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カテゴリー 判断と選択
配信日 05年4月15日 (10年5月12日に記述追加)
タイトル 判断が先に来る (「正しさ」にこだわる)
「バラの花は美しいと言えるのか?美しいとは言えないのか?正しいのはどっち?」
そう言われてどう答えますか?

「自分自身は、バラの花は美しいと思っているけど、それが正しいことなの?」
一般的にはそう思いますよね?
「1+2が3」は正しいと言えるでしょう。しかし「バラの花が美しいこと」は正しいとは言えないでしょ?別に美しくないということではなくて、そのようなことを正しいかどうかと議論すること自体が「正しくない」というよりも不適切な発想ですよね?

しかし、ダメダメ家庭では往々にして、このような「正しさ」を重視した決め付けがよくなされているものです。
そして、正しさを決定するのは往々にして「権威筋」の定説とやらで・・・
「あのエライ人が言っているから、正しいんだ!」それでオシマイ。

このような「正しさ」に拘る人って、結局は議論そのものに意欲がないんですね。以前に配信した権威主義と結びつくことが通例です。
子供が何か考えを言ったりすると、「それは正しい考えなのか?」と、親の方からスグ言ってくる。それこそ「あの車はカッコいいねぇ・・」といった単純な意見に対してもそんな感じ。
そんなこと言われちゃったら、子供としてはどう答えればいいの?

結局は、子供の側は「権威あるあの雑誌にも『この車はカッコいい。』とか書いてあったよ!」とか答えるしかない。結局は権威スジのご説を引用するしかなくなっちゃうわけです。

こうなってくると、子供にも自然と権威主義の考えが身につくことになる。だって自分自身が何を言っても、そのままでは取り合ってもらえないわけですからね。

それこそある人に「こういう考えもあるよ。」と別の視点を提示したりすると、「それは正しい考えなのかどうか?」という返事がスグに返ってくるわけ。
しかし、重要なことはそのような様々な考えを上手に取り入れ、自分自身の発想を豊かにすることでしょ?

しかし、常に「その考えは正しいのか?正しくないのか?」と考えるような発想の場にいると、そのような多様な考え方を取り入れることができなくなるわけです。つまり「人の話を聞かなくなる」わけ。結局は、自分の頭で考えなくてもいいわけ。だって「正しい」とわかったんだからそれでいいじゃないの?って、そんな感じなんですね。

「バラの花って純粋な矛盾だねぇ・・・何重のまぶたの中にも眠りはないんだから・・・」とか言っても、「それは正しい考えなのか?」などと言われちゃたら、そんな人とは話をする気もなくなるでしょ?
そのような考えを正しいか、どうかについて考えるよりも、そのような境地を味わえばいいじゃないの?

「バラの花ってきれいねぇ・・・」と言われたら、「じゃあ、どの色のバラが好きなの?」でも、「私はバラも好きだけど、ユリの方が好き!」でも、その後に会話が発展するでしょ?ところが「バラの花がキレイだと考えることは正しいことなのか?」と言い出したら、次に会話になりませんよね?

本人が多様な考えを吟味し、色々な考えを聞いた上で、何が正しいことなのか?判断することは結構。しかし、まず最初に「正しいか?正しくないか?」と判断が先に来るような人は、「人の話を聞かなく」なるし、やり取りの相手も、発言の意欲をなくしてしまって、結局はダメダメ家庭を作ってしまうんですね。

実は、かなり以前にこのメールマガジンの購読者さんから、「アンタの書いていることが正しいことなのか?わかりにくい!」とご意見を頂戴したことがあります。
自称3600部のメールマガジン発行者とのことでした。

しかし、私のメールマガジンはダメダメ家庭を考える視点を提示しているだけなので、「正しい」とか「間違っている」とかの議論をすること自体が無意味なんですね。読者が各々「利用」すればいいだけ。どうやらその自称3600部のメールマガジン発行者さんは「どの権威スジが、オマエの文章にお墨付きを与えているのか?」という考えで聞いてきたのだと思います。
しかし、その手の権威主義って、典型的なダメダメ。

そんなことを返事で書いたら逆上されてしまいましたが・・・

「バラの花は美しい。」と考えることは正しい考えなのか?間違った考えなのか?
最初にも書いた事例ですが、そこまで極端な事例だと、「正しさ」にこだわる発想自体がダメダメであることは、誰にもわかるでしょう?
しかし、これほど極端ではなくても、判断が先に来て、妙に正しさにこだわる考えの人っていますよね?
その手の人は、人の話を聞けない・・・つまりダメダメ家庭を作る人の典型なんですね。

実際に、中国の魯迅の作品「狂人日記」にそんなやり取りが登場いたします。
何かを言うと「それは正しいのか?」とスグに聞かれるという記述です。

そしていったん、「正しい」と認定されてしまったら、後はそれに従っていればいい。
自分の目で見て、自分で考えることから逃避できるわけ。
いわばマゾヒズムな発想なんですね。
逆に言うと、「それは正しいのか?」という質問は、そんな逃避的な心理を背景にしているわけ。

既存の権威ある価値観に安住し、それを疑うことをしない。
疑うことをしないというよりも、疑いたくないわけ。
だって、疑ったら自分で考えないといけないでしょ?

抑圧的なダメダメ人間にとっては、「どの価値観に従うのか?」という問題は発生して、そして議論しても、「自分はどのように認識し、考え、対処するのか?」という発想はしないわけ。
だからこそ、「○○派」とか「△△派」とかの党派的な対立が大好き。
そうやって安直にカテゴリー分類に逃避して、目の前の現実から目を背ける。

真に創造的な知見なり考え方は、目の前の現実を直視することからしかありえないでしょ?
それこそ、フロイトの精神分析学だって、患者さんとのやり取りの中から見出されたものでしょ?

しかし、抑圧的なダメダメ人間は、「まずは価値観ありき」なんですね。
そして、「この正しい考えを学べ!」と要求することになる。

そんな姿は、まさに魯迅が描く中国だけでなく、韓国もそんな様相。
日本だって、日本のクラシック音楽の関係者なんて、その典型。
そして、小澤征爾さんのような能力の高い人を追い出して、権威主義的な因習に凝り固まっているだけ。

「正しい」とか「価値観」なんて言葉が頻発する世界では、真に創造的なものは生まれない。
抑圧的な人間は、やり取りの最初に、自分の価値観でフィルターをかけてしまって、あとは、既存の考えを命令するだけになってしまう。
そんな様相は、「狂人日記」で描かれているとおりですし、そんな人たちは、ダメダメ家庭の周辺ではポピュラーな存在なんですね。

あるいは、このように「正しさ」にこだわる人は、当然のように「正」の字が好きというか、意識することになる。
そんな人は、自分の子供の名前に「正」をつけたりするわけ。

そんな人は、正しさにこだわっていて、自分が正しいと妄信しているがゆえに、「人の話を聞けない」人間だったりするわけ。
実際に、子供に「正」の字が入った名前をつける親は、往々にして「人の話を聞かない人」が多いでしょ?
そんな親に育てられたので、その子供自身も「人の話を聞かず」、やたら権威主義的な人になったりするわけ。

その代表が、北朝鮮の金親子と言えるでしょう。
「正」の字が持つ、権威主義と問答無用の精神が、見事に体現化された人たちといえるでしょ?そして、それゆえに、人間をカテゴリーで分類してばかり。

「正しさ」にこだわろうと、あるいは、その派生形で、「正」の字にこだわろうと、人の話を聞き、自分で考えることが怖いという心理は共通していたりするわけ。
だから、とにもかくにも、最初に判断してしまって、後は、その最初の判断をオウム返しするだけになってしまう。
その手の人は、そんなパターンの人が多いでしょ?

(終了)
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発信後記

京都府のレイプ牧師事件ですが、やっぱりあの教団全体も重症のダメダメのようです。

その教団の牧師なる人間がこんなことを言っているそう。

「すべてのキリスト教会に協力を訴えたい。カトリックの方も、協力してくれるのであれば喜んで連携したい。」

「協力してくれるのであれば喜んで連携したい。」という言い方がスゴイですよね?
本来なら、そんな事件を起こして、「どうしてもっと前にわからなかったのか?もっと前に対処できなかったのか?」と、自分を責めるのが先でしょ?「協力を受け入れてあげるよ!」なんて、どういう発想なんだろう?

その教団も、自分たちは極悪牧師による『被害者』だと思っているのかな?ダメダメ家庭出身の人間は往々にして、宗教団体のスタッフになるケースが多いようです。まあ、神という権威ももらえますしね。しかし、祈りなんてものは、キリストも言っているように「隠れて祈れ!」なんだから、何も徒党を組むことはないじゃないの?

逆に言うと、その他の牧師もそんなダメダメなレヴェルの教団なんだから、マトモな人間であれば、このような事態になることはわかるはずでしょ?まあ、「この親にしてこの子あり。」と同じように「あの変態牧師にして、このトホホ同僚牧師あり。」と言えるのでしょうね。

そんな程度の牧師による心のケアって、一体全体何だろう?
傷ついた人の心のケアができるくらいのセンシティヴな人間だったら、この事件だってもっと前にわかっているでしょ?
違いますか?

そんな程度の牧師なり、教団に、被害少女を預けること自体が問題じゃないのかな?
それこそキリストだって言っています。「盲人が盲人を案内すると、一緒に井戸に落ちちゃうよ!」
牧師だったら聖書くらいは読まないとね。
R.10/5/12