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カテゴリー 映像作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 04年12月17日
タイトル アントワーヌ・ドワネルの冒険
監督 フランソワ・トリュフォー
このメールマガジンでは、一種の総集編として、「作品の中に描かれたダメダメ家庭」として映画作品などを取り上げています。そのような芸術作品の中で描かれたダメダメ家庭の具体的事例をピックアップしているわけです。

ただ、取り上げる作品は、あまりに直球なのは避け、ちょっとヒネリを効かせてダメダメ家庭を描いている作品を取り上げています。
誰が見ても「この映画はダメダメ家庭を描いている。」と分かるような作品なら、私がここで取り上げて考えるまでもありませんし・・・

まあ、そうなんですが、今回は直球にダメダメ家庭を描いた映画を取り上げることにいたします。
お正月休みにでも、じっくり映画を見るのもいいのでは?

今回取り上げる作品は、前回配信の「いつも同じ服」というタイトルの文章でちょっと触れましたフランソワ・トリュフォー監督による「アントワーヌ・ドワネルの冒険」です。
・・・と言ってもそんなタイトルの映画作品はありませんヨ。

フランソワ・トリュフォー監督の連作映画をまとめてそのように言ったりするわけ。
フランソワ・トリュフォー監督は、59年の「大人は判ってくれない」、62年の「アントワーヌとコレット」、68年の「夜霧の恋人たち」、70年の「家庭」、78年の「逃げ去る恋」と、ほぼ20年間に渡ってアントワーヌ・ドワネルという人間を主人公とした映画を撮り続けたのですが、その作品群を総称して「アントワーヌ・ドワネルの冒険」と言ったりするわけです。

「大人は判ってくれない」なんて作品のタイトルは皆さんも聞いたこともあるでしょ?
少年が黒いタートルネックのセーターを着ているポスターでおなじみともいえるかも?
「大人は判ってくれない」では14歳くらいの少年だったアントワーヌ・ドワネルが、「逃げ去る恋」では中年のオヤジになっちゃっていたりするわけ。それらの作品の主人公のアントワーヌ・ドワネルを、ジャン・ピエール・レオーという俳優が、それこそ20年に渡って演じ続けたわけ。

まあ、映画の歴史でも実に珍しいケースと言えるんでしょう。
このアントワーヌ・ドワネルという主人公は、監督のフランソワ・トリュフォーの分身のような存在で、実際に「大人は判ってくれない」は、トリュフォーの自伝的要素の強い作品なんですね。

トリュフォー監督の分身であるアントワーヌを演じ続けた俳優のレオーは、顔が段々と監督のトリュフォーに似てきてしまったほどです。だから初対面の人に「トリュフォーの息子」だと勘違いされたこともあったそう。まあ、仕事を一緒にしているし、顔はそっくりだし・・・では、そう思われても仕方がないでしょうが・・・

フランソワ・トリュフォーはまさに実際のダメダメ家庭の出身で、自らの体験をこれらの作品に込めたわけです。今回は、上記5作品をまとめた形で、ダメダメ家庭の具体的事例をピックアップすることにいたします。

ただ、長期に渡った作品たちですので、「現在の時点でのダメダメ家庭」の具体例と、「ダメダメ家庭出身者のその後」の具体例、ならびに「ダメダメ家庭をめぐる環境」そのようなカテゴリーで分けた形で考えてみたいと思っています。

【現在の時点でのダメダメ家庭】

1. いつも同じ服・・・「大人は判ってくれない」でのアントワーヌはいつも黒のタートルネックを着ている。ダメダメ家庭の親は子供の衣服には頓着しない。だから子供はいつも同じ服を着ていたりするんですね。

2. 音に敏感・・・ダメダメ家庭の子供は、自分の身は自分で守らなければならない。親は子供のピンチの時には助けてくれないわけです。ということで危険を早めに察知して、予防する必要がある。子供はそのような危険情報を耳で察知するわけ。だって危険が目で見えた段階ではもう対処できないでしょ?目と目があったらそれで万事窮す。ということでアントワーヌはやたら音を気にするんですね。

3. 名前を呼ばない・・・「大人は判ってくれない」での母親は、自分の子供の名前であるアントワーヌという名前を呼ばない。それこそ「この子」でおしまい。もちろん子供の方も「ママ」なんて言わない。

4. 子供の横でケンカ・・・ダメダメ家庭では子供の前で夫婦ケンカなんて当たり前。それでは子供もいたたまれませんよね?

5. 挨拶がない・・・「お帰りなさい!」「ただいま!」なんて基本的な挨拶もなくなっている状態。母親が帰って来たら子供に対して「あの買い物はやったか?」と言ったりするのが第一声。

6. 常にお金の話題・・・家族での会話のネタはお金の話題が多い。お使いのおつりのこととか・・・やたらケチくさいのもダメダメ家庭の特徴ですね。

7. 泣かない・・・「大人は判ってくれない」でのアントワーヌは泣かない。まあ、ダメダメ家庭では泣いてどうなるわけでなし・・・それに常に自分の感情を押し殺す習慣ができているので、泣かないわけです。アントワーヌが唯一泣くのが補導されてパリから引き離されるところの車中。彼はパリという街には愛着があったわけですね。

8. 母親が学校に迎えに来ない・・・他の子供たちの親は学校に子供を迎えに来ています。ところがアントワーヌの親は迎えには来ない。夫婦共稼ぎという理由もあるでしょう。しかし59年当時のフランスでは子供の迎えのために会社をちょっと抜けるのも問題はなかった様子。その気になればできるわけです。結局、アントワーヌは親が迎えに来ない子供たち同士で集まって「チェッ!面白くないな!」とウロウロすることに・・・

9. ぞんざい・・・料理を出すにもダメダメな親はやたらぞんざい。「オイ!さっさとエサを食えよ!」そんな感じ。まあ、やたらぞんざいなのはダメダメ家庭の基本ですね。

10. いつもイライラ・・・まあ、ダメダメな親がいつもイライラしているのもお約束。この母親は字を書くにも「とがった字」なんだそう・・・まあ、字にも人格が出て来るわけですね。

11. ウソをつく・・・「どうせ本当のことを言っても信じてくれないし。」そんなセリフもあります。まあ、ダメダメ家庭の子供はウソをつくことが多くなる。それこそ本当のことを言っても信じてくれないのだから当然といえば当然でしょ?あるいは寝たふりとか・・・ごまかしの技術だけが進歩しちゃうんですね。

12. 命令調の物言い・・・ダメダメ家庭の親はやたら命令調です。会話をしようとする意欲がないので、言いっぱなしでいいわけ。だからやたら高圧的なんですね。

13. 気まぐれに構う・・・子供に対し気分次第で怒鳴ったり、突然にやさしくなったり・・・子供としては急にやさしくされても対応に困りますよね?ダメダメ人間は、やり取りに当って、相手のことには何も配慮しなくて、自分の断片的な感情だけで行動するので、そんな気まぐれな態度になってしまうわけ。

14. 母親がいないとリラックス・・・このアントワーヌは母親の顔を見るとビビりだす。母親がいないときには笑顔でいるけど、母親の顔を見ると引きつった表情になってしまう。まあ「亭主ゲンキで留守がいい。」なんて言葉が昔ありましたけど、アントワーヌにしてみれば「母親はゲンキで留守がいい。」というのが本音なんですね。

15. 本が少ない・・・アントワーヌの家庭も一応は本がありそうですが、どうも少ない。親も勉強している姿を子供には見せたりはしていない。これではね。

16. 写真がない・・・家族の写真を居間に飾っておく・・・・なんてことはやらない。というかアルバムも無いんじゃないの?

17. スグに政治のせいにする・・・自分自身でやれることをやらない人間に限って、うまく行かない理由を政治に求めたりするわけ。「政治が悪いから私たちはこうなったんだ!」このことは「逃げ去る恋」で母親の恋人だった人が語ります。「君の母親は社会の不正に怒っていたんだ!」

まあ、それはそれでいいのですが、自分自身でもやれることがあるんじゃないの?政治が悪くても家族の会話なんてできるでしょ?それに、そんなに社会が悪いのなら何故に子供を作ったの?

18. こうなると分かっていた・・・ことが起こってから「何故にこんなことに?」と言い出すダメダメ家庭の親もいますが、ことが起こった後で「やっぱり、ウチの子は何か悪いことをすると思っていた。」と感想を漏らす親もいます。アントワーヌの親はこのタイプ。しかし、そう分かっていたのなら、事前に何か対策を取ればいいのにね。

19. 反抗心が強い・・・「パンをつまむな!」と命令されても、ごまかしてつまんでしまう。別にそんなことどうでもいいことなのに、ルールを破ることに快感を得るわけ。それだけ、いつも命令されているので、命令されること自体が不快なんですね。そして、それに反抗することで、自分の存在証明とするわけ。逆に言うと、本当に自分がやりたいことについて自分でもわかっていないわけ。

20. 上目つかい・・・少年院におけるアントワーヌと女性の医者との会話で、アントワーヌは「上目つかい」の表情。ちょっと媚びたように下から見上げるわけ。ダメダメ家庭の子供の典型ですね。

21. 自活への意思・・・ダメダメ家庭では親は子供の将来のサポートなどはしてくれない。子供としては全部自分でやらないといけないと思いつめている状態。だから「学校を出てスグに働こう!」などと考えることになる。逆に言うと、勉強もできるのに、「就職希望」などと言い出すのは、ダメダメ家庭の子供と見て間違いがないでしょうね。


【ダメダメ家庭出身者のその後】

1. 職を転々とする・・・アントワーヌは職業を転々とする。どれも長続きしない。まあ、これはダメダメ家庭出身者のお約束。

2. 恋に恋する・・・アントワーヌは「恋に恋する」傾向が顕著。「アントワーヌとコレット」ではストーカーまがいのことをしたり、「夜霧の恋人たち」でも魅力的な人妻に妄想を抱いたり・・・付き合っている彼女へ手紙を山ほど送ったり・・・と、やたら恋に暴走するわけ。

3. 自分勝手・・・アントワーヌはいつも「アンタは自分勝手ね!」と言われちゃいます。まあ、それだけ自分のことを考えるのに精一杯なんでしょうね。悪気があるというより、それだけ余裕がないわけ。

4. 甘ったれ・・・子供時代に親に甘えられなかったせいか、アントワーヌは非常に甘ったれ。母親の代償なのか自分より背の高い女性を好んだりする。まあ、結婚してもスグに尻に引かれている状態。付き合っている女性と関係を持ったら、その次の朝からさっそく尻に引かれたりするほど。本人もそのことは受け入れている様子。尻に引かれるのがスキな男性なんですね。まあ、それだけ甘ったれということ。だからいつまで経ってもガキンチョのまま。

5. 食べ物の話題が貧弱・・・ダメダメ家庭出身者は食卓にいい思い出なんてありません。だから食事そのものが好きではないわけ。このアントワーヌも「生け花」の薀蓄は語ることができても、食事の薀蓄は語れないわけ。この食事の薀蓄がないことは、このメールマガジンの最終回でもちょっと取り上げる予定です。(04年当時の構想でした。)

6. 普通というものに拘る・・・「逃げ去る恋」の冒頭でのセリフですが、「アンタねぇ・・・普通の男と言うものは・・・」という女性の言葉に対して、アントワーヌは「ボクだって普通になれるよ!」と反論。しかし、普通になりたくても結局はなれないのがダメダメ家庭出身者。

7. 表現に拘る・・・ダメダメ家庭出身者は「自分自身が認められていなかった。」と思っているので、人に自分を認めさせようと何か作品を作ろうとするわけ。ここでのアントワーヌも「悩み多き自分の子供時代から語った自伝的小説」を書くことになります。まあ、よくありますよね?そんな類の小説。

8. 父親を求める・・・トリュフォーは自分の多くの作品中にパリのエッフェル塔を何がしかの形で入れています。トリュフォーの子供時代にパリの街の中での自分の位置を確認するのにエッフェル塔が役に立ったとか・・・しかし、以前にも書きましたが、このような高い塔は精神分析学のフロイト的には「父親」という意味。母子家庭に育ったトリュフォーがエッフェル塔を執拗に登場させるのは、頼りになる「父親が欲しい」という深層心理なんですね。本人が自覚しているかは別ですが、それを自身の映画で表現しているわけ。

9. 親の葬式に行かない・・・このアントワーヌは母親の葬式にも行かないし、当然のこととして墓参りにも行かない。「逃げ去る恋」では母親の恋人だった男性から「どうしてお母さんの葬式に来なかったの?」と聞かれて「軍隊で営倉に入っていて、行けなかった。」などと答えています。

しかし、映画で映っている母親の墓石によると母親が亡くなったのは1971年。この時はアントワーヌは既に軍隊を抜けて、家庭を持っていた時期。つまりその説明はウソなんですね。まあ、それだけ今でも嫌っているわけなんでしょう。

10. 母親への恋慕・・・自分に冷たかった母親だからこそ、母親を求めるわけ。これはシリーズ最後の作品である「逃げ去る恋」で強調されています。最初のテーマ曲には「思えば母親もこの香水をつけていた・・・」といったフレーズもありますし、母親への恋慕に悩んだ作家ポール・レオトーへの言及もあります。

あるいは最初の作品である「大人は判ってくれない」でもそう。少年院に入れられたアントワーヌが脱走して海に到達します。海はフランス語で「mer」(メール)。同じメールという発音で「mere」は母親という意味。つまりフランス語では「母なる海」なんですね。「海」に到達したということは「母」に到達したという意味になるわけ。しかし、海つまり母親に到達した少年アントワーヌは困惑した表情になってしまう。「一体ボクはどうすればいいの?」そう思わずにはいられない。

ちなみに「mer」と「mere」での微妙な表現はその他でも出てきます。母親が役人に対し「海の近くの少年院に入れてください。あの子は海が好きなんです。」そういうセリフがあります。まあ、日本語字幕だとそうなんですが、フランス語的には「母親の近くの少年院に入れてください。あの子は母親が好きなんです。」とも聞こえるわけ。自分の子供を少年院に放り投げる母親のセリフとしては、スパイスが効いているでしょ?

あるいは「逃げ去る恋」では主人公のアントワーヌが新たな恋人サビーヌを見つける。それは、破れて落ちていた写真を見て一目で恋に落ちたわけ。その写真の女性を見つけるために気が狂ったようにパリ中を探す。その写真はサビーヌの写真なんですが、写真のその目はアントワーヌの母親の目と同じ目をしています。結局は、自分の母親と同じ目をしている女性に恋をしてしまった・・・そんなエンディングになっているわけです。

つまり、シリーズ最後において、とうとう母親に到達したわけ・・・トリュフォー流に言うと「絶望的なハッピーエンド」だそう・・・まあ、確かにネ。


【ダメダメ家庭をめぐる環境】

1.学校の対応力・・・子供が問題行動を起こしても、学校では「アイツはダメだ!」とレッテルを貼るだけ。せめて学校がちゃんと対応すれば早めに何とかできるのでしょうが・・・
結局は、子供の事件はダメダメな家庭とダメダメな学校の条件が合わさって起こるものなんですね。

ちなみに、アントワーヌの通う学校の教員ですが、「強圧的な国語教師、キザな外国語教師、バカな体育教師」と、このキャラ分類は日本の学校と全く同じ。そのあたりは万国共通なんでしょうね。

2.事件をめぐる対応・・・シリーズ最後の作品である「逃げ去る恋」ではドラギニャン事件というのがエピソードとして出てきます。自分の子供を殺してしまった親の事件です。その犯人は、弁護されることを拒否して死刑になることを望んでいるとか・・・まあ、死刑になることを望んでいる点は日本での大阪の事件の犯人と同じですね。あるいは最近の韓国でもありましたよね?つまりそれだけ、あの種の問題は普遍的な問題なんですね。

3.子役の問題・・・「大人は判ってくれない」では少年アントワーヌの役にジャン・ピエール・レオーが抜擢されています。彼はその後は本格的な俳優になって今でも活躍しています。しかしカタギの人とはとても言えない。83年にトリュフォー監督が死去してしまうと、ショックで精神病院に入院したりしているほど。精神不安定な人なんですね。

子役ができる人は、ちゃんとした大人にはなれないわけ。日本だってそうでしょ?子供と言うものは本来そんなに表現力がなくてもいい存在でしょ?子供の頃から表現力があるということは、その子供の家庭がダメダメ家庭ということなんですね。

まあ、そんな子供はまさに映画業界のようなところでしか生きていけないわけ。それでも映画業界で生きていければいいのでしょうが、子役出身で大人になっても現役なのは、このレオーとアメリカのジョディ・フォスターとあとナスターシャ・キンスキーくらいでしょ?子供体験をしていない子役は、まっとうな大人を演じることができないわけですね。

4.オマエのことは私が一番わかっている・・・ダメダメ家庭の親は子供の話などは真剣に聞きもしないくせに「オマエのことは親である私が一番わかっているんだ!」と言ったりすることが多いことは、以前に配信しております。

トリュフォーの監督作品においては、トリュフォーの友人だった日本の映画評論家が「解説」をしたりしています。しかし、どうもピントが外れている。彼が書いた本を読んだこともありますが、「『逃げ去る恋』では、ザビーネ役に何故に新人のドロテを起用したの?」などと聞いたりしています。

しかし、上記のように「大人は判ってくれない」での母親役と似た目をしている女優を探したのは、映画を見ればすぐにわかること。もし分かっていてネタで書いているのなら問題だし、わかっていないのなら、更なる問題。しかし、芸術家の問題を考えるに当たって、その芸術家の近親者とか友人が、理解者だった例はほとんどありません。それこそベートーヴェンだってそんなもの。ベートーヴェンの近くにいた人は彼のスゴさがわかっていなかったりするんですね。

トリュフォーの友人の日本の映画評論家は決して意地悪な人でもニブイ人でもないんでしょう。トリュフォーに対して親愛の情を持っている人なんでしょう。しかし、友人だと逆に作品を誤解してしまう・・・ダメダメ家庭とは直接関係はありませんが、頭には入れておいた方がいいことなんですね。

5.ダメダメ家庭の描き方・・・この「アントワーヌ・ドワネルの冒険」のシリーズはダメダメ家庭の問題を描いています。では、どんな風に?

「大人は判ってくれない」では、かなりシリアスな描き方です。しかし、その「大人は判ってくれない」でもギャグのようなシーンがあったりするわけ。それ以降の作品ではむしろコミカルな調子でダメダメ家庭の問題を表現しています。それに最初の「大人は判ってくれない」でもそうですが、ある種オムニバス的にダメダメ家庭のエピソードを組み合わせたスタイルになっています。まるでモザイクを組み合わせたようなスタイルになっていて、一貫したストーリーがあるわけではないんですね。

ダメダメ家庭を描く際に「起承転結の流れのはっきりした、癒しと感動のドラマ」にしてしまうとウソ臭い。かと言ってシリアス一辺倒では、作るのもシンドイし、見るのもシンドイ。だからどうしても「コミカルな軽い筆致」で、「それぞれのエピソードをモザイク的に配置」するようなスタイルにならざるをえないわけですね。

まあ、私から言わせていただければ「君の魂胆はよくわかるよ!フランソワ!」と言ったところ。


この主人公のアントワーヌ・ドワネルは、社会人として、あるいは夫としては、どうしようもない人間ですが、友人としては面白い人。

「逃げ去る恋」では、最初に離婚のシーンがあるのですが、夫婦でタクシーに乗り合わせて裁判所に出かけるわけ。その車中では「アンタ、離婚の日程を忘れちゃうなんて・・・だらしないわねぇ・・・」と妻から怒られている。それもタメ口で怒られているわけ。ご存知のようにフランス語では敬語とタメ口の使い分けがあるのですが、笑顔でタメ口で会話しながら離婚会場?に向かうのも面白いシーンですね。

アントワーヌは自分の出身家庭がダメダメであると自覚がある。自分の情けなさをわかっている。新たな相手と結婚しても、またモメること必定でしょうが、暴力はしないわけ。
最後の作品「逃げ去る恋」における微妙なハッピーエンドは、挿入される「大人は判ってくれない」でのアントワーヌ少年の笑顔のシーンと同じように、束の間のものでしかないわけです。

青年時代の始まりを告げる「アントワーヌとコレット」では「目が覚めて」「窓を開ける」シーンから始まります。何気ないシーンですが、「あのシンドイ子供時代は終わって、さあ!出直しだ!」という意味があるわけ。

しかし、最後の「逃げ去る恋」では、シャッターを閉め(閉めるのは別の女性ですが)、母親と同じ目をした女性とキスしながらエンディング。ちょっと出口がないエンディングとなっている。

芸術に対し、「癒し」とか「感動」とか「良識」などを求める方も多いでしょうが、実際にはそんなモンじゃあないわけ。作り手の全身全霊をかけた表現と、それを受け止めることができるごく一部の人・・・という図式があるだけなんですね。

芸術などが必要でない人間、ものが見えない人間に限って「良識」などと言い出したりするもの。まあ、芸術史の本などはそんな記述で一杯ですからね。
トリュフォーの「アントワーヌ・ドワネルの冒険」には癒しも感動も良識もありません。しかし、真実はあるわけです。真実と言うものは感動にはつながらない。ただ作り手も受け手も、真実だからこその「救い」や「出口」があるわけです。

(終了)
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発信後記

休み前ということで、またもや怒涛の長さで申し訳ありませんでした。
レンタルヴィデオショップでは、少なくても「大人は判ってくれない」くらいはどこのショップでもあると思います。

ダメダメ家庭の出身ということは本人にはどうしようもないこと。
問題はそれを自覚して、そんな自分を笑うくらいでないとね。
ユーモアの感覚って、ダメダメ家庭出身の人間には絶対に必要なんですね。

トリュフォー自身もユーモアの感覚があって、これらの作品が悲痛さだけに流れるのを防いでいるわけ。
「夜霧の恋人たち」では、バルザックの「谷間のゆり」という本を読んでいたアントワーヌがホテルに就職する。ホテルで他人の夫婦ケンカに巻き込まれるわけ。怒った夫は妻の胸の谷間にユリの花を投げつけるシーンがあります。
まあ、これも「谷間のゆり」。
こんなギャグが結構あったりするわけ。
R.10/11/17