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カテゴリー ダメダメ家庭の会話の雰囲気
配信日 05年7月1日 (10年4月2日,10年11月15日 に記述を追加追加)
タイトル 社交辞令がヘタ (ぶっきらぼうな物言い)
ダメダメ家庭の人間とやり取りをする時に、こんな感想を持つことがあります。
「もうちょっと、社交辞令に慣れたり勉強した方がいいのに・・・」

ダメダメ家庭は会話不全の家庭。だから家庭においては当然のこととして会話の技術は習得できない。だから、人とのやり取りに苦手意識を持つ。だから家庭以外でも会話の経験が少ないわけです。
相手の意見を聞き、自分の考えを相手にわかりやすく伝える。
そんな会話の基本姿勢が出来ていないんですね。
命令と服従の関係となっているダメダメ家庭においては、相手の気持ちに配慮するという発想そのものが欠如している状態。

だからものの言い方も、はっきり言って「ぶっきらぼう」の場合が多いわけ。
ダメダメ家庭出身者は、「人の気持ちがわからない」人が多い。感情がマヒしないとダメダメ家庭では生きてはいけないでしょ?だから「ぶっきらぼう」な物言いをされたら相手がどう思うのか?そんなこともわからないわけ。
勿論のこと、自分の出身家庭の中での会話だって、「ぶっきらぼう」な物言い。
これでは、成長しても「ぶっきらぼう」な物言いになるのも当然と言えば当然。

そんな会話不全の家庭で育っているので、成長後も会話の能力が低いままで、マトモな人とは付き合うことができずに「同じ穴のムジナ」と付き合うようなことが多くなってしまう。
その手の「同じ穴のムジナ」は、会話の能力が低いだけでなく、グチっぽいことも共通しています。
そんな人との会話のレヴェルなんて推して知るべしですよね?

形の上では会話になっていても、中身のあるやり取りにはなっていないわけ。まさに自分が育ったダメダメ家庭でのやり取りが再現されている状態。
だから、決して「社交」とは言えないでしょ?

「それなり」の能力のある人間と、会話を積み重ねてきているのなら、それ相応の「やり取り」のマナーも習得されるわけです。一種の社交辞令と言えるもの。
心にもない美辞麗句だって、必要なこともあるわけ。
自分が言いたい本題を持ち出す際にも、事前の流れもあったほうが分かりやすいものでしょ?
いきなり最初から本題って・・・お上品とは言いがたいものでしょ?
その手の社交辞令の上手さって、やっぱりその人のバックボーンが見えてくるものなんですね。

「心にもない美辞麗句など必要がない!」などと言った意見もあるでしょう。
しかし、そのような心にもない美辞麗句を言えるということは、自分自身を管理できる能力を示しているでしょ?
いついかなる時にでも、最低限の品位は保っている・・・
それって、長く付き合うには重要な資質ですよね?
それだけ相手や当人自身の尊厳に配慮があるということでしょ?

最低限の社交辞令が言えない人というのは、いくらその意見が正論でも、長く付き合うに足る人とは言えないわけ。感情に任せて下品な振る舞いをする人間であることを示しているわけでしょ?
単に下品というだけならまだしも、被害者意識が爆発して、勝手な理屈で報復してくるようなことも起こったりするわけ。

例え若い方だって、最低限の社交辞令くらいは、本来なら家庭において勉強できるものでしょ?それこそ親の背中を見ていればいいだけですからね。
最低限の社交辞令もない、ぶっきらぼうな物言いは、その背景の家庭がダメダメ家庭であることを如実に示しているわけ。
小学生ならいざ知らず、中学生以上の人で社交辞令が欠けていたら、そんな人とは距離を置くという判断も必要になるわけ。

しかし、感情がマヒしてしまっている、ダメダメ家庭出身者は、そんな「ぶっきらぼう」な物言いにも平気。そんな社交辞令のない人にのんきに近づいて行ってしまって、「入れ込んだり」「入れ込まれたり」の修羅場になってしまうわけ。

この手の社交辞令は、必要十分なレヴェルがあるものです。
必要な分もなくてぶっきらぼうだったら、相手も不快になる。
これは今まで書いてきました。
しかし、過剰なまでに社交辞令の表現が並んでいても、相手にとっては不快でしょ?

だって、やり取りにおいては、やっぱり本論こそが重要なんですからね。
社交辞令という前振りはいいとして、じゃあ、「結局は、何が言いたいの?」それこそが重要になるでしょ?

しかし、自己逃避で抑圧的なダメダメ人間は、その肝心な「結局は、自分は何を言いたいのか?」という点が、当人自身が分かっていないことが多い。
むしろ、相手から突っ込まれたくないという心情を持っている。
だから、過剰なまでに減点法。「相手に対して、自分の隙を見せたくない!」と思っている。

そんな人とのやり取りにおいては、立派な社交辞令があっても、本論が分からないわけ。
本論が分からないんだから、何を言っているのかわからない。しかし、立派な社交辞令があるということで、形としては、実に整っている。
減点法的には完璧だけど、加点法的には、成果なし・・・そんなやり取りになってしまう。
別の言い方をすると、「あーでもない、こーでもない。」ということを、立派な形にしたようなもの。

これが大人同士でのやり取りであったら、「言いたいことが自分でも自覚できていない。」人とのやり取りは、いつのまにか終了してしまう。
しかし、そんな人が家族だったら?それこそ、自分の親がそんな人だったら?
そんな人が子供を育てたら?

マトモな家庭においても、家族の間で社交辞令を伴ったやり取りはしないでしょう。しかし、家庭の外において過剰な社交辞令をする人は、家族との間でも、「中身の伴ったやり取り」をしていないもの。
まさに本音が消失した家庭の出身者ということが見えてくるわけ。
そんな人は、人とのやり取りにおいて、本音を伝えるのに、うまく行かないのではなく、本音そのものがなくなってしまっている。
しかし、自己逃避であるがゆえに、自分自身の本音が消失しているのがわからない。
だから、相手から怒られたとか、やり取りの相手との関係が消失してしまったとか・・・そのような相手との関係性の問題ばかりに目が行ってしまって、「ああ!ボクは人の気持ちが分からない。」と嘆くことになる。

そうして、相手を怒らせないように、形の上ではより丁寧に、つまり、社交辞令がより過剰になってしまう。しかし、本音の不在は何も変わらず。だからこそ、ますます相手から怒られてしまう。
社交辞令が必要十分ではない、あるいは、社交辞令がヘタということは、純粋に社交辞令の問題ではなく、「相手にこのことを分かってほしい。」という気持ちの問題であり、別の言い方をすると、自分を分かっていて、他者というものをちゃんと認識しているかという問題でもあるもの。

あるいは、相手に対して「与える」というか「する」側の社交辞令がヘタということは、自身が「受けた」社交辞令を、社交辞令として理解できないことになる。
婉曲的な言い回しをしたら、その点に食って掛かったりする。
その表現自体には、ある種の相性の問題もあるでしょうし、今までのやり取りでやっていない社交辞令が出てくると戸惑うことになる。
しかし、「まあ、これは社交辞令だな・・・」と、雰囲気的に分かるものでしょ?
本題に突っ込まれるのなら、真摯に対応しますが、社交辞令に突っ込まれても、ちょっと途方に暮れるだけですよ。
直撃を避けるための、婉曲的な言い回しも、そんな社交辞令の一種のようなものでしょ?
「いやぁ〜、私としても、アンタに配慮して、直撃を避けて、婉曲的な言い回しを使ったんだけど・・・
そんなに直撃した方がいいのかなぁ・・・とは言え、直撃するともっと食って掛かられるだけだろうし・・・どうすりゃいいんだい?」
表現をボカして、相手から食って掛かられた側は、そのようにアタマを抱えることになってしまう。

このような様相は、別のところで「皮肉が通じない」というタイトルでまとめております。
クリティカルな問題については、最初は直撃は避けるのが、それなりのマナーというもの。しかし、その指摘そのものに合意するしないの問題だけでなく、婉曲的な表現そのものに対してぎこちない人もいるんですね。
だから、結局はモメたりする。

そんな流れも、その人の社交辞令に対するぎこちなさから予想できたりするもの。
適切な社交辞令は、まさにその人がやってきた社交の積み重ねについて、色々と教えてくれるものなんですよ。

(終了)
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発信後記

以前からご連絡いたしておりますが、メールマガジン発行元の「Macky!」からの配信は今回の配信を持って最後になります。
ということで、以降もご購読を希望されておられる方は、購読する発行元を「まぐまぐ」か「メルマガ天国」にしていただきますようお願いいたします。
今まで Mackyでご購読いただいた方に対し、お礼申し上げます。

って、社交辞令ではなく、心よりお礼申し上げます。

あと、現在メインのPCが不調で修理している最中で、メルマガの文章自体はサブのPCからアップしているのですが、バックナンバーの更新ができておりません。
まことに申し訳ありません。ちなみに、いざとなったらサブのPCで対処というのは前回書いた「フェイル・セーフ」の考え方。
失敗したときにどうする?ということは考えたくはないものですが、絶対に必要ですよね?
R.10/.11/15