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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 05年7月6日 (10年11月10日 記述を追加)
タイトル 敬意の心がない
「あなたの尊敬する人は誰?」
そんな質問って、よくありますよね?
あるいは、人を対象とするのではなく、「あなたが敬意を持ち賞賛する作品はありますか?」
こんな質問もポピュラーな質問です。

人なり作品なりの価値を認め、リスペクトする、つまり尊重し敬意を払うこと。
人としては、非常に重要なことですが、ダメダメ家庭では身につきにくい。
そもそも、ダメダメ家庭の親は文句ばかり言っている。「悪いのは全部○○のせいだ!」「この△△のせいでうまく行かないんだ!」そのような否定的な話ばかり聞かされてしまうわけです。

「いやぁ〜、この人って、スゴイなぁ!」とか、「この文章って、すばらしいな!」なんて、肯定の方向の賞賛の言葉なんて、ダメダメ家庭では、てんでお目にかかれないわけです。それどころか「フン!くだらない!」そんな言葉ばかり。何をリスペクトするかという選択の問題ではなく、ダメダメ家庭においては、リスペクトそのものを持っていないわけ。
こんな環境では、子供だって、誰かなり何かをリスペクトする心が生まれるわけもありませんよね?

私がそのことを痛感したのは、ヨーロッパのとある美術館でのこと。
私が絵を見ていると、韓国人の高校生くらいの集団が入ってきたわけ。どうやら修学旅行のようでした。
それが信じられないほどにお行儀が悪い。

帽子は被ったままだし、
それこそショートパンツ姿の女の子もいるし、
素足にサンダル履きの人もいるし、
おしゃべりはしているし、
音を立てて歩き回るし、
靴を履いたまま、休憩用の椅子に足を投げ出すし、
大きな荷物を持ち歩いているし、
ペットボトルの水を飲みながら絵を見たりしているし、
と、傍若無人の限りを尽くしている。
私は、ちょうど前日に見たオペラのセリフを思い出しました。
「なんだ、この騒ぎは?!私はサラセン人の中にいるのか?!」

彼らが人類としての最低限のマナーすら持ち合わせていないことは明白。
さすがに美術館のスタッフも、その韓国人の集団が入ってくると、椅子から腰を上げ、彼らの真後ろに立ち監視していました。しかし、今度は、そうやって空いたスタッフ用の椅子に腰を掛けたりする始末。

ヨーロッパの美術館は、王侯貴族がその個人的なコレクションを一般に開放したのが起源となっているケースが多くあります。何も宮殿に入る服装で美術館に入る必要なんてありませんが、来館者としてもカジュアルな中にも品位ある服装でいることは必要でしょ?当然のこととして、他の来館者の迷惑にならないことは絶対条件。
それに、水を飲みながら絵を見ていて、何かの拍子にその水が絵に掛かってしまったらどうするの?そんなことは、どこの国の美術館でも同じことですよ。

驚くのは、そんな粗暴な振る舞いを、誰一人として、お互いが注意しないことです。つまり100人近くの韓国人の集団全員が、美術館における最低限のマナーを知らないんですね。
「アンタが注意したら?」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、彼ら韓国人は私のような日本人の忠告なんて聞かないでしょ?
ということでアタマが痛くなった私は頭痛薬を飲むハメに・・・

何もすべての人が美術館におけるマナーを知っているわけもないでしょう。しかし、全員が全員そんな振る舞いをしているのは、単に知識としてマナーを知らないということではないわけ。
敬意というものがないわけです。

展示されている絵に対する敬意。
その絵を描いた画家への敬意。
あるいは収蔵した人への敬意。
それを展示してくれている人への敬意。

そのような敬意があれば、帽子くらいは取るでしょ?
自分の国にある美術館に行くのなら、本当にラフな格好でも許されるでしょう。しかし、訪問者として行く際には最低限の礼儀ってありますよね?
例えば招待されていく時の服装がショートパンツなの?いっそのこと「ちょうちんブルマー」だったら美術館にフィットするかもしれませんが、まあ、そこまで頭が回る人は逆に少数でしょうしね。

それとも、韓国人のよく言う「悪いのは全部日本のせいだ!」と言うことなの?
しかし、美術館で音を立てて歩き回ることの理由が、日本の占領統治のせいとは、とても言えないでしょう?

彼ら韓国人には、芸術分野に限らずリスペクトというものがありませんよね?
年長者や両親を敬っている・・・という意見もあるかもしれませんが、それって純粋な敬意ではなく、「支配者に対する服従の気持ち」でしょ?

それこそ北朝鮮だって、一応は共産主義国家という名目なんだから、マルクスやレーニンくらいはリスペクトすればいいでしょうに、そのような言葉ってあまり出てきませんよね?
北朝鮮においては、あくまで金親子だけが、「彼らの言う」リスペクトの対象でしょ?
また、サッカーのワールドカップの時でも、韓国人は世界中から集まった一流選手へのリスペクトの気持ちなど微塵もありませんでしたよね?

支配関係がないものに対し、尊重し賞賛をする発想はないというわけです。
だからこそ、芸術作品に対するリスペクトなどは、色々な意味でありえないことになる。

韓国人がダメダメであることは今更言うまでもないこと。
日本でも、リスペクトする気持ちが少ない人って、ダメダメなんですね。
だって、リスペクトする気持ちって、
「こんなことは、自分だったら、とてもできないな!」
「自分がこれをやろうとしても、大変だろうな!」
そんな、「自分がやったとしたら・・・」という当事者意識が必要でしょ?
当事者意識がなく、被害者意識だけがあるダメダメ人間には、無縁のものなんですね。

単に「好き」と言う感情の問題を超えて、「尊敬できる」とか「賞賛している」人物や作品について語ってもらうことは、その人の資質をよく示しているものです。
説明能力が分かるだけでなく、「自分の希望なり問題意識なり能力をどれくらい理解しているか?」そのようなこともわかるわけ。そして「自分がこれをやった場合にはどうなるだろう?」という普段からの当事者意識も見えてくるわけです。
中学生以上にもなって、そのようなことを語れない場合には、その人の家庭がダメダメ家庭である可能性が高いわけです。

ちなみに、ヨーロッパに行くと日本人と韓国人の間に大きな違いがあることがわかります。日本人が考える以上に、それなりのヨーロッパ人はその違いをわかっていたりするもの。実際に上記の韓国人の一団も、日本人ではなく韓国人であることは認識されていましたし、周囲のヨーロッパ人から白い目で見られていました。
「まったく・・・アイツらって、どうしようもないなぁ・・・」という表情で目を合わせたりして・・・まあ、そんな目と目のやり取りは、日本でもおなじみですが。まあ、この私も美術館のスタッフに目配せをしたら、その意味が分かってもらえたようです。

貴族文化がいいか悪いかは別として、ヨーロッパに行く際には、そのような背景を尊重することも必要でしょ?相手に対するそのような敬意が自分自身への敬意につながっていくものなんですね。

また、オペラのセリフで出てくるサラセン人はアラブ人のこと・・・つまりイスラム教徒です。イスラム教徒もリスペクトの気持ちのない連中ですよね?イスラム教徒が具体的に誰をリスペクトしているの?あまり聞かないでしょ?彼らは何ものにも敬意を抱かない。だから、戦いには強いかもしれませんが、お行儀が悪いし、それこそ仏像を破壊したりする。

別のところで書いていますが、イスラムという言葉の意味は「服従」という意味です。
前に書いていますが、服従心とリスペクトは別のもの。
服従心は序列意識なり、支配・被支配の関係から発生するもの。
それに対し、敬意は、当事者意識から来ているもの。

敬意を抱いた相手に対しては、その相手を信頼することになる。
逆に言えば、敬意という発想自体を持たない人は、信頼というものを本質的には理解できないことは、分かっていただけるでしょ?敬意と信頼は関係が深いものなんですね。
しかし、ダメダメ家庭の人間は、敬意とか信頼とは無縁。だから、それらの周辺にある、「服従心」とか「好意」を重視することになる。
そんな人が言う「オレを信頼しろよ!」という言葉は、「オレに黙って従え!」という意味でしょ?信頼というのは、人に対して強圧的に要求するものではありませんよ。
あるいは、その手の人は、誰かについて評価し判断するに当って、「あの人は、どんなものを好きなのか?あるいは嫌いなのか?」そんな好意重視の視点で判断することになる。

しかし、「その人がどんなものを好きなのか?嫌いなのか?」なんてどうでもいいことですよ。
むしろ、「どんな人に対して、あるいは、どんな業績に対して、敬意を持っているのか?」その点こそが重要でしょ?
敬意そのものとは無縁な人だったら、そんな人とは信頼関係を築けませんよ。

それこそ、その人がカール・マルクスに対して敬意を持っているのなら、それはそれで結構なこと。リスペクトしているマルクスさんについて、その人から色々と教えてもらえる可能性もありますからね。そんな人に対して好意を持つかどうかは相性の問題もあるでしょうから一概に言えませんが、その説明が的確であったら、そんな共産主義者に対して敬意は持ったりするものですよ。

しかし、その人が誰に対しても敬意を持っていない人だったら、はたして落ち着いたやり取りが可能になるのかな?
あるいは、単に「資本主義がキライ。」だけで共産党員の人もいるでしょ?
マルクスを肯定しているのなら、そんな人とのやり取りも可能ですが、「マルクスではないものを、否定する。」という二重否定の人とはやり取りはできないもの。
あるいは、「北朝鮮の金親子に敬意を持っています・・・」とかの言葉だったら、そんな人と落ち着いたやり取りにはならないものでしょ?だって、敬意という言葉であっても、その内実としては敬意ではなく服従心でしょ?自分を支配しているものについては、落ち着いた説明はできないものですよ。

逆に、敬意を持っている対象についてだったら、落ち着いて説明できるでしょう。
それこそ、「どんなところを尊敬しているのか?」とか「どんな理由で尊敬しているのか?」とかについて、具体的に説明できるでしょ?しかし、服従心の対象だったら、落ち着いた説明はできませんよ。
それこそ、イスラムだったら、敬意の対象としてイスラム教の過去の高僧とする場合もあるでしょうが、敬意という言葉を持ち出しても、その内実は、服従に近いでしょ?だから、客観的な説明ではなく、反対者へのテロになってしまうんでしょ?肯定的な説明ではなく、二重否定的な行動にならざるを得ないわけ。
逆に言うと、落ち着いた説明ができない状態だったら、それは言葉の上では敬意であっても、実質的には服従心ということ。

あるいは、ある人が、韓国ドラマを好きなのはいいとして、だからと言って、その人を「韓国ドラマが好きな人だから、だからその人は信頼できる・・・」とはならないでしょ?
どんな対象に好意を持ってもいいわけですが、好意の対象の問題は、人とのやり取りにおいて重要ではないわけ。

敬意という発想そのものを持っているのか?
そして、その敬意を向ける対象はどんな人やものなのか?
そして、その敬意を抱く対象について、どのように説明できるのか?
そのような点から、その人について、見えてくるわけです。

しかし、敬意という発想そのものが理解できないダメダメ家庭の人間は、好意という観点のみで人を評価して、「ああ!この人もワタシと一緒で、○○が大好きなんだ!じゃあ、一緒にやっていこう!将来は結婚してもいいかな!」などと考えてしまう。
そうして、敬意不在で、信頼とは無縁のままで結婚し、いったん、好意がなくなってしまうと、収拾がつかず修羅場になってしまう。

「誰を好きなのか?嫌いなのか?」という問い掛けのスタイルは、逆に言うと、敬意というものを認識する枠組みがないことを示している場合もあるわけ。
敬意を理解できない人は、「このような場合には、まずは敬意について議論するのが自然なのでは?」と思わされるシチュエーションでも、「好きか?嫌いか?」という点だけでのやり取りに終始してしまう。

「どんなものが好きなのか?」という点について、色々とやり取りするのは、いわば、オシャベリの範疇であって、それはそれで結構なこと。しかし、いざという時には相互理解につながる会話をする必要があるわけ。
そして、会話のネタとしては、敬意を持つ対象についても当然のこととして入ってくるでしょ?
オシャベリと会話の違いに対応させると、好意を持つものについては、おしゃべりのネタとなり、敬意を持つものについては会話のネタになる・・・そのように見ることもできるでしょ?

相手を評価するためには、好意などよりも、敬意の方が重要なのであって、それは、たとえばお行儀などのちょっとしたことで見えてくるもの。
以前にも書きましたが、お行儀というものは相手に対する配慮であり、リスペクトする気持ちの反映でしょ?相手から敬意を得たければ、まず自分から相手に敬意を表することって、子供でもわかることですよね?しかし、ダメダメな人間は人から敬意を受けられないと、持ち前の被害者意識に火がついて・・・と、お決まりの状態になり、「こんな気の毒なワタシなんだから、ワタシを好いてよ!」と周囲に要求することになる。

「敬意を持ってほしい。」と人に対して言っている時点で、それは敬意ではなく服従心ということ。言葉の上では敬意であっても、そこには敬意はないわけ。
だから、敬意というものが理解できないダメダメ同士で、意気投合してしまう。
一時的な好意によって、そんな人同士が結びつき、結局は、敬意がなく、信頼もない関係が、また出来上がるだけなんですね。

(終了)
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発信後記

今回、美術館での体験を書いていますが、次回は総集編で映画を取り上げます。その映画には、とある美術家が出てきます。
ちなみに最近はヨーロッパにも多くの韓国人が旅行に行っているそうで・・・それ自体は結構なこと。
あのような旅行先では、韓国人は見分けやすい。
顔が貧乏臭いし、
服装が妙にダサいし、
それなのに、服のブランドを目立つようにしている。しかし、そのブランドも場違いなブランド。

日本人は旅先では絶対にブランドが目立つようにはしません。だって、強盗に目をつけられたらイヤですからね。旅行先でランクが高い人は「旅慣れている」人。同じように美術館でランクが高い人は「美術館なれ」している人。決して高いブランドを持っている人ではないわけ。

旅慣れていない人や美術館なれしていない人は、妙にガツガツしていたりするケースがあったりします。
「この機会を逃がすものか!」というわけでしょうか?
慣れている人のように『また来ればいいや!』などとは思わないんでしょうね。
たとえ慣れていなくても、心に余裕があれば、そんなにガツガツしません。せめて心の持ちようくらいは、余裕を持っていきたいもの。

しかし、韓国のあんな高校生が・・・それも修学旅行でヨーロッパに行ける高校の生徒が、そのまま大人になって行くんだから、韓国ってコワイ!まあ、韓国の学生のあんな行動だって、マトモな教育を受けられない結果ですので、ある意味お気の毒といえます。しかし、そのことを自覚する必要があるでしょ?そうでないと、世界中の嫌われ者ですよね?
R.10/11/10