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カテゴリー 事件の前
配信日 05年4月4日 (10年6月11日,10年7月2日 記述を追加)
タイトル 覚悟を持たない
メールマガジンの世界では、グチ系のメールマガジンが多いと、以前に書いたことがあります。まあ、他人様のメールマガジンの問題を指摘するのは、ほめられたことではありませんが。

グチ系のメールマガジンはスグにわかります。内容云々は別として、その発行周期を見ればスグにわかるんですね。
その手のグチ系のメールマガジンの発行周期は、「毎週○曜日に発行」という形ではなく、まずは、不定期発行なんですね。
しかし、これはチョット考えればすぐにわかること。

そのような人は、自分のグチが溜まったら、メールマガジンの文章として吐き出しているというわけなんでしょう。

ダメダメ家庭では覚悟を持ってことに当たるということをいたしません。
「な〜んとなく」「て・き・と・う」に、ことを始めるわけ。自分が主体となって行うという意識がないわけ。当事者意識がないので、覚悟など必要がないわけ。
グチ系のメールマガジンでは、書き手は、自分が受けた「被害」を語っているだけなんですからね。まあ、不定期発行にもなるでしょう。

たとえば、以前にチョット触れましたが、「自分が就職した業界は、こんなにも非常識!」といった内容のメールマガジンがかつてありました。発行周期はやっぱり不定期。
内容は、「この業界はこんなにも非常識で、そんな業界に就職したオレって、なんてかわいそうなんだ?!」そんな類。

まあ、そんなにその業界が非常識なら、就職前に調査すればいいだけでしょ?わざわざ就職試験を受けてその業界に入って、「ああ!この業界はなんて非常識なんだ!」って、ギャグですよ。

しかし、その当人は当事者意識がないので、被害者意識を叫ぶだけになってしまう。勿論、その人の親もそんな人なんでしょう。自分の子供の就職に際し、チョットくらいその業界の調査に協力してもいいじゃないの?つまりその親に、子供を一人前にしようとする意識がまるでないことがわかります。

そのメールマガジンには読者からの感想などが載せてあって、私もチラっとのぞいてみたのですが、被害者意識だけの人たちが熱く自分の被害を語り合っているのに、苦笑いしたことがあります。
勿論、本人たちは真剣なんでしょうが、そのような被害者意識から脱却して、当事者意識を持たない限り、事態の改善なんてあり得ないわけです。

当事者意識を持っているから、「覚悟」というものが出てくるわけです。だって「自分がやる!」「やり遂げる」と思ったから、そのことを始めるわけでしょ?それって覚悟ですよ。

メールマガジンでも不定期発行ということだと、最初は1週間に1回くらいなのが、やがて2週間に1回程度になって、1ヶ月に1回程度・・・そしていつの間にか消えている。
この手のメールマガジンって、結構あるでしょ?
そんな尻すぼみの終息になるのなら、そもそも始めなければいいわけですし、10回程度の発行と計画を立てた上で、つまり全体のイメージをまとめた上で、発行を開始すればいいじゃないの?
しかし、その手の人は、「て・き・と・う」に始めて、「ダラダラ」と続けて、「いつの間にか」消える。

まあ、メールマガジンを覚悟もなく始めるくらいなら、大したことではありません。これがそれこそ就職のような問題なら、もっと真剣に考える必要がありますよね?
だから「自分が就職した業界は、こんなにも非常識!」と言った内容のメールマガジンは、その内容云々というよりも、発行の周期の問題で、示唆的と言えるわけ。

「て・き・と・う」に始めて、「ダラダラ」と続けて、「いつの間にか」消えている。
そのような書き手のキャラクターの問題を提示しているわけです。そりゃ会社勤めだって同じようになりますよ。

このようなことは、就職の問題だけではありません。
結婚だって、全く同じことです。
覚悟を持つことのないダメダメ家庭出身者は、結婚に際しても、日頃と同じように、
「て・き・と・う」に始めて、ダラダラ続けて・・・とやってしますわけ。

覚悟もなく、「て・き・と・う」に結婚したわけなので、当事者意識とは無縁。結婚後に問題が発生しても、本人は被害者意識の中にいるだけ。トラブルと真剣に向き合おうとせず、「とりあえずトラブルの発生頻度が少なくなればいいや!」「自分の目の前から見えなくなればいいや!」くらいの発想。そうして、問題を先送りして、ダラダラと結婚生活を送っている。
ダラダラと言っても「リラックス」ではないんですね。ブチブチと文句ばかり言っているのに、改善への努力をとらないわけ。
事態の改善を「覚悟」を持って行おうとはしないわけ。確かに本人はダラダラでラクでしょう。
しかし、そんな人が親になってしまうわけ。

だって、親になることは「覚悟」なんて必要はないでしょ?やることをやっていれば、「て・き・と・う」で親になってしまうわけですからね。
メールマガジンの計画も立てられないような人間が、家族計画?を立てられるわけがないじゃないの?
そうして、家庭内でダラダラと親稼業を続けている。
しかし、傍らで子供が困っていても知らん顔。だってその手の人は、「自分こそが被害者だ!」と思っているので、子供が困っていても関心がないわけです。

多くのグチ系のメールマガジンのように、いつの間にか消えてしまうのが、当人なら大したことではないでしょう。
この手の親を持って、「いつも間にか消えている」のは、本人ではなく子供の方なんですね。

覚悟もなく結婚するような人は、離婚する覚悟もない。ダラダラと結婚生活を続け、ブチブチと子供にグチることになるわけ。
これで子供がマトモに育ったら奇跡でしょ?

覚悟を持って主体的に取り組む発想がないがゆえに、つまり、自分で何かを生み出す発想がないがゆえに、あらゆることが消費者ベースになってしまう。
それこそ、スポーツ大会の中継を見て、選手たちの奮闘に強い印象を受けたのはいいとして、消費者ベースの人は、スグに「感動をありがとう!」「勇気をもらったわ!」などと言い出すことになる。

しっかし、テレビ中継を見たくらいで「もらえる」勇気などは、実質的には何の意味もありませんよ。
選手だって、顔も知らない第3者の観客に勇気を与えるために、戦ったわけではないでしょ?
選手たちとしては、その持分において、命を懸けて、つまり覚悟を持って戦っただけ。
覚悟を持って戦ったから、目標が達成できなかったら、号泣することになる。

テレビ中継を見て、勇気をもらったとしても、その勇気で何をするの?
どんな気構えで、自分の課題に取り組むの?
達成できなかったら、泣くくらいの覚悟があるの?

テレビ中継を見て、強い印象を受けるにせよ、選手たちのそんな覚悟こそを、受け継ぐことを考えた方がいいのでは?
それこそ、子育てだって、それくらいの覚悟が必要でしょ?

覚悟を持って物事に取り組む人なら、最終的な成果のイメージもあるものでしょ?
だって、その成果を達成するために、命をかけて、覚悟を持って取り組むわけでしょ?
逆に言うと、最終的な成果を語れない人は、何事においても覚悟がない人でしょ?

それこそ、「ふつう」であればいい・・・なんて言葉で、自分の日常生活を語る人は、その「ふつう」とやらの具体的なイメージがあるの?
「自分の子供は『ふつう』であればいいや!」なんて言葉のどこに命がけの覚悟があるの?
「ふつう」という言葉と、成果の明確なイメージは結びつかないでしょ?
覚悟のない人ほど「ふつう」という言葉を頻繁に使うものでしょ?
だからこそ、最終的には「ふつう」でなくなってしまうわけです。

(終了)
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発信後記

ダメダメ家庭とは全然関係ありませんが、ローマ法王のヨハネス=パウロ2世がお亡くなりになりました。
その死を悼む・・・とかのコメントがあったりします。

私は個人的な旅行でバチカンに行ったことがあります。私はクリスチャンではありませんが、純然たる観光旅行で行ったわけ。むしろ美術見物が目的でした。

過去の法王の遺品などが展示されているスペースがあって、呑気に見物していると、同行していた日本人の知人が、列聖された法王について「死んだ後で聖人として賞賛を受けても、意味ないじゃないの!生きている内に評価してもらわないと意味がないよ!」と、言い出したのに、私はビックリしてしまったことがあります。

その知人は自称「詩人」とのことで、自費出版の詩集も出していて、その詩集を私もいただきました。そんな人が、随分現実的な発想をするものだなぁ・・・と、呆気に取られてしまったわけ。

文章でも美術でも音楽でも、本当の創作って、作者の 意向を超えてしまうもの。作者の思い通りになっている作品は、人間レヴェルの作品。作者自身を超えている作品が神の領域の作品。同時代の人間の評価など、あんまり意味がないわけ、勿論、生活する上では重要ですが。

その自称詩人は、自分の存在を蹂躙するような圧倒的なインスピレーションとは無縁 ということなんでしょう。いかにもアマチュアの手すさびの作品というわけですね。まあ、実際にそのように評価されていたようですが。

創造的な人ほど、神のしもべ。これは謙虚さとは全然別の問題です。本人の意向とは全く別にインスピレーションはやってくるもの。そんな人の運命だって、人間の意向を超えているもの。「その死を悼む。」って、ヨハネス=パウロさんに失礼だと思うんですよ。
神のしもべが、神の元に帰っただけ。すべては神の御心。
勿論、彼と 個人的に親しかった人は、色々と思い出もあるでしょう。そんな人はまぶたに浮かんだ涙を中指でぬぐって、「Addio!」。
それで十分だと思うんですよ。
R.10/7/2