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カテゴリー ダメダメ家庭の会話の雰囲気
配信日 05年2月23日
タイトル 背景の違いを無視する
相手との会話が、どうもしっくり来ない。
質疑応答をしても、全く噛み合わない。
このような事態って、たまに起こりますよね?

そもそも相手の言っている意味が、ピンと来ない。

ダメダメ家庭の会話に限らず、このような事態は起こったりするものです。
いくら丁寧に説明しても、相手が納得するどころか、逆に逆上したりする。

そのような時って、質問の言葉は理解できていても、質問の意味がわかっていないわけ。そんな意味がわかっていない質問に対して、形だけで回答するから、相手が逆上したりするんですね。
質問してきた人の問題意識までは認識できていない状態のままで回答すると、そんな事態になったりするもの。

「私の質問にちゃんと答えてよ!」
「はぐらかさないでよ!」

そう言われても、ちゃんと答えているつもりなんだけどなぁ・・・
そんな時ってありますよね?

私の個人的な例として、こんなやり取りをしたことがあります。
アメリカのご婦人から、こんな質問を受けました。

「日本人はどうして、猫の尻尾を切るんだ?」
皆様だったら、どう回答しますか?
「切った尻尾はスープにします。」って、それは牛の尻尾でしょ?
「切った尻尾の毛で、ヴァイオリンを弾く弓に使います。」って、それは馬の尻尾でしょ?

さあ、日本人はどうして猫の尻尾を切るんでしょうか?

しかし・・・日本人は猫の尻尾なんて切らないでしょ?
だったら、そんな質問の回答は、
「日本人は猫の尻尾なんか切らないよ!」でいいの?

しかし、その回答で、質問したアメリカのご婦人は納得するのかな?
「オマエは切らなくても、別の日本人が切っているんじゃないか?」
「オマエたち日本人は、何かやましいことがあって、隠しているんじゃないか?」

そう思うものでしょ?

しかし、そもそもどうして「日本人は猫の尻尾を切るんだ?」という質問が出てくるわけ?
これって、嫌がらせなの?
質問を受けた方だって、怒りたくなるかもしれません。

だから、このような質問に対する、有意義な回答は、
「日本人は猫の尻尾を切らない。」
という、言葉としては正しい回答ではなく、
「猫の尻尾を切っている日本人なんて、私は知らないけど、あなたはどうして、そのようなことを聞くの?猫の尻尾を切っているシーンを見たの?」と、逆に質問する必要があるわけです。

そのように聞くと、質問してきたアメリカのご婦人も「私はアメリカで沢山の猫を見てきた。どの猫も尻尾が長かった。ところが日本に来て、生まれて初めて尻尾が短くて丸まっている猫を見た。ビックリした。ほんとうに、どうして日本人は猫の尻尾を切るの?」と、質問の背景を説明してくれるわけです。

ここまで聞かされると、質問の意味もわかるでしょ?だから意味のある回答もできるわけ。
「あなたが見た尻尾の短い猫は、日本の古来種なんですよ。生まれながらに尻尾が短いわけ。人間が人工的に尻尾を切っているわけではないの。」
そのように回答すれば、質問したアメリカのご婦人も、質問を受けた日本人も納得することができますよね?

まあ、考えてみれば、昔に縁側でお婆さんのひざの上で日向ぼっこをしていた猫は、尻尾が短くて丸まっていた猫が多かったような気がします。
昔の日本の猫は、ずんぐりむっくりの体格で手足や尻尾が短かったというわけなのかな?最近の猫はスリムで手足が伸びてきました。
この点は猫も人間も同じですよね?
そう言えば、あの「ドラえもん」も尻尾が短い。

「ドラえもん」の耳はどうしてないの?
という質問に対しては、「ねずみにかじられたから。」という回答でいいわけですが、「ドラえもん」の尻尾はどうして短いの?切っちゃったの?
という質問も、ありえるわけです。
まあ、「ドラえもん」に長い尻尾はヴィジュアル的に似合いませんが、やっぱり原作者の藤子不二雄さんの世代が影響しているんでしょうね。「ドラえもん」は未来型の猫というより、古来型の猫というわけ。

・・・と・・・ダメダメ家庭とは直接関係ない話ですが・・・
このように、住んでいる世界が違っていると、その基本となっている考え方や体験が違っているわけですので、言葉だけは同じでも、意味が違っていたりするわけ。
だから言葉のやり取りだけで「正しい」やり取りをしても、お互いが納得するやり取りになるわけではないわけです。

質問されて回答する。
同じような背景を背負っているもの同士なら、お互いが納得できたりします。
しかし、国が違っていると、そうは簡単ではないでしょ?
しかし、背景が違っていても、じっくりやり取りをすると、「日本人は、猫の尻尾を切ったりするようなヘンな連中ではないんだ!」と納得してくれるわけ。
「日本人は猫の尻尾を切らない!」と正しい回答をしても、そうは思ってはくれないでしょ?
質問の背景から考えて見ることが必要なんですね。

背景の違いというと、大人と子供では大きく違っています。
子供はそれまでの人生で得てきた、「基本的考え方」を元に、親に対して質問をするわけ。
親の持っている背景とはかなり違っているわけです。

だから、質問の意味すらわかりにくかったりするわけ。それに子供だったら表現力がまだ十分ではないでしょ?アメリカの年配のご婦人だったら、質問の背景となった体験をちゃんと説明できる。しかし、子供はそうは行かない。

子供としては「どうしてこの質問にちゃんと答えてくれないの?」と不満を持ちますし、親としては「どうしてこんな質問をするの?嫌がらせなの?」とやっぱり不満に思ってしまう。

こんな不満の積み重ねがどんな結果につながるのか?
まさに会話が不全のダメダメ家庭が誕生しちゃうわけです。
だって、子供だって、そんな親と会話しても楽しくありませんからね。

本当は、相手の質問の意味をちゃんと理解した上でのやり取りをすれば、お互いが楽しいわけですよね?
本来は、そのような背景の違いこそが楽しかったりするものでしょ?
それは単純な言葉のやり取りだけでは、判らないものなんですね。

ちなみに、20世紀を代表する哲学者のルードヴィッヒ・ウトゲンシュタインも同じようなことを言っています。
「もし、ライオンが言葉を話せても、その意味は我々にはわからないだろう。」
ライオンの世界そのものが理解できないと、人間とライオンのお互いが納得できるやり取りにはならないわけです。

子供から質問されたら、子供の質問の意味なり、その背景から考えてみる。そうすると、色々なことがわかってくるわけです。しかし、ダメダメ家庭ではそんな配慮など無縁。配慮どころか逆上する始末。
そんな会話を経て10年後にどうなるか?なんて、いうまでもないことでしょ?

この前提の違いという問題は、当然のことながらマトモ家庭出身者とダメダメ家庭出身者の間で顕著に発生する問題です。
背景となっている家庭の様相が全然違っているので、基本的には同じ言語でも、意味するところが全然違ってしまうんですね。

ダメダメ家庭の子供の説明を、マトモ家庭の常識で理解しようとしても無意味なんです。ところが、現実では、ダメダメ家庭の子供の説明を、マトモ家庭の常識で理解しようとして「よくわからん!」とか嘆いたり、挙句の果てには逆上する始末。
これでは、ダメダメ家庭の子供の方もますます、説明の意欲がなくなって来るでしょ?

昨今の未成年の事件が起こったあとで、「犯人」の子供の説明を受け止める周囲の対応なんて、典型的なまでに会話の不全状態ですよね?「犯人」の子供の言葉を、強引に自分の考え方の枠組みで理解しようとしていますよね?それでは「動機の解明」もヘチマもないわけ。こんなことだから、同じような事件が多発するわけですよ。

相手の考えを理解しようと思ったら、相手が背負っている世界そのものを理解する必要があるわけです。
少なくてもその意欲は持たないとね。

(終了)
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発信後記

本文中で言及いたしました哲学者のルードヴィッヒ・ウトゲンシュタインもダメダメ家庭出身者。まさに会話の不全を体験した人。だからこのような「コミュニケーションの不全」の問題を考え続けることになってしまったわけ。
前にも書きましたが、知性というものはシンプルなもの。
頭が悪い人間が、ややこしく「解説?」してしまい、かえってわかりにくくなってしまったりするんですね。

ちなみに、私は前回書きましたが風邪気味で・・・
昨日、どうも治らないなぁ・・・・・と、思ったので体温計で熱を測ったら、39.5℃でした。
面白いもので、それまで「ちょっと調子が悪いかな?」程度に考え、普段とあまり変わらないことをやっていたのに、その数字を見たら、急にめまいが起こってきました。
「気の持ちよう」って、あるんだなぁ・・・と、苦笑いしながらこの後記を書いているところです。

しかし、「自分自身のダメダメをちゃんと自覚しないと、行くところまで行ってしまいますよ!」としつこく書いている私が、自分自身の体調のダメダメに気がつかなかったなんて・・・笑うに笑えない状態。こうなると行くところまで行っちゃうかな?
R.10/11/18