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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
配信日 04年7月5日  (10年5月25日に記述を大幅に追加)
タイトル 審美眼 (感覚の楽しみ)
一分の隙も無い着こなしをした服装の人と、周囲が「な〜に、あれ?」と、笑ってしまうような着こなしの人、二人いたとしたら、人はどちらの言うことを信じるでしょうか?

古来より日本では「巧言令色」について否定的な見解がありました。
「言葉が上手な人や、『見てくれ』がいい人の言うことなんて信じられない。」というものですね?
しかし、最低限の審美眼は必要でしょう?
あるいは、普段はくだけたスタイルでも、「いざとなったら、完璧にできる。」このような人間であれば大丈夫ですね?

「一分の隙も無い着こなし」は、少なくとも「いざとなったら」完璧にできることを示しています。それに対し、「笑われるような」着こなしでは、周囲の人も 「あの人も、肝心な時は大丈夫かな?」と心配になってしまいますよね?
人に余分な心配を与えるのは、自分自身によほどの自信がないかぎり危険ですよね?

服装のような「視覚」に属することのみならず、例えば「味」の問題でも同じです。
誰かを食事に招待した所、そのお店が素晴らしい味だった場合と、「こりゃ!まずい!」と絶句するような味だった場合では、そのお店を選定した人の評価は全然違って来てしまいます。

また、コンサートに招待するというように、「聴覚」にかかわる事項もあります。

ものの美醜の感覚は、先天的な面もあるでしょうが、それまでの人生の中で様々な美しいものを見たり、おいしい物を食べたり、いい音楽を聴くことによって得られる部分の方が多いでしょう。
逆に言うと、そのような「美」というか「感覚の楽しみ」に接する機会から遠ざけることによって、長じて後の子供の可能性が摘み取られてしまうわけですね。

ダメダメ家庭では、そのような「美しいもの」や「おいしい」もののような「上質の感覚的な楽しみ」と触れ合う機会がほとんどありません。子供としてみれば、周囲のガラクタ?のようなものを見て審美眼が養われていく?ことになりますよね?そのガラクタの感性を取り入れるか?それとも反面教師にするか?まあ、反面教師なる言葉をダメダメ家庭出身者がよく使うことは何回も書いています。
反面教師なんて現実的に無理がありますよね?どうやって反面にしていくの?あるいは、反面にしたらと言って正解となるというものではないでしょ?

たとえば会社に入って、接待の席もあるでしょう。
美醜がまったくわからないと、その接待の後で「大切なお客さんを何てところにお連れしたんだ?!」
このような叱責を受けてしまう。よくある話ですよね?

勿論、世の中には様々なマニュアル本もあるわけです。しかしマニュアルに従っているだけの人間と、自分自身で「お店」を見つけて来れる人とは、周囲からの評価もおのずから違って来ますよね?
あまり知られていないのに、うなってしまうようなセンスのよいセレクト。
そんなことができるためには、自分自身の味覚や視覚や聴覚で、「美醜」を見分けられることが必要です。

自分自身の子供に適切な審美眼をつけさせることは法律で規定されているわけではありません。しかし、基本的な審美眼がないと、その後の人間の可能性は大きくダメージを受けることになるわけです。

たとえ料理人になるにしても、子供の頃より「美しい音楽」や「美しい美術」に親しんでいるような人の料理だったら、期待できますよね?
あるいは、「上品」な音楽に親しむことで、自分自身のしぐさも上品になったりするものでしょ?
ちゃんとした審美眼があれば、別の分野でも役に立つんですね。

今現在でも、小学生くらいの子供に「真っ赤なトレーニングウェアを着せて、髪は金髪」というスタイルをさせている親もいますよね?そのようなスタイルをさせられた子供が将来どうなるのか、それは明らかでしょう。少なくとも卓越した審美眼を持つことはないでしょうね。

そんな服装を着ていた子供も、成長した後で、自分の写真を見たら赤面しちゃうでしょう。
まあ、赤面すらしなかったら、更なる問題ですが・・・

感覚による楽しみというものは、ムダの代表例と思われる方もいらっしゃるでしょうが、そんな感覚の楽しみが何もない状況となると、実に閉塞感が漂うものになってしまうわけ。

それこそ、第2次大戦中の日本では『ほしがりません。勝つまでは。』なる標語があったそうですが、そんな標語は、感覚の楽しみを排除して、一致団結して、何かを恨む・・・そんな流れには、実にフィットしている物言いでしょ?
逆に言うと、感覚の楽しみを排除しているところでは、他者への恨みの心を充満させていることが多いもの。

いわゆるカルト団体は、その手の感覚の楽しみとは無縁のところが多いでしょ?
それこそイスラムとか、北朝鮮とか、その他のカルト宗教とか・・・
教祖様とかエライ人は、おいしい料理を食べ、楽しい音楽や映画を見ていても、下っ端は、感覚の楽しみとは無縁のままで、恨みの心だけを充満させているでしょ?

だから、不満や論理だけが走ってしまい、「自分たちはかわいそうな被害者なんだ。」という理屈を説明するような陰謀史観に走ってしまう。
実際に、陰謀史観を得意気に語る人は、芸術とか芸能について、何も話せないでしょ?

感覚の楽しみというのは、閉塞した状況の扉を開けるためには、実に有効なんですね。
被害者意識がスパイラル的に進行し、煮詰まってしまうことを防止できるわけです。

それこそ、宗教改革のマルティン・ルターは、権威主義とか被害者意識や対抗心などのカルトの要素がテンコ盛りの人ですが、画家のクラナハと友人関係だったように、感覚の楽しみとの付き合いもできた人といえるわけ。だからこそ、それなりに扉を開けておくこともできたわけです。感覚の楽しみを排除していると、どうしても煮詰まってしまうんですね。
その手の論理だけが煮詰まった人って、インターネットの掲示板などにいっぱいいるでしょ?

たとえば、神の存在の証明などについて、言葉だけで行おうとすると、実に煮詰まったものになってしまう。しかし、それこそモーツァルトの音楽を聞くと、神について「実感」できたりするもの。逆に言うと、芸術作品に接して、神を実感できない人が、いくら言葉を並べても、独りよがりの煮詰まった言葉になるだけでしょ?

まあ、現実的に見ても、センスのいい服装をしている人が、陰謀史観を得意気に語るようなことはありませんよね?陰謀史観を語る人は、その服装もやっぱり感覚美とは無縁のもの。
あるいは、いわゆる市民運動の活動家とか、それこそ共産党員の方々も、いかにもな服装をしているものでしょ?
逆説的になりますが、共産党員も、あるいは第二次大戦中の軍国主義的な日本人も「欲しがりません、勝つまでは。」という発想において共通しているわけ。

多彩な感覚から刺激を受けて、自分の考えや日常を豊かにして行く・・・そんな発想を排除しているわけです。

あるいは、その感覚だって、一方面の感覚だけだったら、やっぱり煮詰まってしまうもの。
おもしろいマンガを描くには、マンガを読んでいるだけではダメでしょう。
おもしろいアニメを作るには、アニメばかりを見ていてもダメでしょう。
本を読んでばかりの文学青年が、すばらしい文学を作るというものではないでしょ?
既存の作品に対して、距離をおかないと、創造性は出てこないもの。
一つのジャンルしか知らない人は、既存のものをコピー&ペーストするだけで終わってしまい、創造性のあるものを生み出すことはないわけ。

感覚も一つの領域のものだと、結果的に閉塞を生み出してしまう。
いわゆる芸術のプロの人でも、一つのジャンルにこだわりすぎて、出口のない状況を自分で作っているような人も多いもの。そして、その閉塞感そのものを表現して、悦に浸っている始末。

しかし・・・扉を開けて外に出てごらんなさいな。
ネタはいっぱいありますよ。
ちょっとした感覚の楽しみから、自分の出口が見つかることも多いんですね。

逆に言うと、ダメダメ家庭では、そんな感覚の楽しみとの付き合い方が習得できなくて、出口のない状況を自分たち自身で作ってしまうわけです。
感覚の楽しみというのは、その時点では役に立つものではないように思われるかもしれませんが、自分の発展なり、閉塞からの脱却なりの様々な可能性につながっているわけです。

(終了)
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発信後記

まあ、情操教育なるものも、心の豊かさというよりも、上品なセンスの形成には確実に役に立ちますね。

ただ以前も書きましたが、ダメダメ家庭では「投入した支出」に対する「成果」を求める傾向が強くあります。子供の将来の審美眼という不確定な要素のために、現在での出費などはケチったりするわけです。
R.10/5/25