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カテゴリー 事件の前
配信日 05年6月29日
タイトル フェイル・セーフという考え方を持っていない
機械などを設計する際に考えることとして、この「フェイル・セーフ」なることがあります。意味は「一部分が壊れても、全体としては致命傷にはならない」と言うこと。

たとえば皆さんもDVDプレーヤーをお持ちでしょう。そのDVDプレーヤーの中の部品が壊れてプレーヤーが動かなくなった。そんな事態になったらどうしますか?
たぶん、メーカーに電話して修理に出しますよね?
逆に言うと、メーカーに電話すればいいだけでしょ?壊れて動かなくなっても命に関わる問題とは言えない。
DVDプレーヤーのようなものだったら、それで済む話。

しかし、これが自動車のようなものだったら?
運転中に部品が壊れて動かなくなった・・・なんてことになったら大変。ヘタすれば死んでしまうでしょ?何も時速100kmで動く必要はないにせよ、とにもかくにも一応動いてどこかに待避する必要があるでしょ?修理の電話をするのはそれからになる。
DVDプレーヤーなら全体が壊れても利用者にとっては大したことではないわけ。しかし、自動車だったら、そのような「部分で壊れても、全体としては致命傷にならない。」という考えが必要になるわけ。
これが飛行機だったら?
そうなると、もっと大変ですよね?
一部分が故障しても全体に波及しないような配慮の必要度が高いわけ。

ひとつの部品が壊れて動かなくなっても、最低限には動くようにする・・・それがこの「フェイル・セーフ」の考え。

こんなことを書くと、やっぱり『べき論』での反論があったりするもの。
そんな「フェイル・セーフ」のようなわけ分からない考えを持ち出すよりも、そもそも壊れない部品を使って、壊れないように作るべきだろ!
おっしゃることは、確かにそうでしょう。
しかし、絶対に壊れない部品を使って、絶対に壊れないように作ったりすると、とんでもなくコストが高くなっちゃうんですね。現実的な発想とは言えないわけです。

そんなことより、重要な部品は2つ積んで、ひとつがダメになっても、もうひとつでとりあえずバックアップというのが現実的というわけです。
それこそ人間の身体だって、腎臓でも目でも2つあるでしょ?飛行機だってエンジンが2つあったりするもの。あるいは、エンジンが壊れても、翼だけで滑空するような設計にする方法もある。

命に関わる問題においては、「絶対に壊れないようにする。」という考え方よりも、「一部分が壊れても致命傷にならない。」という考え方が重要で現実なんですね。
しかし、このような「例え壊れても致命傷にはならない。」という考え方は、現実的に適用しようとすると結構難しいもの。
だって、
「どのように壊れたりするものなのか?」
「どんな頻度で壊れたりするものか?」
「壊れたときの周囲への影響は?」
というデーターがないと、考えることができないでしょ?

ダメダメ家庭ではその手の現実的なデーターを取ったりしないことは、韓国の歴史教科書を考える際に触れました。ダメダメ家庭では問答無用の「べき論」の方が優先されてしまうんですね。
だから部品が壊れた時には対応ができないわけ。

問答無用の「べき論」が跋扈するようになると、家庭問題においても、子供が問題行動をしてしまった時には、全く対応ができないわけです。
そんな問題行動に接すると、ダメダメな親は、ますます「べき論」が声高に叫ぶだけになってしまう。
「そんなことをするべきではない!!」と、大騒ぎ。
しかし、現実は簡単ではないでしょ?
「すべきではない。」のはいいとして、じゃあ、具体的にはどうすればいいの?

ちょっと面白いなぁ・・・と思ったのは、先日(05年)の「ひめゆり学徒」の話。
青山学院の英語の試験で「ひめゆり学徒の話は退屈だった・・・」と言った話が出題されたそうです。
それで大騒ぎに・・・

まあ、大騒ぎするのはマスコミの属性のようなものですから、今更なんですが、じゃあ、どこの何が問題なのか?もうちょっと具体的に考えないとね。
ひめゆり学徒の話を退屈に思うことが問題なの?
試験問題になることが問題なの?
その点について明確にせず、キャーキャーとサルのように騒ぐだけでは、議論が進みませんよね?

試験問題にすることは、まあ、ほめられた話ではないでしょう。しかし、だったら「たかが試験問題」の話でしょ?該当者なんて実に少数です。何十万人も受験者がいるの?日本人すべてが青山学院を受験したの?そんなわけないでしょ?そんなにその英文の内容が不快なら、合格しても入学を拒否すればいいじゃないの?それで済む話でしょ?
だから、この問題の騒ぎの多くは、試験問題になったという点ではなく、「退屈に思った」という感想の部分が大きいわけでしょ?

しかし、10人の人間が聞いていれば、当然のこととして全員が「感動した!」とは行きませんよ。退屈に思う人だって出てきますよね?
そのような人をどうするのか?
このあたりでも「フェイル・セーフ」の考えが必要になるわけ。他の人にジャマにならないように、そっと退席してもらうとか、音が出ないゲーム機で遊んでもらうとか、寝ていてもらうとか。
「聞いている人間全員が涙を流して感動するべきだ!」って、そっちの方がコワイでしょ?それこそ軍国主義ですよ。北朝鮮もビックリ。

逆に言うと、「退屈に思った」人の存在を認めれば、そのような感想を持った人からアンケートを取って、「より印象に残る」語りに改善していくことも可能でしょ?
自分の語りに本当に自信があるのなら、退席の自由を認めてもいいんじゃないの?「数年後に興味を持ったら、また来てねっ!」でいいじゃないの?
今だったら、ライブで語らなくても、インターネットのストリーミング放送だってあるわけですしね。

語っている本人は、一生懸命でそんなことを考える余裕もないのでしょう。しかし、管理者はそこまで考える必要があるわけ。
退屈に思った人の「話を聞く」ことも重要なんですね。
一室に閉じ込めてJR西日本の日勤教育みたいなことをやっても、イヤがる人はいますよ。今回の試験問題だって、問題を作った人が、そのような「平和」の催しに参加した際の「不快な思い出」が背景にあるわけでしょ?

家庭を考える際にも、問題を起こした子供の話を聞くことにより、見えてくるものもあるわけ。
しかし、ダメダメ家庭では、問答無用の「べき論」が横行して、「問題が起きた場合にはどうする?」という現実的な思考がない。
だから、致命傷になってしまうわけです。

(終了)
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発信後記

何も「ひめゆり学徒」の問題云々だけではないのですが、平和というものが大上段から言われると「うさんくささ」を感じていらっしゃる方も多いでしょう。
「平和の尊さを学ぼう!」って、もちろん結構なことですが、平和教育とかのお題目がついてしまうと、何か党派性を感じたりしますよね?

一般的な人間が考える「平和」って、たとえば「話し合いで解決できるものは、できるだけ話し合いで解決しましょうよ!」というものでしょ?話し合いの基本は「相手の話を聞き」「自分の考えを相手に判りやすく伝える」ということでしょ?

「平和の尊さを学ぼう!」と言い出している時点で、一般人の考える平和から離れている気がいたします。挙句の果てには「平和主義の理念からの逸脱を許さないぞ!」と、相手の意見を封殺しようとする。こうなると話し合いもヘチマもありませんよ。

神の名において、多くの殺戮が行われたように、平和というお題目を掲げて、人間管理が遂行されたりする・・・人間の社会って昔からこんなことをやっていますよね?

平和主義という「理念」がもたらすものは、墓場の平和なんでしょう。生きているものの平和は、生きている人間が当然のこととして発生させる「混乱」とどう向き合っていくか?そんな現実的な課題と無縁ではいられないわけ。だからずっと難しいもの。人間にとって「べき論」を怒鳴っているだけの方が、はるかに簡単ですからね。
R.10/11/8