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カテゴリー テレビの前のダメダメ家庭
配信日 04年7月14日  (10年7月29日,11年1月22日 記述を追加)
タイトル 我が子など想定外のコメント
家族でテレビを見ていて、感想を言ったりする場合も多いはずです。
「おお!スゴイ!」と言うような何でも使えるコメントもあります。「ケシカランなぁ・・」というのも何時でも使えるコメントといえます。
これが全く持って自分の子供とは無関係な立場の人間や事件についてのコメントなら、どうでもいいことです。スポーツとか音楽界とかのような特殊な世界に対しては、まあ、一般の人は適当なことを言ったりすることも許されているでしょう。

しかし、一緒に見ている子供に関わるようなテーマの場合は、親のコメントで子供に影響を与えることになりますよね?

例えばイスラエルや韓国のように徴兵制のある国の話題で、テレビを見ながら「日本もあのように徴兵制があればいいんだ!ビシビシ鍛えてやれ!」と親がコメントすることも可能です。法律的に全く問題ないでしょ?

子供としてはテレビを見ながら「自分が徴兵されたらイヤだなぁ・・」と思っているはずです。イヤと思わないのでしたら、兵隊に志願すればいいだけですし・・・だから基本的にはイヤなはずですよね?しかし、同席している親たちは、自分たちの子供のことなど全く想定していない。「兵隊でビシビシやれ!」ですからね。
ここで「自分の子供が徴兵されたらカワイソウだな・・・」とは考えてもいない。
あるいは、「自分の子供はこんな事態をどう思っているのかな?」なんて疑問に思ったりしない。

また「アラブの方で奥さんを沢山持っている王様」の報道があったとしましょうか?
「あんなに沢山の女房がいてウラヤマシイ!」などと感想を漏らすことは自由です。しかし、その横でテレビを一緒に見ている自分の娘がどう思っているのかについてはどのように考えているの?「自分の娘が、このような大勢の妻のうちの一人になってしまったら気の毒だな。」とは考えた上でのコメントではないでしょ?

同じようなことは、どこかの地方でやっている成人式のバンジージャンプでも、お正月の寒中水泳でも同じです。
「自分の子供が同じことをやることになったら、どうなるだろうか?」そのことについて、親として考えてりしているかどうかは、ちょっとしたコメントに現れて来るものです。

普段から子供のことを考えてない親は、どんな事態にも、まさに自分自身のみの問題として考えることになる。
テレビを見ながら、まさにコメンテイター風の傍観者となっていて、自分たちの問題を認識したり、解決するための示唆としようなんて、まるで考えていないわけです。

それこそ、少年や青年が何かの事件を起こしたりすることがありますが、そんな報道に接しても、「ケシカラン!アイツは親に迷惑をかけて!」と立腹するだけ。
そして、「オマエはあんなことをするなよ!」と、横にいる子供に命令するだけ。
しかし、そんな問答無用の姿に子供はビビってしまう。
だから、結果的に事件となってしまうのは、それこそ小学生でも分ること。
しかし、当事者意識がないダメダメな親はそんな推論はできない。
そして、そんな推論ができないがゆえに、何も考えずに、「てきとう」に結婚して、「てきとう」に子供を作って、「てきとう」に子育てして、結果的に事件となってしまう。

他者への事件だけでなく、それこそ自殺のようなものでも同じ様相といえます。
自殺が報道されると、「あいつは親に迷惑をかけてケシカラン!」「あの親御さんは、今まで散々と苦労しながら子育てをしてきただろうに・・・」というコメントになる。
しかし、「あの子供も、何か困っていたら、親に相談できなかったのか?どんな親だったのだろうか?」とコメントしたり、あるいは、「オマエは何か困っていることはないか?」と自分の横に座っている子供に聞くのがマトモな親というものでしょ?

ダメダメな親は、「オマエは自殺するなよ!」と問答無用に命令するだけ。
しかし、「今日は学校でどんなことがあった?」とか、「何か困っていることはないか?」などと子供に聞くことはない。

子供に命令したんだから、親としての当事者意識があると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、本当に親としての当事者意識があれば、横にいる子供には「オマエは何か困っていることはないかい?」と聞くものでしょ?
問答無用の命令なんて、傍観者の立ち位置から「べき論」を連発しているオバカなコメンテイターとまったく同じですよ。

それこそ、別のところでも書いていますが、少子化問題へのコメントも、自分の被害には反応しても、親としての当事者意識はゼロ。
「子供を育てないなんてケシカラン!」「俺たちは、こんなにイヤな思いをしながら、必死で子供を育てているのに・・・」「アイツらだけラクをしやがって・・・」というコメントが子供の前で発せられることになる。
そんなコメントに対して、『そんなに子供がイヤなら、子供なんて作らなきゃよかったのに・・・』と子供が言い出すと、「何を!オレがこんなにイヤな思いをしながら、オマエを育ててやっているのに、何を言い出すんだ?!」と逆切れすることになる。
そんなやり取りの結果が、まさに少子化問題でしょ?
まあ、そんな環境で育ってしまったら、そんな養育環境からのハンディキャップを踏まえて、自分としては子供を作らないのならまだしも、自分で考えることから逃避するダメダメ人間は、「子供を作るのはふつうのことだ!」という大義名分を掲げ、自分では何も考えずに子供を作ってしまって、結局は、できてしまった子供に対してグチることになる。
まさに「子は親の鏡」状態。

この手の傍観者然としたコメントを子供の前で発する親は、子供が事件を起こしたりすると、スグに「学校はケシカラン!」とご立腹。
そして、「あの親も、裁判に訴えてやればいいんだよ!」と息巻くことになる。
しかし、「あの子供もこんな事件を起こす前に、親に相談できなかったのかなぁ?」という素朴な疑問は出てこない。
親として子供を育てる・・・そんな発想とはまったく無縁のまま日々を生きていて、そして、当然のこととして、それを自分の子供も前でやっているのがダメダメ家庭の親というもの。

常日頃からそのような自分の子供など想定外の傍観者然とした発言を連発していたら、子供の方としては、親に対して何か相談事を持ちかけることはできないでしょ?普段から自分のことを考えている様子があるから相談を持ちかけるのであって、まったく眼中にない人と相談しても意味ありませんよ。
親のそのようなコメントを横で聞いている子供は、親の能天気で傍観者風の表情を見ながら「・・・」状態。

そうなると、その家庭から、見た目には、問題が消えてしまうわけです。
よく言う「問題のない」「ふつうの家庭」になるわけです。
だって、家庭内の誰もが困りごとなど言い出さないわけですからね。何か問題あるの?

家族でテレビを見ながら、子育てに対して傍観者然とした親の姿を見ていると、「家族でテレビを見ること = 不快なこと」という心理的な結びつきになってしまう。
まさにテレビは不快な感情の標識になってしまうわけです。
テレビに関わる記憶となると、親のグチや、程度の低い感想を聞いた記憶しかないわけだから、不快な思い出しかありませんよ。
と言うことで、その手の人は、テレビ嫌いを、必要以上に「公言」するわけです。

そもそもテレビを見ることは、不快な記憶と向き合うことになっているんだから、テレビを好きになりようがないでしょ?
何もテレビを好きでなくても、それはその人の個人の問題といえます。
しかし、マトモな人だったら、テレビから離れるという選択のスタイルとなるのに対し、「テレビ = 家族との不快な記憶」という心理的な結びつきを持っていると、離れるという選択ではなく、むしろ対抗するという方向に走ってしまう。

ということで、「オレはテレビが嫌いだ!」と周囲に語ったり、テレビばかりから情報を得ている人を、「情報弱者だ!」と揶揄することになる。
本来は、テレビなどは、所詮は道具の一種にすぎないものでしょ?
特に敵対するものではありませんよ。
しかし、テレビが不快な思い出の象徴であるがゆえに、敵対心を持ってしまう。
まさ、ダメダメな家族の代替として、攻撃対象となってしまうわけです。

敵対心は、ある意味において同格の間柄に対して抱く感情といえます。
逆に言えば、それだけ当人にしてみれば、大きな意味を持っているといえる。
だからこそ、自分にとってのその意味を考え直してみると、今まで気がつかなかったものが見えてくるわけです。
「嫌うことはあっても、離れることはできない。」
テレビに限らず、そんな関係性は、ダメダメ家庭の人間が陥る関係の典型的な姿でしょ?

(終了)
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発信後記

この2回ほど、ちょっと一般的な話が続きました。しかし、このメールマガジンの本来のスタイルは今回のように「ちょっとしたシーン」を再現することです。
ダメダメ家庭だったら身に覚えのあるような具体的なシーンを記述する。それが本来の形のつもりです。あまり話を広げすぎるのはよくないと思っています。逆に誰でも書けますからね。
ただ次回の配信でもまた一般的な内容を予定しています。勿論具体的な言葉が出てきますが・・・
R.11/1/22