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カテゴリー 映像作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 04年9月1日 (11年1月5日 記述を追加)
タイトル ドッグヴィル
監督 ラース・フォン・トリアー
主演 ニコール・キッドマン
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」では、「作品の中に描かれたダメダメ家庭」(配信当時)と言うことで、一種の総集編として、映画などで描かれたダメダメ家庭の具体的な特徴をリストアップした文章を配信しています。
この手の作品であれば、この文章をお読みになられた方が、実際にその作品に当たって、自分で簡単にチェックできますからね。

今回取り上げるのはラース・フォン・トリアー監督の最新作の「ドッグヴィル」です。大スターのニコール・キッドマンさんが主役をやっている映画です。そのせいでレンタルヴィデオショップにも沢山置いてありますから、簡単に見ることができますし、もう既にご覧になられた方も多いでしょう。

今回はその「ドッグヴィル」という作品で描かれたダメダメ家庭に特徴的な具体例というより、もっと一般的にダメダメ集団の具体的な特徴として考えてみたいと思っています。勿論、ダメダメ家庭も、ダメダメ集団の一つですから、ここで描かれたダメダメ集団の特徴は、そのままダメダメ家庭の中で繰り広げられている風景と言えます

最新作ですので、あまりあらすじは書かない方がいいかと思います。ネタばれを嫌う人も多くいらっしゃいますし・・・
ただ、ダメダメ集団の具体的事例はてんこ盛りの作品です。

では、具体的に見てみましょう。

1. 見栄っ張り・・・とある老人は盲目であることを隠していたりする。いたし方がないところもありますが、このドッグヴィルという町の人は大体が見栄っ張りです。ダメダメ集団は自分自身を必要以上に立派に見せようすることが多いもの。

2. 自己弁護・・・「オレは本当はこんなことをしたくはないんだ!」などと自己弁護しながら女性をレイプしたりする。そんなシーンが実に多い。ダメダメ家庭でも「オレは本当はこんなことをしたくはないんだ!」といいながら、ロクでもないことをやっていることが頻繁ですよね?

3. ウソつき・・・ドッグヴィルから女性の脱出を請け負った運転手がいます。その運転手は、女性から金だけとって、女性を引き渡してしまう。また、模造品のグラスを作っている家庭もあったりする。どうも人をだますことに罪悪感を持っていない人たちです。自分の尊厳にはこだわりがない人たちなんですね。

4. 排他的・・・大体、貧乏なところほど排他的です。まあ、わざわざ貧乏なところに人が新たに来ることはありませんから、そうなってしまうのでしょう。しかし、新規の人をやたら監視したり・・・お金の貧しさというよりも、心の貧しさが顕著となっている状態と言えます

5. 弱いものイジメ・・・相手が絶対に自分に反撃しない状態になって、うれしそうにイジメたりする。大人がやっているそのような弱いものイジメを子供がマネする。まさしくダメダメの連鎖状態になっている。

6. 強いものに媚びる・・・自分より弱いものには大きな顔をしますが、自分より強いものには媚びた態度です。相手の立場によって態度が豹変したりするんですね。それだけ信念がないわけです。そのような環境なので、子供も駆け引きのような政治的な発想をするようになる。弱きをイジめ、強いものに媚びる。「ママに言いつけてやるからな!」などとスグに言い出すような子供になってしまう。

7. 恩を着せる・・・この映画ではやたら出て来る言葉があります。「これはオマエのためにやっているんだ!」・・・そう言いながら人をイジメたりする。イジメるにしても恩を着せようとする。ダメダメ集団の典型的発想です。

8. 犠牲を強調する・・・「アンタのためにこんなに苦労しているんだ!」って、ダメダメ家庭ではおなじみのセリフですが、この「ドッグヴィル」でも頻繁に出てきます。

9. 報酬を求める・・・何かと言うと、「親切にしてやったのだから、報酬を払えよ!」と言い出すことになる。まあ、このドッグヴィルの人はガメツイ。心が貧しい状態なので、スグに報酬を求めるわけです。本当にちゃんとしたことをしているのなら堂々と報酬を請求すればいいわけですが、やましいことで報酬を取ろうとしているので、言い方も「もし、あなたがその気なら報酬を受け取ってあげてもいいですよぉ。」そんな言い方になっている。本当に腐っているんですね。

10. 大人の発想を読もうとする子供・・・子供時代から弱いものと強いものの上下関係を強く意識しているので、子供も政治的な発想をするようになってしまう。「大人が今何を考えているのか?それを読んで自分に有利に動かしていこう!」と考えたりする。天真爛漫とは程遠い状態の子供となっている。

11. 真実から目をそらす・・・このドッグヴィルでの主要人物としてトムという青年がいます。一応は作家志望とのこと。ところがこの青年は本を読んで思索するわけでもなく、その「しょーもない」ドッグヴィルから抜け出そうとするわけでもなく、アホな人間相手に説教をぶつだけ。創作にせよ、社会改善にせよ、本当の問題は自分自身ですよね?その本当の問題から目をそらしているわけです。

12. ケチ・・・選挙に行くのに金がかかるようになったら、突然に選挙に行かなくなったり・・・やたらケチくさいのもこの手のダメダメ集団の特徴と言えます。そんな風に選挙に行かないのに「政治家はダメだ!」などとグチったりする。そんな姿を見ている子供がどうなってしまうのか?それは言わずもがなですよね?

13. 付和雷同・・・ダメダメな人は信念がありません。やたら付和雷同なんですね。「目立たないように、人に合わせていけばいいや!」ということで、やたら人の行動に合わせたり、投票に当たっても大勢に従ったりする。

14. 改善しようとしない・・・妙に現状満足。ぶつぶつグチっている割には改善の努力をしようとしない


・・・と、ダメダメ家庭でおなじみの風景が展開されている映画です。
やたら排他的で、新参者をいびったりするところは、まさにダメダメ集団のお約束の後継と言えるくらい。
性格の悪いオバンが仕切っている公園に、キッドマンさんが公園デビューする映画と思えば理解しやすいかな?そんなシーンはありませんが、経験された方は苦笑いすると思います。
別の例えをしますと、性格の悪い姑が威張っている家庭に、キッドマンさんがお嫁に行った映画とみることもできるでしょう・・・亭主はトムで、役柄としては典型的なダメ亭主の役。そう見ると、実にありきたりな風景といえます。

このドッグヴィルという町・・・実に『普通』の、ありきたりな町をイメージしているのでしょう。
DOGは英語で「イヌ」。VILLEはフランス語で「町」。それだけアメリカだけの問題ではないと言いたいのでしょうね。アメリカだけの問題ならDOGVILLEと言うタイトルではなく、DOGTOWNと言うタイトルにするでしょうから。
また、犬が持っている序列意識も、その「DOG」という名称に入っているでしょう。
それに「楡の木」もないのに、「楡通り」という名前なんて、「文化」も何もないのに、「文化会館」があるどこかの国とそっくりですよ。


ちなみに、ニコール・キッドマン演じる主人公の女性は、「善意の人」。
犯罪が起こったりすると、「悪いのは環境のせいだ!彼ら本人には罪はないのだ!」って、日本でもよく聞く善意を持っています。「恋に恋する」ように、「自分の善意に恋している」状態と言えるでしょう。

しかし、ドッグヴィルで本当のダメダメな連中を見ることで、自分自身の考えを改めるわけです。
確かに環境の問題は重要です。このメールマガジンでも度々その問題に触れています。
しかし、その気があれば、そこから抜け出すこともできるでしょ?ダメダメな環境にいつまでも留まっていて、「環境が悪いからこうなってしまった。」とグチってもしょうがない。環境が悪いことが分かっているのならなおさら、そこから抜け出さないとね。

この映画の最後で、ドッグヴィルは「清掃」されますが・・・
このシーンは旧約聖書のソドムやゴモラの最後を思い出される方も多いと思います。多分、映画のパンフレットにもそれくらいの程度のことは書いてあるでしょうね。
実際に、犬の名前が「モーゼス」なんだから、旧約聖書をイメージしているのは明白でしょう。モーゼの声に従って「まっとう」な人間になれよ!というわけなんでしょう。

それこそソドムのような環境でダメになった人間には同情すべき点がありますが、そこから抜けようとしない点で、もう改善は不可能なんですね。むしろ本人たち、あるいはそこの子供たちのためにも清掃する必要があるわけです。

ちなみに、この「ドッグヴィル」という映画を私は劇場では見ていません。
空いてきたら劇場で見に行こうかな?と思っていたらいつの間にか終了してしまって・・・
先日、ヴィデオを借りて見てみたわけです。
ヴィデオで見る前に、劇場で見たという人に「どんな映画だったの?」と聞いたことがあります。

その人いわく
「うーん・・・ラース・フォン・トリアー監督は『ドグマ』の人だから、そんな感じの映画だった・・・」とかの、わけわからないお答えでした。
ちなみに、「ドグマ」というのはラース・フォン・トリアーらのデンマークの映画監督が掲げている映画スタイルのことです。

以下のような教理(ドグマ)?が掲げられています。
1.撮影はロケーション撮影。小道具やセットを持ち込み不可。         
2.映像とは別のところで音を作り出してはならない。
3.カメラは手持ち。手で出来ない動きや静止についてはこの限りではない。
4.映画はカラーで、人工的な照明は不可。
5.オプティカル処理やフィルター使用は禁止。
6.表面的なアクションは入れてはならない。(殺人、武器など)
7.時間的、地理的な乖離を認めない。
8.ジャンル映画(アクション、SFなど)は、認めない。
9.フィルムのフォーマットはアカデミー35mm(スタンダード・サイズ)にすること。
10.監督はクレジットに載せてはならない。

こんな感じらしい。
しかし、映画「ドッグヴィル」をご覧になられた方はお分かりのように、全然違っていますよね?
スタジオ撮影だし、音楽も入っているし、殺人はあるし、監督名は入っているし・・・

何も分かっていないクセに、一体全体何知ったかぶりしているの?

その「ドッグヴィル」を私に語ってくれた人とのやり取りにおいて、
『ラース・フォン・トリアー監督って、前衛的でしょ?』
私・・・「前衛って何?」
『普通じゃないってこと。』
私・・・「普通って何?」
『普通って・・・普通のことよ・・・』
歯並びが悪い口から発せられる典型的な言葉をニヤニヤ聞いていた私。

ダメダメ家庭出身者は自分を実際以上に見せようとします。このことは以前にも配信いたしました。この「ドッグヴィル」という映画での登場人物もそんな人たちですね。
映画を見て、分からないなら正直に「分からなかった!」・・・と言えばいいのでしょうが、そのような言葉を決して言おうとしない。どうしても知ったかぶりをしちゃうんですね。

よりにもよって、この私相手に知ったかぶりをする根性には感心しますが・・・
しかし、相手の人格を知りたい場合には、映画などを語らせるのは有効な方法です。
笑って「訳分からなかった。」という説明でもいいわけです。映画に対する理解力なんてどうでもいいことですからね。「自分が理解したことをどのように相手に伝えるか?」という、人に対する説明能力が分かりますよね?説明能力が低い人はコミュニケーション能力が低いことですから、それこそドメスティック・ヴィオレンスなどの問題に陥りがちです。

あるいは、やたら知ったかぶりをするような上記のケースでも、まともなコミュニケーションができない人であることが見えてきます。このような人が子供を持ったりしたら、将来は見えていますよね?
だって、子供としてもそんな知ったかぶりをされては、話をする気がなくなるでしょ?

まあ、知ったかぶりの人のよく使う言葉は、○○的とか△△主義とか☆☆論とか・・・いかにも分かったような言葉を使ったりするわけです。本当に知性のある人には、全く通用しないそのような言葉も、自分で考えることをしないダメダメな人間にはカッコよく見える。
そうやって、「割れ鍋に綴じ蓋」のダメダメカップルが誕生するわけです。

まあ、私は「その人」に対し、そのようなことを何も言わず、ただニヤニヤしていただけですが・・・
私が一番性格悪いねぇ・・

ラース・フォン・トリアー監督も、別に「ダメダメ集団は清掃しなくてはいけない!」などと主張しているわけではありません。
彼がやりたかったことは
「実例を示す」

さて、ここでは、フォン・トリアーが自らの作品によって、ダメダメの実例を示したわけですが、同じような状況を別のところで取り上げております、エーリッヒ・フロムでの「自由からの逃走」の中でも見ることができます。
まさにフロムも、フロムなりに実例を示しているといえるでしょう。
この「ドッグヴィル」と関わりの強い部分を抜き出してみましょう。

ルターを支持したドイツの中産階級と、ヒトラーを支持したドイツの中産階級についての記述・・・この階級は、富と力にあかし、生活を楽しむ人間に対して、実際には羨望をもっていたが、この憤りと羨望を、道徳的な公憤の言葉や、これらの上層の人間たちは永遠の苦悩を受けて罰せられるだろうという信念によって合理化していた。

その他にも・・・彼らが心の中で意識していたのは、極度の卑下の感情である。

利己的な人間について・・・利己的な人間は、いつでも不安げに自分のことばかり考えているのに、決して満足せず、常に落ち着かず、十分なものを得ていないとか、何かを取り逃がしているとか、何かを奪われるとかいう恐怖に、駆り立てられている。彼は自分よりも多くのものを持っている人間に、燃えるような羨望を抱いている。

サディズムについて・・・「私は人から傷つけられた。人を傷つけようとする私の願いは復讐にほかならぬ。」という理屈を使いたがる。

権威主義について・・・権威主義的人間は相手が無力になればなるほど、いきりたってくる。

尊厳のないキャラクターとして・・・強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、敵意、金についても、感情についても、けちくさいこと、そして本質的には禁欲主義というようなことである。かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対しては詮索好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた。

フォン・トリアーも当然のこととして自由からの逃走くらいは読んでいるでしょうが、もちろん、この映画のテーマがフロムによって影響を受けたということではなく、同じものを見ているということなんですね。
多少は表現方法に違いはあっても、その本質は見えている人には見えるわけです。
そして、そのようなダメダメ人間の姿は、いつの時代でも、どんな場所でも存在するわけです。

(終了)
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発信後記

先日、愛知県の小学校の教諭が、例の長崎県の新しい方の事件について「暴言」をはいたのだそう。
なんでも「殺害した子供だって思いつめてやったわけだから、周囲の配慮が足りない!」ということらしい。

まあ、発言というものは「WHAT」(何を)という問題と、「HOW」(どのように)という問題があります。その「暴言」ですが、「HOW」の面で問題はあったのかもしれません。

しかし、「WHAT」の面では、むしろ当然のこと。あの事件は快楽殺人ではないでしょ?その子供も思いつめてやったわけでしょ?その思いつめた中身を子供では表現できないだけで・・・

その教諭もあの事件について「当事者」として考えてみたら、そのような「暴言」も出てしまうのでしょう。大体「子供たちに命の大切さを教える。」「子供たちにインターネットのマナーを教える。」・・・そんなことで解決するなんて思っている人は、当事者意識を持っていない証拠。
ゴハンにフリカケを掛けるような安直なことだけしか、「発言」できないとしたら、それって北朝鮮のような社会ですよ。

勿論発言にあたっては「HOW」に十分に配慮する必要があることは、言うまでもないことですが・・・
R.11/1/4