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カテゴリー 形への依存
配信日 05年5月20日 (11年2月11日 記述を追加)
タイトル モノにこだわる
以前に東京の足立区で痛ましい事件がありました。
いわゆる「開かずの踏切」で、踏切操作をする担当者のミスで通行人が、電車にはねられてしまった事件です。

踏切操作をする担当者の過失とか・・・いつものように捜査しているようですが、今時、人間が踏切の開け閉めをやっていれば、このような事故がいつかは起こるであろうことは、小学生だって予想できることですよ。しかし、1時間の間に2,3分しか開かない踏切なので、人間がやるしかなかったのでしょう。

高架化し、踏切を廃止する方法が最良なのは言うまでもないことでしょうが、やっぱりお金の問題を避けては通れませんよね?
しかし、世の中にはムダな公共事業が沢山あるものでしょ?
「熊しか利用しない道路」とか、「滅多に使われない保養施設」とか・・・
住民の安全に関係することだったら、利用する頻度が少なくても、その種の事業をやっておく必要があるでしょう。しかし、利便性に関わることだったら、使用頻度の観点からの検討も必要でしょ?

実は、ダメダメ家庭という存在は、その種の「モノ」にこだわったりするんですね。
モノさえ充実していれば、後はどうでもいい・・・なんて考えていることも多い。
それこそ、このメールマガジンで何回も書いていますが、「心の豊かさ」に目が向っているのではなく、「モノの豊かさ」に目が向いている。

ダメダメ家庭の人間は、会話の能力がないので、「心の豊かさ」なんて、人に説明できません。それに、そもそも、心が豊かではないんだから、説明する以前の問題と言えます。それに対し「モノの豊かさ」だったら、「アノ建物を見てよ!立派でしょ?」で説明できますからね。
それこそ、ダメダメな地域ほど、「使いもしない立派な施設」があったりするものでしょ?
ダメダメ家庭も、その点は同じ様相になっている。
本棚に読んでもいない本などが見栄であったりするのはご愛敬としても、使ってもいないような電気製品とか家具などもあったりする。そして、そのような使いもしないようなモノを買うために、レジャーもせずに、質素倹約にいそしんだりする。
あるいは、何かトラブルが発生した場合でも、まずはモノの回収を図ることになる。

それこそ、結婚していた自分の娘が、色々とあって離婚する・・・という段になったとしましょうか?
その種のダメダメ家庭が、まず最初に考えるのは、嫁入り道具として持って行った家具や電気製品を、相手の家庭から回収する・・・そんなことになってしまう。

「あ〜あ、結局は、離婚となってしまった!どうしてこんなことになっちゃったんだろう?」「今後はどうしていこうかなぁ・・・」と、嘆いている自分の娘の前で、ダメダメな親は、『あの家具をどうやって回収するか?』そんなことばかりを話している。
ダメダメ家庭にしてみれば、自分の子供などは家具以下の扱いとなっている。

「新婚旅行の費用の半分を相手から請求されたらどうしよう?」
「結婚していた時期の食費を相手から請求されたらどうしよう?」
「こちらから持っていった家具は、全部コッチのもんだぞ!」

まあ、ダメダメ家庭の親が心配することはそんなことなんですね。
「自分の娘にふさわしい相手かどうかを、オレたちが、見極めることができれば、こんなことにならなかったのに・・・」と、親として自分を責めることはしない。
むしろ「ああ!コイツのせいで、また面倒をするハメに・・・」そんな被害者としての立ち位置から、加害者たる自分の娘を、嘆きをもって見るだけ。

そうやって、必死の思いで相手先から回収した家具や電気製品を実際に使うかというと・・・使うわけでもなく・・・ただ、置いておくだけになってしまう。
そんな使いもしない立派な家具が陳列され、部屋は狭くなり、人間さんは肩身の狭い思い・・・
そんな家を訪れた人はどう思うんでしょうか?
「アンタたち・・・バッカじゃないの?」
「まっ、こんな家庭だから、子供が離婚することになっちゃうんだよな・・・」
そう思うに決まっていますよね?

使いもしない立派な施設がある地域だって同じでしょ?
地方に本社がある会社に勤めていて、東京に転勤になり、数年後に地方の本社に戻るケースがあります。そのようなケースで地方の本社に戻ることをイヤがるのは奥さんの方です。
地方だと生活上で何かと不便とかあるでしょうが、それだけではないわけです。
地方によっては、「心の貧しい」地域も多い。そして、心の貧しい人たちと近所付き合いをすることを考えて憂鬱になってしまう。

それこそ、「使いもしない保養施設」を前にして、どんな感想を言えばいいの?
「・・・えーとぉ・・・立派ですね・・・」
これしかないでしょ?

まだ、すばらしい自然があった方が感想だって言いやすいものですよ
「キレイな海ねぇ・・・」
「ああ、空気がおいしい!」
「今度、このあたりを散歩してみようかな?」
そんな感想から会話だって広がるでしょ?

使いもしない施設を自慢している人に対して、何を言えばいいの?
得意気に自慢されたとしても、心の中では、
「アンタたち・・・他人のお金でこんなモノ作ってもらって・・・一体、何がうれしいの?」
「どうせ、アンタたち自身は、その価値など何も分かっていないクセに・・・」
「と言うか、この施設を本当に欲しかったの?欲しかったのなら、どうして有効利用していないの?」
「コイツたちは、人にたかるだけなんだなぁ・・・気をつけないと、ワタシもたかられるかも?」
こんなことに決まっていますよね?

東京の中だって、「心の貧しい」地域ほど、妙な文化施設があったりするものです。
クラシック音楽のコンサートホールとかね。
しかし、そのホールの使用頻度は実に少なくなってしまう。だって、都心で働いている人は、郊外のホールで開催される、通常午後7時から開演されるコンサートに間に合うことができませんよ。都心のコンサートホールでないと、コンサートには行けないわけです。かと言って、地元住民がそんなホールを利用するわけもなく・・・
客が入らないコンサートなんて開催しても意味ないでしょ?
そんなことは、ちょっとでも文化程度があれば、スグに分かることなんですね。

東京でも、あるいは地方でも、その手の立派な「文化」施設がある地域で、よく贈収賄事件で逮捕者が出るのは当然なんですね。地域自体の心が貧しくなっているわけです。まさに「たかり」が染みついた精神構造になってしまっているわけです。
使いもしない文化施設を作るよりも、それこそ「開かず踏み切り」でも、高架化した方がずっと文化的ですよ。

立派な施設とか、立派な家具などは、その人の「心の貧しさ」の証明と見た方が理解しやすいものですし、モノへの過剰なこだわりは、心の豊かさへのセンシビリティの低さという否定的な観点から見た方が理解しやすいわけです。モノそのものをシンプルに肯定しているわけではないので、それこそ、「使い込んだモノ」も持っていない。
モノを見る際にも、「使い込んだ」味わいの方が「心の豊かさ」を表していたりするものでしょ?モノそのものよりも、モノの扱い方から見えてくることの方が多くありますよ。
ダメダメ人間にとってのモノへのこだわりは、心の豊かさの否定にすぎないので、モノにはこだわっているけど、逆に言うと、そのものに「託された思い」を見ることはない。
立派なコンサートホールについて語ることができても、そのホールで開催されたコンサートによる感動などは何も語れない。
あるいは、電気製品はあっても、写真などはなかったりする。
本来は、写真こそ、来訪者に見せるに足るものでしょ?
まさに「思い出」が詰まっているものでしょ?
しかし、「思い」や「思い出」がないんだから、写真などには意味はない。
ということで、「思い」とは無縁のモノばかりにこだわることになる。

あるいは、妙ちきりんなラッキーアイテムを購入して、「託された思い」を消費することはあっても、自分たちで思い出を作っていくことはしない。
常に消費者の立ち位置になっている。

モノにこだわるのはいいとして、モノ以外には何があるの?
あるいは、そのモノから何が生み出されたの?
立派な施設や道路や橋を作ってもらったのはいいとして、それによって、会社とか工場がやってきたの?
家庭だったら、それにより、付き合いが広がったり、あるいは、今までできなかったことができるようになったの?

現実的に言うと、そのモノができてしまったのは、「あの○○がないから、うまくいかないんだ!」と言い訳として持ち出していたら、成り行きで、実際にできてしまっただけでしょ?
そのモノを使うという前提ではないので、逆に言えば、どんどんと欲しがることになる。
使うという前提であれば、使う時間とか、必要性とか、用途の問題も出て来るでしょ?
だから、必要以上のモノがあっても、ジャマなだけ。
しかし、消費するという前提となっていて、使うという前提ではないがゆえに、際限なく「ほしい!ほしい!」となってしまう。
常に消費者としての立ち位置であり、自分で何かを生み出すという生産者としての立ち位置とはなっていない。
逆に言うと、モノへの過剰なこだわりは、自分で何かをしようという発想のなさなんですね。「もらわないと損だ!」という二重否定的な減点法が暴走しているだけ。

「もらわないと損。」と思っていて、とにもかくにももらっても、そのモノを使うわけでもない。
使わないがゆえに、そのモノに対して何の思い入れもない。
そんな使いもしないものが、どんどんとあふれてきて、まさにゴミ屋敷となってしまう。
そうなってしまっても、「使うモノ」と「使わないモノ」の区別も付けられない。
だって、そもそも使うことを前提としてはいなかったわけですからね。
だから「思い入れのあるモノ」や「必要性のあるモノ」と、「どうでもいいモノ」との区別が付けられない。
ということで、「使いもしないモノ」に囲まれて、ますますゴミ屋敷となってしまう。

ダメダメ人間にしてみれば、モノは「使う」という前提でゲットしているのではない。だって、そもそも当事者意識がないんだから、自分の目標を達成するために、その手段としてモノが必要となるのではない。
何回も書きますが、もらえないという被害に反応して、ほしがっただけ。
モノへのこだわりの仕方や、こだわっているモノを見ているだけで、その家庭やその地域のダメダメなところなんて判ってしまうものなんですね。

そして、やたらモノに拘るそんな人が、子供を持ってしまう。
そもそも、どうして子供を持ったの?
まさに、「持たないと損だ。」くらいの減点法的な感覚になっている。
そんなダメダメ人間は、使うという前提でモノをほしがるのではないのと同じように、育てるという前提で子供を持つわけではない。
そんな家庭で育ったら、どうなってしまうの?
それこそ、嫁入り道具と一緒に嫁入りして、離婚となれば、嫁入り道具と一緒に返ってくることになってしまいますよ。
逆に言うと、「使いもしないモノ」がいっぱいあるような地域は、まさに、そんな流れになっているわけです。

(終了)
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発信後記

本文中でクラシック音楽についてちょっと触れましたが、年末になるとベートーヴェン作曲の第9交響曲が盛んに演奏されますよね?最後のコーラスに参加された方もいらっしゃるかもしれません。
あの第9の最後の、いわゆる「喜びの歌」の称される部分は、リズムに特徴があります。4分音符をひたすら並べただけのもの。それこそ「タン、タン、タン、タン、タン・・・」と続いていくわけ。小学生だってこんな単純なリズムでは曲を作りませんよ。
こんな単純なリズムなので、アマチュアでも歌えるというわけです。
別にベートーヴェンに作曲の技術がなかった・・・というわけではありません。

単純なものを執拗に繰り返すことにより、忘我の境地に到達する・・・そのような人間心理を利用した意識的な手法と言えるわけ。

このような「単純なものを執拗に繰り返す」手法は、19世紀のオペラ作曲家のリヒャルト・ワーグナーも使っています。
そのワーグナーのオペラを偏愛したのが、アドルフ・ヒトラー。
ヒトラーが、この「単純なものを執拗に繰り返す」ことによって、忘我の境地に到達する・・・という人間心理を利用して、ナチスの党大会を運営していたのは、ご存知でしょう。

「人類よ!手をつなごう!」というベートーヴェンも、「ユダヤ人を皆殺ししよう!」というヒトラーも、同じ表現手法を使っているわけです。

表現というものは、「毒にも薬にもなる」力のある表現と、「毒にも薬にもならない」どーでもいい表現があるだけなんですね。
力のある表現は、どこかに毒があるもの。

何でも「子供には見せたくない番組」なる番組があるそうで・・・色々と紹介されていました。私が知っているのは「クレヨンしんちゃん」くらいでしたが・・・
「子供には見せたくない番組」という考え方は分かりにくい。そんな番組をなぜに知っているの?わざわざそんな番組見なければいいじゃないの?
「子供に見せたくない番組」と判断するということは、その番組をじっくり見ているんでしょうね。やっぱりその番組に何がしかの魅力があるんでしょうね。

「子供に見せたくない!」なんて絶叫する前に、その番組の何が魅力で、何が不快か、自分で考えて見ればいいのに・・・そんな思考が自分自身を豊かにしてくれるのでは?

「子供には見せたくない!」とか「善良な人々にはふさわしくない!」とかのレッテルは、それこそ芸術史のおきまりのエピソードといえます。それこそエミリー・ブロンテの「嵐が丘」だって、そんな評価を受けていたわけですからね。シェークスピアだって、そんな扱いだった時期もありました。

嫌いなら嫌いで、いいのでしょうが、「見せたくない」という矛盾した表現にこそ、様々な発見への鍵があるように思います。
R.11/2/11