つかったとしても、自分自身の価値が向上したわけではないことは、子供だってわかることでしょ?
逆に言うと、下の存在を確認することで、「自分としては、どのようなことを向上させていくのか?」ということについて考えることから逃避するわけ。

だからこそ、ダメダメな人間は自分より下の人間を欲しがる。
たまに報道されたりする、ホームレスを襲撃する子供は、大体がダメダメ家庭の子供ですよね?
襲撃した側の子供の家庭は、経済的には、今のところは問題のない状態であっても、子供にとっての将来展望が開けていない、別の言い方をすると希望を持てないという意味で、ダメダメになっている。
だからこそ、自分とホームレスとの違いを無理にでも作り出さないといけし、その違いを自分に確認させる必要がある。だから儀式性を持つような過激な行為となってしまう。

また、今回の文章で考えておりますダメダメ家庭の差別意識は、逆の方に出ることがあります。
教条的に「平等」を主張するケースです。
問答無用で、概括的で、具体性がない形で、平等を主張することになる。

「黒人は皆、いい人だ!」「離婚する本人には全然悪いところはない!」
あるいは、「韓国人はすばらしい!」なる物言いもあったりする。
現実の個別の人間のことを考えずに、カルト宗教のマインドコントロールのように、とにかく教義としての「平等」を信じ込む様相となってしまっている。

しかし、黒人だって、「いい人」もいれば「悪い人」もいるでしょ?人間だから相性だってありますよね?実際に話してみたら、「コイツぅ・・助兵衛なヤツ・・・」と思ったり、「アタマが切れるヤツ」「ぐーたらなヤツ」と思ったり・・・人によって色々とあるでしょ?
重要なことはちゃんと会話することですよね?

「黒人差別はいけない。」って妙に主張する人って、本当の会話をしていないわけ。
だって、日本人だったらいきなり黒人と会ったらビックリするでしょ?普段は黄色い平面顔しか見ていないんだから・・・「ビックリしちゃいけない!」なんて主張することは無理がありますよね?

ビックリした後で、ちゃんと会話することが重要じゃないの?「びっくりしちゃいけない!」と思い込んでいる人は、会話の前にそれだけ身構えているんです。
それって差別意識の裏返しなんですね。

例として黒人問題を取り上げましたが、その他の場合も同じです。
ヘンな先入観なしに、「会話」すること。それが人間関係の基本でしょ?
ダメダメ家庭はこの基本ができていないわけです。ヘンに身構えているんですね。
問題点があるのなら、それを具体的に、そして客観的に説明できればいいだけ。
逆に言うと、それができないということは、「ゆがんだ」まなざしがあるということ。
「全部すてき!」も「全部悪い!」も、具体的で各論的な視点の欠如という点でまったく同じ。
ただ、見たくない、考えたくない、説明したくないというだけ。

差別と言うと、「いいところ」を見ようとしなかったり、適切に評価しないのは当然のこととして差別と言えるでしょう。
このことは当然のこと。
しかし、「いい子ちゃん」志向のダメダメ人間は、「問題点を見ようとしない。」という教条的な平等主張のパターンになることが多いわけです。

それこそ、日本においては韓国人差別云々で話題になったりしますが、韓国の「いいところ」を認めないのは当然のこととして差別といえるでしょう。
しかし、韓国の「よくないところ」も見ようとしないし、認めないことも、差別意識の裏返しなんですね。
実際に、「韓国人差別はいけない!」と教条的に主張している人は、韓国人のいいところを、客観的に説明できないでしょ?それは、まさに韓国人差別の裏返しなんですね。

同じように、離婚した家庭の問題を考えるに当って、「彼女らはお気の毒な被害者なんだ!彼女らは何も悪くない!」と、やり取りや議論の前に弁護することは、差別意識の裏返しであるわけ。むしろ自分の差別意識を認めるのが怖いので、やり取りの前に「彼女らは何も悪くない!」と決定し、自分自身に対して宣言し、認識や思考を封印してしまうわけ。

韓国人差別の問題に限らず、「○○を差別しちゃいけない!」なんて問答無用で教条的に叫んでいる人ほど、その「○○」の「いいところ」というか具体的な業績を客観的に説明できないでしょ?そんな人に限って、「差別はいけない!」と問答無用の正論連呼。
そんな人は、言葉としての差別用語は連鎖していなくても、ゆがんだまなざしは親から連鎖しているわけです。

本音では差別意識があるがゆえに、ちょっとでも人からその点を指摘されないかとビクビクしているわけ。本当はコンプレックスが強く、自分より下の存在を見たいと切望している。しかし、実際に見てしまうと、その問題点との対処の仕方がわからない。
そのように現実逃避的なので、その人自身としては何も達成したものがなく、ますますコンプレックスが強くなる。
だから、やっぱり、自分より下の存在を見たいと切望する。
見たいという希望と、考えたくないという希望が合わさると、「差別してはダメだ!」との自分に封印するような概括的で否定的な物言いになってしまうわけ。

それだけ人を見るまなざしがゆがんでいるわけです。
そんなところから、その人の根底にある差別意識が見えてくるものなんですね。
差別とは問題点を見ないことではなく、その問題点が主観的なレヴェルに留まっていて、客観性を持ちえていないということ。
だからこそ、それは問題点だけでなく、業績や成果の評価においても主観どまりになってしまう。
「差別はダメだ!」という問答無用の美辞麗句も、そんな観点から見ると、実に理解しやすいものでしょ?
そんな正論で会話が弾んだことはないでしょ?
逆に言うと、やり取りを弾ませたくないわけ。

だからこそ、やり取りによって、知見を得ることもなく、ますますコンプレックスが強くなる。そして、マイナス面に対する対処が、ますますできなくなってしまう。
だからこそ、ますます、問答無用の正論の連呼しかできなくなってしまう。
そんな正論連呼の人は、「人にはいいところもあるし、よくないところもある。」という現実を否定して、「絶対善」vs「絶対悪」の構図に逃げ込んでしまう。
そうして、ちょっとでも具体的な問題点を指摘されたら、逆上することになる。

差別意識というものは、「悪いのは全部○○のせいだ。」という物言いとつながっているもの。そこで、その「悪いのは、○○のせいだ。」という犯人認定の心理だけでなく、「全部」という現状認識からの逃避という面も強く持っているわけです。
その点に注意しないと、差別意識というものは理解できないものなんですね。

(終了)
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発信後記

以前、日本の国会で「中小企業の人は、皆まじめに働いている。悪いのは大企業だけ。」と堂々と主張されていた政党党首がいましたが・・・
典型的な差別意識ですね。結局は本当の人間を見ていないで、ブランドだけで判断しているわけ。

「みないい人だ!」と言われた中小企業の方は、本当にそんなことを言われて喜んだんでしょうか?
これって中小企業の人をバカにした言い方ですよ。
R.10/11/19