トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー ダメダメ家庭は嘆き節がいっぱい!
配信日 04年9月6日
タイトル あ〜あ、女はつまらない!
昔よりもかなり改善されましたが、現在でも女性の社会進出には、男性の場合より多くの障害が伴います。
だから、「あ〜あ、女はつまらない。男はいいな〜。」とグチったりする場合もあるでしょう。
ダメダメ家庭の母親は、よくこのようにグチったりしますよね?

勿論のこと、実際に女性として生まれたことによる制約を感じる場合も多いと思います。
ダメダメ家庭の母親が、自分の娘を相手にそのようにグチったり、女性の制約を強調することについては以前に配信いたしました。

「男は自由に社会に出て、会社で働けて、幸せだな!全くうらやましい!!」実際にそう思うこともあるでしょう。しかし、もしグチの相手が男の子だったら、聞かされた側は具体的にどうすればいいのいでしょうか?

「男に生まれて、母上をうらやましがらせてしまって申し訳ありません。この借りはきっと返します。」と「思うべき」なんでしょうね。他にどうすればいいのかな?
「アナタが老人になったら必ず面倒を見ます!オシメも取り替えます!」
そう言えばいいのかな?

グチの相手が女の子だったら、聞かされた女の子は「私も女に生まれて不幸だわ!」くらいでしょうか?
「じゃあ、一生懸命にがんばってもムダなんでしょうね。」と、人生を捨てるしかありませんよね?
聞いている側も対処のしようがないわけです。

対処のしようがない、返答のしようがない、会話につながらない言葉を発するのが、ダメダメな親の基本的スタイルです。

このような場合、そのグチっている母親が、実際に会社等で働きながら、女性としての制限を常に感じていて、たとえば実際に困っている具体的な事例を上げての話なら、そんなグチを聞かされる子供にとっても理解できるわけです。
「私が会社でこのような意見を言っても、全然取り合ってくれなかった。しかし、男性の同僚が同じ意見を言ったときは出席者は真剣に聞いていた。」「同じ仕事をしているのに給料は違う。」とか・・・
だから子供と、具体的な事例について議論したり会話することができるわけです。

しかし、そのような実際の就労体験や、夫と調整して外で働く努力すらしていない場合でもやっぱりグチったりするんですね。夫と家事分担について何も話し合いを持たないような母親から「女は家事があるので、働きに出ることができない。」とグチられても、聞いている方は困ってしまうわけです。

その制約の中で最大限自分の能力を発揮させために、努力する姿を見ていれば子供としても対処できるわけですが、そのような努力を全くしないで、ひたすらグチられてもねぇ・・・
単なるグチで終息されては、聞かされている方は「あ〜あ、女はグチっているだけでいいんだからラクなものだ!」と思ってしまうことになる。男の子にしても女の子にしても、程度の低いグチを聞かされて同情はしませんよ。そこにある感情は侮蔑だけ。
このような母親の元で育った子供の将来がどのようなものであるかについては論を待たないでしょう?

ダメダメな母親の元で育った男の子は、マトモな結婚相手を選択することが難しくなりますよね?だって、「女なんて所詮はこんな程度。」「一緒にいてもロクなことない。」「期待するだけムダ!」と、自分が体験した実例から判断してしまいますよ。
一番よく知っている女性が、カスのような人間なんだから、そんな体験からどうやって、女性に対して期待を持つの?

また、女の子も目の前の雛形の出来が悪いんだから、どうしても将来の困難が付きまとうことになります。自分なりに努力する人ではなく、グチばかりの人間を見ているんだから、努力の仕方もまったくわかりませんよ。

ということで、ダメダメ家庭によくある「反面教師」なる言葉が登場することになるわけです。
しかし、これも何回も書いていますが、「反面教師」は言葉としては存在していても、役に立つ有名な反面教師など存在しないでしょ?そんな反面教師などについて考えるより、ちゃんとした先輩というか、「人生の師」を見つける方がマトモなんですね。

しかし、それこそ一番よく知っている女性が、「人生の師」を持っているわけもなく、そしてその「人生の師」について語るわけもなく、ただひたすらグチっているだけ。
やがては、グチを聞かされ続けた子供もそんな雰囲気に順応してしまう。
まあ、こうやってグチの種は後世に伝っていくわけです。

それにこのようなグチを展開する母親は、結局は家事もちゃんとやっていないことが多いもの。以前に配信した「大雑把」だったりするんですね。
家事をちゃんとしないのに、「家事があるから働きに出ることができない。」などと子供にグチるわけ。

結局は、「女はツマラナイ!」という理由で、自分自身に甘いわけです。自分自身を被害者として憐れんでいるだけ。
そんな姿を見せられ続けたら、「アンタは、それならそれで結構だけど、子供は作るなよ!」と子供の方としては思ってしまいますよね?
しかし、その手の母親は当然のこととして、「子供がいるから、外で働きに出ることができない。あ〜あ、女はイヤだ!」とますますグチに磨きをかけるだけ。

夫が少しはマトモだったら、その点を指摘して妻に改善を求めることもできるでしょうが、夫もダメダメなので、結局はそのままの状態。
そんな環境で子供がマトモに育つでしょうか?
ということで、子供の方もダメダメ家庭の伝導者になっちゃうわけです。

女性としての制約があっても、それなりにがんばっている女性であれば、亭主を選ぶ際に、自分の努力をサポートするオトコを選ぶことになるし、子供もサポートしてくれるもの。
しかし、グチっているだけの女性は、やっぱりグチっているだけの男性と一緒になり、ますますグチの種が増えていくことになるのは、それこそ小学生でもわかること。
そんなグチの充満した家庭で育った子供も、親からのグチに順応してしまうか、グチばかりの母親から逃げていくことになる。
そうして、「ウチの子が、訪ねてこないわ!」と、やっぱりグチ。

この手の母親は、一緒にグチることのみがコミュニケーションとなっている。
だから、一緒にグチれないと、不満を持つ。
それこそ、「ウチの子は女の子らしくない!」なるグチとなる。

「女の子らしくない」というと、それこそ男の子と一緒になって、ゲンキに遊んでいるの?
そんなゲンキな女の子の母親は、自分の娘について「女の子らしくない」とグチったりはしないもの。「女の子らしくない」という言葉であっても、まあ、グチるのではなく、笑っているだけ。
つまり、そこに被害者意識がないわけです。

「女の子らしくない」とグチっている母親は、自分と被害者意識なりグチの共有ができないことを嘆いているわけ。
「ああ!お母さん!ワタシたち女性って、なんてかわいそうなの?!」
そのように母娘が手を取って嘆きあうのが、その手の母親が言う「女の子らしさ」というもの。
そんな母親からの要求に順応してしまうと、その女の子が、成長後は、女性運動に入れ込むことになってしまう。
あるいは、グチばかり言っていて、何もしない母親を見ていた男の子は、長じた後になって、「オトコは逆差別を受けている!」と被害を語るようになってしまう。
いずれにせよ、親譲りの被害者意識を持ち続け、それを主張するだけ。

女の子にしても、男の子にしても、一番よく知っている女性を基準として、女性一般への視点となるわけでしょ?
そして、ダメダメ家庭においては、その一番よく知っている女性である自分の母親がダメダメ。
だから、「女性への敬意」とか「女性への蔑視」とかの一般論は言えても、具体論は何も言えないわけ。具体的な女性について考えるだけで、不快な気分になってしまうわけ。
逆に言うと、その手の一般論化したジャンダー論は、その人の出身家庭の不全をよく示しているものなんですね。

(終了)
***************************************************
発信後記

ダメダメ家庭とは直接には関係ありませんが、やはり先週末のロシアでの痛ましい事件について触れる必要があると思います。
このメールマガジンでは肥大化したダメダメ家庭の集団として、アラブを中心としたイスラムの人々や、朝鮮半島の人々の行状を取り上げたりしています。

この手の人々はやたら二者択一的思考で、対抗心が強いので、どうしても誰かを恨むことを自分自身のアイデンティティーとする傾向があります。
憎むべき敵を倒すことだけを考えてしまうわけ。
だから会話ができない人々であるとも言えます。

その手の人々が関係した事件があったりすると、キレイ事のオヤジなどが「そのような人々とは、話し合いを持ってじっくりと事に当たるべきだ!」などと言ったりすることがありますが・・・そもそもそのような事件を起こした人々は「会話によるコミュニケーション」というものに重きを置いていないわけですから、そんなキレイ事は通用しないでしょ?そもそも、だからテロをするわけでしょ?

「話し合いを持って事に当たるべきだ!」という考えそのものが、いわゆる西側の・・・文明国の発想であるわけです。「話し合いによる相互理解が理想」というのは西側の理想であって、その手の人々の理想ではないわけです。

「まずは話し合いを!」という事件の外側からの理想論こそが傲慢なんですね。
大体、ロシアの事件でも子供が何日も水も飲まないで生きていられるわけもないのですから、いずれは強行突入も致し方がないでしょう。残念ですが・・・
当事者意識をもって考えていれば、「とにかく最後まで話し合いで解決を!」などとキレイ事はいえないはずです。

それにロシアとイスラムの問題は実に根が深い。
19世紀のロシアの作曲家にムソルグスキーという人がいます。ピアノ曲の「展覧会の絵」とかオペラの「ボリス・ゴドノフ」などの作品があります。「禿山の一夜」という曲は、お聞きになられた方もあるでしょう。

そのムソルグスキーが友人に宛てた手紙にはこのような文章があったそう。
「もう何世紀続いているんだろうか?ロシアとイスラムとの戦いは?」
19世紀に、すでに「もう何世紀も続いている」問題が、21世紀になったら「話し合い」で簡単に解決できると思っていたとしたら傲慢です。

そういえば、先週取り上げたラース・フォン・トリアー監督の「ドッグヴィル」でも「人の罪を許すなんて考えは傲慢だ!」というセリフもありました。
ロシアの事件の最後も、映画「ドッグヴィル」の最後も・・・似た結末になったのは決して偶然ではないわけです。だって「会話」ができない、するつもりもない人が当事者にいるんですから。
R.10/11/18