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カテゴリー ダメダメ家庭の会話の雰囲気
配信日 05年3月7日 (10年11月16日 記述を追加)
タイトル 会話の評価の行き違い
ダメダメ家庭だって、一応は会話があったりします。
しかし会話と言っても、形の上で言葉が飛び交っているだけで、「やり取り」には、なっていない。
相手の話を聞いて、その考えを踏まえて自分の考えを言う・・・そんなスタイルが成立しているわけではなく、お互いが勝手に自分の考えを言っているだけなんですね。
まあ、対面での独り言の応酬という言い方が適切でしょう。

まあ、ダメダメ家庭というものは、そういうものなんだから、今更どうしようもないわけ。「私の出身家庭はヘンな家庭だ。」と自覚するしかないわけです。しかし、抑圧的なダメダメ家庭の人間にとって、この自覚が一番難しいことはこのメールマガジンで何回も書いています。
ということで、ダメダメ家庭出身の人間は、お互いが勝手に自分の意見を言い合うというダメダメ家庭の会話のスタイルを、自分のダメダメな家庭以外でもやってしまうわけです。

相手が意見を言っても、全然違うことについて発言したり・・・
相手が「そのことは興味ないんだけどなぁ・・・」と言ったニュアンスをにじませたりしても、相手にお構いなしで自分の言いたいことだけを相変わらず言うわけ。
決して「やり取り」には発展しないんですね。
そうなると、会話を期待していた人には面白くない。
「ああ、この人とは合わないな。」と納得することになる。

何も世の中すべての人と、話が合う必要なんてありませんからね。見解の方向性が違っていても、会話が楽しめる人だったら、別の話題で話が合う可能性もあります。しかし、会話のスタイルが合わないのだから、どうしようもないでしょ?
「この人との会話は、つまらなかった。」そう判断しても問題ないわけ。

しかし、ダメダメ家庭との人との会話でビックリするのは、その会話の評価そのものなんですね。
全く噛み合わなかったやり取りの後で、「今日は楽しかったね!」と、相手から言われちゃう。
「楽しかった!」と言われたら喜ぶべきなの?

そうではありませんよね?意見の違いはともかく、会話のスタイルが根本的に違っていては、楽しさにはつながらないでしょ?
お世辞で言っているの?社交辞令なの?
会話の成果は、相互理解でしょ?今回の会話でどんな理解が得られたの?
最後の挨拶の言葉だって、他に言いようがあるでしょ?
「今日は私のために手間を取らせてしまって・・・ありがとう。」って、これでいいじゃないの?
全く噛み合わない会話の後で「今日のおしゃべりは楽しかったわ!」と言われても、逆に戸惑ってしまうでしょ?

しかし、往々にしてダメダメ家庭の人は本当に、楽しかったと思っているわけ。だってそれが、その人のいつもの会話のスタイルなんですから。
「いったい何が楽しかったのか?」「どんな知見が得られたのか?」「相手に何を分かってもらったのか?」などと具体的な思考をせず、ひたすら抽象的な一般論でまとめてしまうダメダメ家庭の発想とすれば、そんな噛み合わない会話を「楽しいおしゃべり」と認定することも朝飯前。

これが友人のような同格の立場なら問題はありません。そんな人とは、もう会ったりはしなくなるだけですよ。
問題はそれが親であるケースです。

親だったら会わなくなるという手段は取れないわけ。
かと言って、その親が会話の能力を持っているわけでなく・・・そして、自分の能力の不全に気がついてすらいない状態。

子供と全く噛み合っていない会話をした後で、「オマエのことがよくわかった!」などと喜んでいたりする。その親の喜びの表情を前にして、子供の方はますます途方に暮れることになる。
「いったい、このワタシの何がわかったのさ?」

ちょっとした知り合いとの会話の後で「楽しいおしゃべりだったねぇ・・・」などと念を押されるケースが実際にあったりするでしょ?本当に楽しいやり取りの後だったら、「そうだね。」で済むこと。
ところが全く噛み合っていないやり取りの後で「楽しいおしゃべりだったわ!」と言ったりする人もいます。あるいは後になって「あの時は楽しかったね・・・」とか・・・
そう言われても「一体全体、この人は何が楽しかったのかな?」と怪訝に思うだけ。

「楽しいおしゃべり」と、あえて認定する人は、会話の基本ができていないわけです。そのような人は確実にダメダメ家庭の人。
だから、そんな人にヘタに付き合ったりしたら、後々面倒なことになるだけなんですね。

かみ合わないやり取りを、楽しい会話だったと評価されるくらいの段階なら問題も小さい。コッチが成果ゼロと評価して、アチラ側が何がしかのプラスを認めているということだから、そのプラス分は、たとえ誤解であったとしても、相応には価値があったということ。
しかし、プラスではなくマイナスが発生するやり取りだったら、その評価の行き違いによる影響は大きなものになる。

それこそ、こちらがちょっとしたおしゃべりをしただけなのに、相手側は非難と受け取ってしまうようなケースも現実的に多いでしょ?
別のところでも書いていますが、ダメダメ人間は、ある種の自己否定的なマゾヒズムを持っていることが多く、いわば、何かに「従う」という傾向があるもの。
その「従っている」対象なり、「従う」という行為に対して、ちょっとした疑義が呈せられた場合には、「このワタシを非難するのか?」と、逆切れ状態になったりするわけ。

こちら側としては、単に「ふーん・・・アナタはどうして、その●●の言うことを、そんなに大事にしているの?」と聞いただけでも、「従う」ことをアイデンティティとしている人間には、非常に大きなインパクトとなってしまうわけ。

そうなると、そのやり取りの評価においては、片方が「ちょっとしたおしゃべり」という評価であり、もう一方は、「このワタシを非難した。」という、いわばマイナスの評価になっている。
ダメダメ家庭の人間は、発想の基本が減点法であり、発生したマイナスに対して過剰に反応することになる。片一方がマイナスとして評価してしまったやり取りだと、後々面倒なことにつながりやすいわけですし、もう一方の方は、単なるおしゃべりとしてしか評価していないので、まったくの無警戒だから、また同じことをやってしまい、まさに地雷を踏むような事態になってしまう。

あるいは、自分で考えることから逃避するダメダメ人間は、人から説明されることも不快であり、人に対して説明することも不快。だから、内容が込み入ったやり取りだと、不快な思いをいだいてしまい、いわばマイナスの評価をしていることもある。
説明がともなうやり取りというだけで、心理的にマイナスとみなしてしまうわけ。

抑圧的なダメダメ人間は、断片的な感想が飛び交っているだけのやり取りしかやっていないので、だから、詳細な説明をされてしまうと、内容の方向性以前に、それを非難と受け取ってしまうことも多い。

軽いおしゃべりであろうと、しっかりとした会話であろうと、そのやり取りの評価が双方で同じであれば、基本的には問題が発生することはない。
ヘンな話になりますが、お互いが、「コイツとは合わない。」と合意していれば、それ以上は悪くならないでしょ?
しかし、やり取りの評価が、かなり違ってきてしまうことも多いわけ。
そして、それが、お互いに自覚していない。
それゆえに、その行き違いが積み重なり、それが結果的に、会話の行き違いのレヴェルを超えるような事態になってしまうわけです。

(終了)
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発信後記

私もやっと体調が戻って来ました。
今週はキーボードが砕け散るまで、文書を打つぞ!
と、気合を入れております。
しかし、どうやら巷では、インフルエンザが流行していたようで・・・
私は流行に関心はないんだけどなぁ・・・
R.10/11/16