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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 05年3月28日 (10年8月12日 記述を追加)
タイトル 閉鎖性
ダメダメ家庭は当事者意識がなく、被害者意識だけがある。
このことはこのメールマガジンで何回も書いています。
「悪いことは全部○○のせいだ!」
まあ、そんな物言いがお約束だったりするんですね。

そんな被害者意識に凝り固まった人間に、腐臭にハエやゴキブリが集まってくるように、世界中から同じようなグチ人間が集まったりするわけ。
そして、一緒になってグチで盛り上がる。
「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」
まあ、類は友を呼ぶ・・・というヤツ。

そういう意味においては、ダメダメ集団というものは、外から来るものに対しては開放的なものと言えるのかも?
しかし、逆の方向では閉鎖的なんですね。

自分たちのダメダメ集団から抜け出ようとする人間の行動を妨害するわけ。
入ってくる方には寛容でも、出て行く方には不寛容なんですね。

だって、「悪いのは全部○○のせいだ!」とグチで馴れ合っているわけですから、その被害者意識を捨て去って、成功者になってしまう人間が出てしまうと、今までの存立基盤が崩れてしまうわけです。

「今まで『悪いのは全部○○のせいだ!』と言われていたけど、実際は違うじゃないか!実際のところは自分たちの努力不足だったじゃないか?」
そう思われてしまうと、困るわけ。

イスラム教なども、出て行く人間を許さない宗教でしょ?まあ、宗教団体とは一般的にそんなところがあったりするもの。しかし、嫌がる人間に無理やりお祈りをさせてどうするの?
しかし、イスラムのような宗教は、イスラムを捨て去った人間が社会で成功を収めることを妨害しますよね?

あるいは日本での在日韓国人の問題もそう。
被害者意識で団結しているので、その被害者意識を捨てて成功者になることを許そうとはしないでしょ?

あるいは、関西の人は、関西人であることを捨てて成功者になろうとする人を妨害するでしょ?

女性運動の活動家は、社会で成功を収めて活躍している女性とは、往々にして関わりを持とうとはしませんよね?

そのようなダメダメ人間は、「自分たちから成功者が出た!」とは喜んだりはしないわけ。成功した場合でも、「被害者意識を持ったままかどうか?」に拘ったりする。
その成果に、いわば「報復」というニュアンスがあれば、大喜びすることになる。

「憎いアイツらを、△△さんが、ワタシたちの代わりにやっつけてくれたぞ!!」
そのような場合には喝采を叫ぶわけ。

しかし、被害者意識を捨てて成功者になったような人に対しては妬んだりするわけ。

最近、日本の天皇で女帝でもいいのではないかという議論がなされています。
実は私は前々からこのことに注目していました。
日本の天皇は、制度上も、歴史上も軍隊の統帥者ではないのですから、女性でも全然問題ないはず。天皇の仕事なんて手を振っているだけでしょ?一種のアイドルタレントでしょ?
女性でもいいじゃん!
どうして、日本の女性運動は、「日本に女帝を認めさせよう!」と一言も言わなかったのでしょうか?

これって、グチ集団の「被害者意識」の閉鎖性の典型なんですね。
女帝という存在が成功者かどうかは別として、自分たちと一緒に「グチ」で盛り上がることへ障害になることには興味がないわけ。

たまにモメたりしますが、お相撲の土俵に女性が上がれる、上がれないなんて、どうでもいいことでしょ?
そんなどうでもいいことを持ち出してクレームの花を咲かせるわけ。
「ああ!我々女性は被害者だ!」
「まあ、ワタシたちは、なんてかわいそうなの?!」

実現性のないクレームや着地点のないクレームを持ち出して、クレームを言い続け、被害者意識を持続させる。ダメダメ集団のそんなメンタリティーを持続させるには、自分たちの「被害者意識」を打ち壊されたくはないわけです。だから被害者意識を捨てて成功する人が出るのを妨害することになる。

ダメダメ家庭も、まさにそうでしょ?
家庭内でグチが充満しているのがダメダメ家庭。そのダメダメ家庭から子供が逃げ出そうとすることを妨害するわけ。

だって、その子供が被害者意識を捨て去って、成功者になってしまったら、グチばかりのダメダメな親はどうなるの?
その親は「グチばかり言っている能無し人間」であることが子供にわかってしまうわけでしょ?親としては当然のこととして子供の成功を妨害するわけですよ。親としては子供も一緒にグチの花を咲かせていてくれることを望んでいたりするわけ。

だからダメダメ家庭では、そのまま、親である自分と一緒で実家にいることに、拘ったりするわけ。進学においても実家から通えることを重視したり、就職においても同じ。子供を巣立たせようとはしないわけです。外の世界を知ってほしくないわけですね。子供も自分と同じような被害者意識を持って、家族一緒にグチで盛り上がりたいわけ。

子供が出て行こうとすると、それこそ「おまえのために、私は人生を棒に振った!」、
「誰のために、苦労したと思っているんだ?!」、
「わざわざ遠くに行かなくても、近くにいい学校があるじゃないか?」、
「おまえにはコッチの会社の方がお似合いだよ!」
そうやって、子供を自分の身近に置きたがるわけ。
まあ、女子プロゴルファーの自分の娘にストーキングしているキャディーの父親がいるそうですが、この典型ですね。

親が知っている世界の中に留めたい。
自分の子供が自分の知らない世界に行ってほしくはない。
グチの共有そのものでなくても、最初から成功するとわかっているものをさせることになる。
自分の子供に、未知の分野にチャレンジさせるのではなく、常に「成功を体験させる」、あるいは「教えたい」というフィーリングになっている。それこそ、兄弟の数、仕事の種類、学校の種類も、親が知っている範疇から出そうとしない。

そんなパターンも「そのよさを、自分がよくわかっているから子供にも体験してほしい・・・」という肯定形ならともかく、「出て行ってほしくはない」というか、「別の世界を知ってほしくはない」という二重否定だったら、やがては閉塞しますよ。

結果的に達成された成功だって、失敗することを許された上での、試行錯誤を経ての成功なのか、それとも、そもそも成功以外はありえない状況での成功なのかは、その心理としては違っているでしょ?
チャレンジとは、いわば失敗することを許された状況の上で、当人なりの試行錯誤そのものに意味があるもの。試行錯誤を否定されて、しかし、成果を出さなくてはならないとなると、当人としては何も楽しくはありませんよ。失敗したら散々と責められることが予想できるわけですからね。

そうなってくると、子供もチャレンジすることができなくなってしまい、結局は、予定通りのものを得ることはあっても、主体的にチャレンジすることとは無縁になってしまう。
正解があるとわかっている領域ばかりに行きたがり、その正解を学ぶことはしても、自分なりに問題点を考えていくことはできない。
常に正解を渇望し、正解がない領域では対応できない。
正解を渇望することと、問題意識を持つことは、ちょっと見には似ている面もありますが、その心理としては別のものでしょ?

成功を与えるという状態は、自分の成功体験を伝えるというよりも、チャレンジ精神の欠如の様相となっている。
未知の分野だからこそ、頼りになるのは自分自身でしょ?
未知の分野におけるチャレンジは、自分自身が持っている、経験なり洞察力なり知識なり判断力が、まさに試され、問われることになる。
しかし、ダメダメ人間は、自分自身から逃避しているんだから、何も「あて」になるものがない。
「最低限、何がほしいのか?」
「自分は何ができるのか?」
そんな発想がないと、未知の分野では何もできない。
だからこそ、既存の評価が通用する世界に安住してしまう。

だから、失敗への対応力がなく、結局は、縮小均衡というか器用貧乏になってしまう。
トラブルが起こった際にも、その回答があらかじめ計算できるような「堅い」人に相談する。
そんな人は、規格品的な状況を消費しているだけで、自分の身になる体験をしていないわけ。失敗するのが怖いという状況は、本当の豊かさと言えないでしょ?

そんな人は、芸術作品に接する際にも、発せられる感想は、作品に接する前から予定されている状態。
それこそ「命の大切さを感じました。」とかの規格品的な言葉を何も考えずに言い放つことになる。
まあ、そんな状況を、エルフリーデ・イェリネクさんは、その作品の「ピアニスト」において、「コンサートにおいては、聴衆は、あらかじめ、自分の思っていることを再確認するだけ。」と言ってします。
芸術作品をそのように、規格品的に受け取るくらいなら実害はないわけですが、逆に言うと、芸術作品くらいは、もっとチャレンジしてもいいのでは?
その分野でチャンレジしなかったら、他のどの領域でチャレンジするの?

チャレンジをしないから、成果もないし、あるいは想定外の事態への対応力も弱いまま。
だから、ますます失敗を恐れ、ますますチャレンジから遠ざかり、結果的に成功を得られない。
むしろ、人のチャレンジをくさすことばかりに発想が向かってしまう。
人のチャレンジをくさし、自分のダメダメを間接的に肯定するわけ。

閉鎖的であり、他の世界を知ろうともしないがゆえに、ある意味おいて事情通のように振舞うことになる。自分が知らない世界があることを知らないわけだから、ある意味においては、実に事情通ですよ。
他の世界を知ろうとしない人ほど、他人に口出し、論評したりするものでしょ?
そのようなことは、ご近所の程度の低いオバサン連中だけでなく、インターネットの掲示板に巣食っている連中もまったく同じ。

学校の世界しか知らない人が、「世の中は・・・」とご高説をぶったり、
他の地域を知らない人ほど、「あの地域は・・・」とご高説。

他の世界を知らないがゆえに、自分の狭い常識を否定されないわけ。
逆にいうと、自分の常識が通じる領域にしか関心を示さない。
だから、ますます閉鎖的になってしまう。

たとえば、学校についての関心だって、本来は、卒業後の問題も関わってくるでしょ?
しかし、閉鎖性に基づいた学校への関心の場合には、ただ、ひたすら学校の序列ばかりに注目することになるわけ。
他の分野を知りたくないといういわば思考停止を求めているがゆえに、ちょっと都合が悪くなると、スグに逆上してしまう。
逆に言うと、スグに逆上する姿は、その集団の閉鎖性とのリンクが大きいものなんですね。
被害者意識に安住していると、何も考えなくてもいい。
だからこそ、抑圧的な人間は、グチを共有する関係を求めるわけ。

自分たちの中から成功者を出そうとするのか?それとも被害者意識で団結して喜んでいるのか?さかんに活躍している日本の女性運動家が、「日本に女帝を認めさせよう!」と言って来なかったこと自体に、そのような運動がクレーマーの集団であることの如実な証明になっているわけです。

ただ、女帝だとちょっと大変ですよね?
だって、現在の皇太子のお嫁さんを見つけるのだって、あれほど苦労したわけですし。
それに紀宮さんのお婿さんを見つけるのだって、あれほど苦労したわけですし。
将来の女帝になる女性と結婚したがる男性なんて、この世にはいないでしょうね。
マトモな感性を持っていたら、絶対にイヤがりますよ。
まあ、一般論として、鬱病気味の母親と、妻を守りきれない父親の両親の家庭って、なんと言ったらいいのかな?

だから、ヘタをすると、できちゃった結婚で責任を取らせるとか、お酒を飲ませて酔いつぶらせて証拠写真を撮って結婚させるとか、外国から輸入するとか・・・それって下層階級なみ。
ホントどうするんだろう?

まあ、やんごとなき家庭のことは、そちらで考えてもらえば済むこと。

ともかく、自分たちの中から成功者が出ることを素直に喜べない・・・そんな発想は、ダメダメでしょ?そして一緒にグチってくれる人間に対しては、ウェルカム。そんな腐った世界の中から成功者が出ることは大変に難しくなるわけ。
それこそインターネットの掲示板に入れ込んでいる人が子供を持ってしまったら、出来てしまったその子供は親とどんな話をしていけばいいの?だって、会話にもならないし、子供がチャレンジをしようとしても、そのチャレンジをくさすだけでしょ?
閉鎖性の強い集団に生まれてしまったら、そこからの脱却は非常に難しいわけ。子供の努力だけの問題とは言えないわけです。

(終了)
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発信後記

本文中で韓国の問題についてちょっと触れていますが、そのうち集中的に取り上げる予定です。大統領のノ・ムヒョン氏がなぜにあんなトンチンカンなのか?よくわかるはずです。
ただ、準備期間が結構かかります。今その資料を調べ直しているところです。
まあ、結局、東アジアの中で日本がさっさと抜け出たから恨んでいるんでしょう。今回のお題の典型ですよね?
R.10/8/12