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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
配信日 05年5月27日 (10年9月12日 記述を追加)
タイトル 背景を読む力
ダメダメ家庭出身の人間と話をしても、ツマラナイことが多くあります。
もともとダメダメ家庭では会話の能力が習得できない。
人の話を聞き、自分の考えを相手にわかりやすく伝える発想や習慣がないわけ。

人の話を聞くと言っても、物理的なり、音声的には聴くわけですが、相手の話の内容を理解しようとは思っていないわけ。聴くことはあっても、聞いてはいないわけ。だから早合点したり、すぐに自分の妄想の世界にトリップしてしまうことになる。
そして、自分が同意できないことを言われたりすると、それを理解しようとはせずに、勝手に怒り出したりするんですね。そんな人とは、やり取りなどはしたくはないでしょ?
結局は、マトモな人はそんな人から遠ざかってしまって、グチばかり言う人間だけが集まってきて、グチで盛り上がることになってしまう。グチって、お互いが勝手にグチっているだけで、グチの中身を理解してグチっているわけではないでしょ?問題点を洗い出し、事態の解決のために議論しているわけではないんだから、お互いのグチなどは聞いていませんよ。
これでは、ますます会話の能力が習得できませんよね?

普段から、相手の話の内容を理解しようとは思っていないので、相手がどんな背景を元に、そのような考えを言い出していたのか?全く考えたりしないわけ。
ただ「自分の考えと違っているからケシカラン!!」「普段、言っていることと違っているからダメだ!」
そんな感じなんですね。

人間には、それぞれ背景があって、その背景を元に様々な考えが生まれてきているわけでしょ?以前にこのメールマガジンで、その例として「猫の尻尾」の話を書きました。
背景の世界が違っていると、ものの見方、考え方も違ってくるわけ。どっちが正しくて、どっちが間違っているとは一概に言えないわけです。

しかし、会話不全のダメダメ人間がそんな柔軟な発想をするわけもなく・・・
結局は「アイツはケシカラン!」でオシマイ。

背景の違いというと、それこそ日本とアメリカとの違いのような「質的」あるいは「方向性」の違いというものばかりではなく、「量的」なものもありますよね?
一般的な小学生と、一般的な高校生では、その思考において「量的」に違っているでしょ?
当然、一般的な小学生よりも、一般的な高校生の方が、多くの実体験と、思考訓練と、そして教養もあるものですよね?

「小学生は、高校生の言うことを黙って聞いていればいいんだ!」と言うことではありませんヨ。
頭のいい小学生なら、目の前の高校生が自分と違ったことを言い出したりした場合には、その考えの元となった、体験なり、書物なり、あるいは本人の思考の蓄積があるのではないかと、考えてみるものでしょ?小学生だって、高校生の考察の元となった「根拠」を、考慮した上で、また考え直せばいいだけのこと。「高校生の見解に合意するのか?やっぱり否定的にとらえるのか?」は、それから判断すればいいわけ。

小学生だって、そうやって自分の発想を豊かにしていけばいいわけでしょ?
逆に言うと、「高校生の言うことだから黙って従う。」ような発想だと、自分自身の発想が豊かになりませんよね?黙って従うのではなく、相手の背景を考えてみる必要があるわけ。

まあ、一般的な小学生と、一般的な高校生の間だったら、高校生の方が、判断するに当たっての取捨選択の幅が広く、多くの選択肢の中からその考えを持ち出してきていることが容易に推測されます。

しかし、これが大人同士だったら、そうは簡単にはいかない。初対面で学歴などを聞くわけにはいかないし、学歴だけでは実際に判断できませんからね。高学歴でも所詮バカはバカ。年齢だって同じ。世の中にはムダに年齢を重ねている人の方が多いもの。
また、インターネットでのやり取りは顔が見えないやり取りです。文章を発した相手の背景については、基本的にはわからない。
あるいは、メールマガジンに対しての意見などでも・・・相手の背景はわからないことが多いわけ。

だからこそ、そのようなやり取りでは、相手の「考え」の元になった背景を判断するに当たって、会話の言葉そのものだったり、文章そのものから判断するしかないわけ。
つまり、「受け手」の能力に依存するわけです。

普段から、「発し手」の考えの元になっている取捨選択の幅の広さについて考慮するような人だったら、割と正確な判断ができるわけ。しかし、普段から「自分と違っているからケシカラン!」といった問答無用のスタイルで会話しているような人だったら、その流儀で押し通してしまいますよね?

しかし、一般的な小学生と、一般的な高校生だったら、取捨選択の元となる幅に違いがあるように、大人同士だって、取捨選択の元となる幅には違いがありますよね?
10の選択肢の中からベストのものを選ぶのと、10万の選択肢の中からベストのものを選ぶのでは、全然違っているでしょ?
例え結果的に同じものをベストとして選択したとしても、10の選択肢の中からチョイスした場合だと、後になって、もっと別のファクターを追加して考慮した場合には、結果として得られたチョイスが変わってくる可能性が高いわけです。
しかし、10万の選択肢からのベストのチョイスとなると、後になって揺れ動く可能性が低くなりますよね?

誰かに対して説明する際にも、相手のレヴェルに対する考慮が必要になるでしょ?
そもそも説明しても無理な知的レヴェルの人の場合もあるし、
丁寧に説明すればわかってもらえる場合もある。
軽く説明しただけで、スグに理解できる勘のいい人の場合も、たまにある。
あるいは、対象者だけでなく、その説明においても、言及する参照事例の選択の問題も発生する。
そんな選択肢を踏まえた上での表現は、見る人が見るとスグにわかるものなんですよ。

「この文章には、背景となる思考がどれくらいあるのか?」
文章の内容を理解し、物事を考えるにあたって、非常に重要なことでしょ?

その思考の背景をいったん理解した上で、その文章に合意するも否定するもいいわけ。
しかし、背景の思考のレヴェルが全然違っていたら、否定する前にちょっとは考えて見る必要があるわけですね。

一般的な小学生が、一般的な高校生に説教している光景があったとしましょうか?
その高校生がそれなりの格好をしていて、小学生が典型的な小学生のレヴェルに見えたとしたら?
そんな光景を見たら、皆さんはどう思われますか?
小学生の説教を聞いている高校生の忍耐はともかく、そんな無謀なことをやっている小学生のキャラクターについて、考えたりするものでしょ?

「あの小学生って、なんて身の程知らずな!」
「普段からどんな会話をしてきているんだろう?」
「高校生に説教する前に、小学生自身で色々と考えて見る必要があるんじゃないのかな?」
そんなことを思いますよね?
小学生というものは、逆に、そのレヴェルなんだからしょうがない。
まあ、一般の小学生は「蟷螂の斧」なんて言葉を知ってはいないでしょうしね。

しかし、同じようなことが大人同士でも起こったりしているわけ。
小学生レヴェルの大人に限って、「自分と違っているからケシカラン!」と短絡的。だからますます思考に深まりが出てこない。
そして自分自身で考えたりはしないので、自分と違った考えに接しても「様々な思考の取捨選択」が背景にあることを予想もできないわけ。

自分自身の程度の低さを、相手にも当てはめてしまっているわけです。

私のメールマガジンに対しても、ご意見などを頂戴することがあります。
肯定的なご意見はともかく、否定的なご意見を拝読していると、「ああ、この人・・・自分とは違った意見の背景について考える習慣がない人だなぁ・・・」と感じる場合が多くあります。

何も「私の文章を黙って読みなさい!」というわけではありませんヨ。
週3回、このレヴェルの文章を配信している書き手のレヴェルについて・・・その元となっている思考の背景について、ちょっとくらいは考えた方がいいじゃないの?ということですね。
高校生に食ってかかる小学生って珍妙でしょ?

また、ちょっと違ったケースもあります。
メールのやり取りに、そこそこ慣れていると見られるのに、「私はインターネット初心者です。」などと書いたりしているケース。自分自身の素性を明らかにしたくないのだろうとは分かりますが・・・品位がないねぇ。まあ、浅知恵が通用する相手かどうかについてもちゃんと考えないとね。

この人はどんな背景なり、どれくらいの選択肢の中から、このような考えを持ち出してきたのか?普段からちゃんと考慮している人間は、フィーリング的に相手のレヴェルがわかるわけ。

逆に、普段からそのようなことを考えていない人間は、「自分と違っているからケシカラン!」となってしまう。
ダメダメ家庭では、会話の習慣が不全で、自分自身で考える習慣もない状態。
だから、今やり取りしている相手の背景や思考レヴェルについて、考えたりする習慣も身につきにくいわけです。
だから、相手の言っていることを瞬間的に捉え、知的な認識や判断をせずに、勝手に早合点してしまう。
やり取りにおいて違和感を持ったのなら、自分なりに考えればいいわけですが、相手の意図を読み解く発想を持っていない人間は、違和感を持った時点で、「動物的」に反応するわけ。

そういえば、典型的な実例があります。
確か、かなり以前にパキスタンで首相だったか外相(だったと思います)をされていたブットさん(父親の方)が日本人のことをエコノミック・アニマルと言ったとのことで、多くの日本人が怒ったそうです。

ブットさんは「悪い意味で言ったのではない。悪い意味で言ったのだったら、エコノミック・アニマルではなく、エコノミック・ビーストと言うよ!」と言っていたそう。
ビーストという言葉が野獣という意味であることは皆さんご存知でしょう。
しかし、さすがにブットさんは「みなまで言わない」わけ。

エコノミック・アニマルという言葉から、「それなり」の人が思い浮かべる言葉は「ポリティック・アニマル」という言葉です。訳すと、そのままで「政治的動物」
ギリシャの哲学者のアリストテレスが「人間は政治的動物だ。」って、言っていますよね?
それを踏まえて、ブットさんは「日本人は政治的動物というより、経済的な動物だよね。」くらいのニュアンスだったのでしょう。
つまり、「日本人の意図には政治的なものが少なく、経済的な観点が中心だね。」くらいの意味でしょう。・・・だから、日本人は政治的には野心がなく無害な人たちだ・・・くらいの好意的ニュアンスが読み取れるわけ。

アリストテレスの言葉を知っていると、ブットさんの物言いの意味がわかるわけですが、そんな教養もないと、ただ「オレたちが、動物扱いされた!」と怒るだけ。これでは折角好意を持ってくれたブットさんも呆れてしまったでしょう。
まあ、マスコミの人なんて、頭がカラッポで体力だけの「どーぶつ」に近いレヴェルの人でしょうから、期待するだけムダなんでしょうね。

このように国際的にバカな姿を見せてしまう場合もありますが、この手の「相手の知的な背景」を考えもしないで勝手に大騒ぎって、実に多くあるでしょ?
以前に配信した文章で言及した「猫の尻尾」の例だったら、日本とアメリカの猫事情の違いで済む話。
しかし、教養の程度の隔絶した差という場合だったら、笑っては済まない。
しかし、バカというものは、自分がバカとは決して思わないもの。

教養のない人間に限って、勝手に怒り出して、周囲を途方に暮れさせてしまうわけです。
そんな人と一緒に暮らしている人間にしてみれば、たまったものではありませんよね?
こんな調子で会話不全のダメダメ家庭ができるのも当然なんですね。

ちなみに、上記でアリストテレスの言葉を引用していますが・・・
アリストテレスの先生がプラトンで、プラトンの先生がソクラテス。このことは中学校で習いましたよね?
ソクラテスは弟子などと対話をしながら、活動を進めていきました。
中心的な考えの一つは「無知の知」というもの。
「自分自身がわかっていないことを、ちゃんと分かって、そこから出発することが重要だ!」というもの。
比較的くだけた会話的表現を使いながら、「分かっていないことを、自覚しましょう。そこから真の叡智に到達しましょう!」というソクラテスのスタイルは、いうまでもなく私の文章と似ています。
別に参考にしているわけではありませんが、多少の意識はしております。気がついていた方もいらっしゃるかもしれませんね。

ソクラテスは人類史上、もっともグチから遠い人間と言えます。
言われなき理由で死刑を宣告されても、グチも言わず淡々としている。
アテネから亡命すれば済む話だったのに、従容として死に赴くわけ。
毒杯を仰ぐ際にも、淡々。
刑場で周囲の人たちは、皆さん号泣しているのに、一人だけ本人が淡々としている。
挙句の果てには、毒杯を渡した役人から「すいませ〜ん。毒が速く回るようにチョット運動してもらえませんか?」と頼まれると、「そう?わかったヨ。」と「ヨイッショ、ヨイッショ。」と運動をしたりしている。

こんなグチから遠い人がいたギリシャが、どうしてダメになってしまったのか?
前にも書きましたが、ギリシャでは紀元後以降はロクな人物が出ていませんよね?一旦グチを言い出すと、マトモな人間は寄って来なくて、グチっぽい人間だけが、集まってくるようになる。だからスパイラル的に悪くなるわけ。

当事者意識も喪失し、被害者意識だけになって、ますますグチの花を咲かせる。マトモな人間はそんな社会からさっさと出て行ってしまいます。こうなるとますますダメダメが進行する。
ギリシャという世界は、このような意味でも、世界の縮図と言えるわけなんでしょう。
今現在この世界が直面している、精神の堕落の問題を、身を持って、カナリアのように告発している、それがギリシャなのかもね。

(終了)
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発信後記

長い文章申し訳ありませんでした。
ただこの問題は、ダメダメ家庭の関係者と接すると実に頻繁に感じることです。
皆さんの頭の片隅にでも入れておいていただけると助かります。
あの人・・・ちょっとヘンだなぁ・・・と思った時にでも思い出してみてください。

ちなみに、何でも橋脚工事の談合が話題になっていますが・・・
あんな工事って、談合がないと思っている人はいなかったでしょ?
マスコミの方だって前から皆知っていたでしょ?何を今更になって感情的に報道するのかな?

しかし、排他的で談合体質って、マスコミの方が上ですよね?
記者クラブが排他的なのは言うまでもありませんし、新聞の購読料って、実質上は談合でしょ?
まあ、あのような感覚こそ、当事者意識の欠如と言えるんでしょうね。
R.10/9/12