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カテゴリー 映像作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 05年7月8日
タイトル アンディ・ウォーホルを撃った女 (95年作品)
監督 メアリー・ハロン・バション
先日(05年)「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」という映画が公開されたようです。ショーン・ペンが主役を演じたそう。購読者の中にはご覧になられた方もいらっしゃることでしょうね。

先日公開の新しい映画については、様々な人が様々な見解を述べておられることでしょう。私個人は、何も慌てて見る必要もないかなぁ・・・と思っているところです。どうせヴィデオになるでしょうし、それまでに様々な方々の意見を述べていただくのも楽しいもの。
真打というものは、そのような有象無象の見解が出揃ったら出せばいいもの。何も新しさだけが取り柄の見解たちに参戦する必要もないでしょ?

と言うことで、今回の文章で私が取り上げるのは「アンディ・ウォーホルを撃った女」という作品です。95年の作品です。実は「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」というタイトルから、この「アンディ・ウォーホルを撃った女」という映画を思い出したわけ。

アンディ・ウォーホルという人についてはご存知の方も多いでしょう。ポップアートの旗手とされていた人です。マリリン・モンローの絵とか、キャンベルスープの絵などは美術館でごらんになった方もいらっしゃるでしょ?
彼の芸術については、後で私なりの解説をいたします。

さて、この「アンディ・ウォーホルを撃った女」という映画は、68年に起こったアンディ・ウォーホル銃撃事件を扱った作品です。基本的には実話です。

あらすじとしては、父親に虐待されて(性的虐待を含む)育った女性ソラナスが、過激なフェミニストになり、フェミニズムの戯曲を作ったり、「男性抹殺宣言」なる著書を著すことになる。戯曲の上演をアンディ・ウォーホルに頼むが、ウォーホルからは断られ、結局はアンディ・ウォーホルを撃つわけ。

このウォーホルを撃ったソラナスの発想や行動が、典型的なまでにダメダメ家庭出身者のものなんですね。
と言うわけで、今回はこの「アンディ・ウォーホルを撃った女」という作品から、ダメダメ家庭出身者の発想のスタイルを取り出してみましょう。

以下に、映画の中で実際に現れている特長を列挙してみます。

1. ゆがんだフェミニズム・・・この犯人のソラナスは、「男性抹殺宣言」なる著書を著して、フェミニズムを掲げることになる。しかし、その論拠も独善的なもの。「男性の遺伝子Yは女性の遺伝子Xの不完全形だから。」そんな理由付けなんですね。

勿論のこと、女性として男性優位の社会に色々と不満があるでしょう。しかし、それを遺伝子の問題で展開してもしょうがないでしょ?ダメダメ家庭出身者のフェミニズムは、女性が社会参加する際の不都合な点をひとつずつ解決するという現実的な方法を取ることはせずに、いきなり「男性抹殺!」などと過激なことを言い出したりするわけ。

2. クレーマー・・・フェミニズムを展開するのは本人の勝手。しかし、主義主張を実現させるための方法論とか、その運動のとりあえずの着地点を考えないとダメでしょ?その運動の最終的な目標が「世界中の男性の抹殺」ならそれでいいでしょう。ではそのための方法論はどうするの?キーキーと周囲にクレームばかり言っていても実現できるものではないでしょ?ダメダメ家庭出身者はクレーマーになったりするケースがよくあります。そのようなクレーマーはクレームを言い続けることが目的になって、問題の解決が目的ではないわけです。

3. 味方がいない・・・このソラナスさんには味方がいない。そもそも相手にわかりやすく自分の考えを伝える発想がないので、その主張を聞かされた方も途方に暮れるだけなんですね。フェミニズムの運動を進めるなら、まず賛同してくれる女性を集める必要があるでしょ?ところが、このソラナスさんにはまずもって女性の味方がいないわけ。

4. 人に入れ込む・・・普段から「自分は理解されていない。」と思っているので、「この人は、自分の理解者だ!」と思ってしまった人に異常に入れ込むことになる。そしてその入れ込んだ相手が自分を拒絶してしまうと、「最大の敵」と変化してしまうわけ。会話のできない人間は妄想の世界で生きているので、「最大の理解者」と「最大の敵」の間の中間がないんですね。このソラナスさんもウォーホルや出版社の人に入れ込んだりしているわけ。

5. 服装がダサい・・・ダメダメ家庭の出身者は、親の審美眼が壊れていたりするので、マトモな審美眼が身につかないわけ。だからどうしても服装もダサくなってしまう。それに女性としてオシャレを楽しむという発想もないので、まるで昔の中国人民服のような装いになってしまうわけです。

6. 不満が顔に出る・・・普段から不満タラタラなので、その不満が顔に出ることになる。もう近寄りがたいオーラを発している状態。以前に話題になった社民党の秘書の方もそうでしたよね?マトモな人はあんな顔の人に近寄りませんよ。

7. 意外に頭がいい・・・このソラナスさんは大学をトップクラスで卒業したそう。子供が頭脳明晰であることは、その親がかなり頭がいいということですよね?しかし、このソラナスさんの父親はしがない酒場のオヤジ。つまり当人の優秀な頭脳が生かされていないわけです。そんな人は日頃から不満が溜まりますよね?

そんな親はその不満を子供に語り、その不満の理由を子供に求めたりするわけ。そんな家庭の子供は、親から優秀な頭脳を受け継ぐだけでなく、親の持っている不満を受けついでしまうわけ。これではテロリストになるのも当然でしょ?

8. 鉄の意志・・・ダメダメ家庭の子供は「自分の身は自分で守るしかない!」と覚悟しながら生きているので、意外と強靭な意志を持っているケースがあったりします。強い意思そのものは結構なことなんですが、「なぜそんな強靭な意志を持たざるを得なかったのか?」という点まで考えると、そう簡単には喜んでいられないわけ。

9. 対抗心・・・ダメダメ家庭は対抗心が強い。すべての問題を二者択一的に考えがちです。ソラナスさんも、あらゆる問題を男女問題にすりかえてしまっている。それこそ「悪いのは全部オトコのせいだ!」というわけ。しかし、このように単純化してしまっているので、現実を見なくていわけ。

10. 妄想が入っている・・・その明晰な頭脳を持ちながら、自分の意向が中々実現されないので、どうしても妄想に逃げ込んでしまうことになる。このソラナスさんはレズビアンとのことで、それはそれで本人の勝手でしょう。しかし、そっちの方面で「恋に恋する」状態なので、ちょっと女性から親切にされると「あの人は私に気があるわ!」と思ってしまう。これではマトモな女性は近寄りませんよ。

11. 目を合わせない・・・このソラナスさんは人と会話するときに、目を合わせない。そして相手を見る際にも上目使い。それだけ自分に自信がないわけです。自信がないから、なおのこと攻撃的な物言いをするわけ。

12. お行儀が悪い・・・自分以外の人間をリスペクトする発想がないので、このソラナスさんはメチャクチャお行儀が悪い。タバコの吸い方もヒドイ。

13. お金にガメツイ・・・「自分の身は自分で守る」と常に切羽詰っている状態なので、お金にガメツイ。ちょっとチャンスがあるとすぐにたかろうとするわけ。しかし、そんな人だからこそ、本当のチャンスを逃したりするわけ。

14. 地道さがない・・・大上段から自分の主張を言うのはいいとして、地道さがないのがダメダメ人間の特徴。「自分のできることは、ちゃんとやる。」そんな発想がないんですね。ウォーホルに認めてもらいたいと思ったら、パーティの後片付けの手伝いくらいやればいいじゃないの?そんな地道な行動から信頼につながっていくわけでしょ?

15. 被害者意識・・・ダメダメ家庭出身者は会話の能力が低い。だから自分の意向がなかなか実現されない。このような状況になったら、自分自身を見つめなおして会話の能力を磨く必要があるわけですが、当事者意識がないダメダメ人間はちょっとのことで被害者意識に火がついて、クレームを言うだけの人間になってしまう。そして常日頃の被害者意識から「自分こそが一番の被害者だ!」と思っているので、他者に迷惑をかけることには躊躇がない。これでは周囲から相手にされませんよ。

「このソラナスさんに同情する気持ちは持っても、行動を供にしたいとは思えない。」
映画を見ていた多くの人はそう思うでしょう。そんな類の人って結構いるでしょ?まあ、この手の人ってユーモアの感覚がありませんよね?それだけ物事を一面的にしか見られない人なんですね。

この映画では、ダメダメ家庭出身者にありがちな会話の能力不足と、被害者意識という面を強調して描いています。単なる過激なフェミニストとして描いているわけではないわけ。

さて、ここでアンディ・ウォーホルの芸術について触れてみましょう。
それこそ、「マリリン・モンローを派手に描いただけのあのような絵が、なぜ芸術といわれてしまうのか?」あまり美術書には解説していないと思いますので、ここで素人の私が解決してみます。興味がない人はこの部分は飛ばしてくださって結構です。

まず20世紀の芸術活動は19世紀までの芸術活動と大きな違いがあります。
20世紀は、いわばプロデューサー優位なんですね。
実際に「作品」を作るクリエーターよりも、その「作品」をプロデュースしていくプロデューサーの方が、単に威張っているだけでなく、創造的と言えるわけ。

作品を「作る」側よりも、作品を「作らせる」そして「世間に売りつける」側の方が威張っている・・・これは19世紀も20世紀も同じ。しかし、20世紀では、そのような「作品を作らせる」側の方が往々にして「創造的」と言えるわけ。

例えば音楽の世界では、20世紀初頭にロシアバレエ団のディアギレフという人がいます。彼は優れた多くの作曲家に作品を委託して作らせました。そしてバレエとして上演いたしました。彼は1音も作曲しませんでしたし、1音も演奏しなかったわけですが、20世紀の音楽は彼なしに語ることは絶対に不可能です。優秀な作曲家を見出し、作品を作らせることの創造性。そしてそれを世に送り出す創造性。20世紀以降はそのようなことが意識されてきたわけです。
音楽で言うと、20世紀では演奏家の中で一番威張っているのは、1音も音を発しない演奏家である指揮者でしょ?音を出すことよりも、音を出させることのほうが創造的なわけ。

では、美術の世界では?
美術の世界では、絵描きのようなクリエーターがいて、その作品を売り出す画商がいますよね?美術の世界では、まだクリエーターの方が創造的とみられるでしょう。
しかし、発想を転換して、プロデューサーとしての創造性を発揮していきたいと思う美術関係者だっていてもおかしくないでしょう?

優秀な画家を見出し、後世に残る作品を描かせる。プロデューサーの創造性としては、そのような形が一般的でしょう。しかし、「具にもつかない」絵を、「さも偉大な作品であるように」売りつける「創造性」だってあるわけ。

だって、もともと一流である作品を売りつけるのは、ちょっとした目利きだったら誰にでもできること。しかし、どこにでもある、取るに足らない絵を「偉大なる作品」に仕立て上げることは、誰にでもできることではありませんよね?
一種の創造性が必要でしょ?

逆に、そのようなプロデューサーとしての創造性を強く打ち出すためには、「売りつける」作品が「どこにでもあり」「誰にでも描ける」ものであるほど、いいわけ。そんな「取るに足らない」絵に価値をつけるんだから、創造的活動ですよ。

アンディ・ウォーホルの絵を美術館で見て「すばらしい絵だ!」と思う人って本当にいるのかな?むしろ「こんな絵がどうして美術館にあるの?」「こんな絵のどこがいいの?」「こんな絵なんて私にも描けるわ!」と思う人が多いのでは?まあ、口に出して言えるかは別としてね。

しかし、そのような当然の疑問こそ、アンディ・ウォーホルが自分の絵を見る人間に求めていることなんですね。そんな絵を美術館に「売り込んだ」アンディ・ウォーホルの活動こそ、クリエイティヴと言えるわけ。

いかにも「私は芸術家でござい!」といった活動を周囲に見せ付けておくことによって、その人の絵が、さも偉大な芸術であるように世間に人に思わせるという活動。アンディ・ウォーホルにはそんな世間を舐めきったところがあるわけ。

だからこそ、その世間から自分を銃撃する人間が現れると、とたんにその活動の輝きが薄れてしまうことになる。
ゴッホのような、世間とは無縁に自分の芸術を展開していた人だったら、たとえ銃撃されても、その活動は変わらないでしょう。
しかし、アンディ・ウォーホルのような人は、大きな影響を受けざるを得ないわけ。「世間の連中って怖いなぁ・・・」と思ってしまったら活動できない類の創造性であるわけ。
クリエーターとしての創造性ではなく、プロデューサーとしての創造性なので、世間との関わりでコケると、立ちゆかなくなってしまうわけです。

おっとぉ!このメールマガジンはダメダメ家庭についてのメールマガジンでしたよね?アンディ・ウォーホルの芸術についての・・・私見はこれくらいにしておきましょう。

そのアンディ・ウォーホルはニューヨークでファクトリー(工場であり工房ですね)なる場所を根城に、仲間たちと集団でその活動を展開していました。このような集団での絵の生産というと、ルーベンスやレンブラントなどの昔の時代はそんな方式が一般的でした。工房で様々な職人との共同作業で、商品である絵を「生産」していたわけ。

「絵画を共同作業で生産って・・・おい!おい!芸術家の良心はどうしちゃったの!?」
と思われる方もいらっしゃるでしょうが、芸術家としての自己意識はもっと後の時代のもの。それにその当時は、真の創造性は神様の領分だったので、家内制手工業での絵の生産も、芸術的には問題ないわけです。

アンディ・ウォーホルはそのような昔の工房のスタイルを引用して、自分の絵に「ハク」をつけたわけです。
そのアンディ・ウォーホルのファクトリーは、まあ、だらしないアーティストがだらだらしているものだったそうです。そのような内部では馴れ合い、そしてそれゆえにある種の排他性を持ち、外部のものへの警戒感を持っている組織・・・それがアンディ・ウォーホルのファクトリーの姿でした。しかし、それってファクトリーであると同時に、精神的にはファミリー、つまり家族と同じでしょ?

ファクトリーの代表者であるアンディ・ウォーホルは、単なるファクトリーの社長というより、ファミリーの代表者・・・つまり父親のようなものなんですね。

だから、この犯人のソラナスも、ウォーホルを撃ったわけ。自分をレイプし、自分自身を認めなかった自分の父親に対する期待と憎悪。その憎悪のはけ口がウォーホルに転換されてしまったわけです。
そもそもアンディ・ウォーホルのようなゲイのアーティストなんて銃撃しても、女性の権利が拡大するわけがないことは、子供だってわかることですよ。
自分の実際の父親への憎悪が、ファクトリーの父親的な存在であるウォーホルへの憎悪に転換されてしまったわけです。

ダメダメ家庭出身者の人間が、自分らしさを失わず、存分に「ぐーたら」していられるウォーホルのファクトリー。その理想のような擬似ファミリーに参入したいと切望してもかなわなかった。
そのファミリーからの拒絶による絶望が、自分自身の過去の体験と重なって、銃撃になったわけでしょう。

本来なら、まずは自分の父親を銃撃することが先でしょ?自分の娘をレイプするような父親なんて、この世からいなくなっても、世間の人はスッキリするだけ。喜ばしいことですよ。
しかし、自分自身の本当の問題から目をそらしてしまうと、ソラナスさんのような、お門違いのクレームをぶつけるだけのクレーマーやテロリストになってしまうわけです。

このメールマガジンで度々ふれていますが、日本でも元気に活動しているフェミニストさんがいらっしゃいますよね?
フェミニズム自体は結構なこと。ただその運動の着地点や方法論を考えていない人が多いでしょ?そのような人は自分自身の本当の問題・・・特に自分の両親の問題から逃げているわけ。だから周囲にクレームを言うだけで、反論されると、すぐに逆上してしまう。そんな人は頭が弱い以上に心が弱いわけです。
そんなクレーマーに同調するような人も、自分自身から逃げている心の弱い人間なんですね。

最初に言及しました、「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」という映画ですが、ショーン・ペン演じる主役さんも、本当の問題は父親なのでは?彼が本当に殺したかったのは、自分の父親なのでは?彼はニクソン大統領と自分の父親を重ね合わせていたのでは?

見てもいない映画について想像してもしょうがありませんが、そんな気がいたします。
ニクソン大統領の政治には、色々な見解があるでしょう。しかし、「悪いのは全部ニクソン大統領のせいだ!」と単純に割り切ってしまってテロ行為に走るのは、まさにダメダメ家庭出身者の発想。

ショーン・ペン演じるその主人公は自分の父親をどう捉えていたのか?彼が自分の父親の問題にしっかり向き合う強さがあったら、そんな事件は起こしませんよ。

(終了)
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発信後記

この映画は、一般的なレンタル・ヴィデオ店にもあると思いますので、週末にでもごらんになってくださいな。
独立系の映画なので、有名な俳優はほとんど出ていませんが、内容的には面白いと思います。有名な俳優というと、デビュー当時のスティーヴン・ドーフが、ソラナスの友人のオカマさん役で登場しています。

あと、ソラナスという名前から彼女がギリシャ系であることがわかります。
ニューヨークのギリシャ系というと、20世紀アメリカの独立系映画の先駆者であるジョン・カサヴェデスがいますし、20世紀最大のオペラ歌手であるマリア・カラスもそうです。
芸術というものは、ダメダメとマトモの接点に発生したりすることが多いもの。

自分自身のダメダメなところを、厳しく見つめる強い意志が芸術を生んだりするんですね。完全にダメダメだと、単に他者に文句を言うだけで終わってしまうわけ。


ちなみに、昨日ロンドンでテロが起きたようですが・・・
今はテロというとイスラム教徒が定番。
しかし、ちょっと前はロンドンでのテロというとIRA(北アイルランド共和国軍)によるものと決まっていました。
イングランド人はアイルランド人を徹底的に差別し、侮蔑した・・・これは歴史的事実。
このようなことがあると、民族的、言語的、宗教的な差別はケシカラン!と言われてしまうものです。

しかし、イングランド人だって、スコットランド人やウェールズ人はこれほど差別しなかったわけですしね。あえてアイルランド人という理由もあるんでしょう。

往々にして差別される側は、もともと強い被害者意識があるもの。強い被害者意識があり「自分こそが最大の被害者」と思っているので、自分が交わした約束を破って相手に迷惑をかけることも平気。そうなると、話し合いで問題を解決することができなくなり、どうしても強制力による解決しかなくなる。そうなると、ますます被害者意識が燃え上がる。結局、テロなどを起こして暴れるだけになってしまう。そんな人間と話し合いなどできるわけありませんから、ますます強制力を伴った解決しかなくなる。そんなスパイラルが起こっているもの。

アイルランド人がイングランド人に差別されるのも、そんな理由なのでは?
アイルランド人も言いたいことはあるでしょう。しかし、自分が交わした約束を守ることくらいはしないと、話し合いもヘチマもないでしょ?
テロをする人たちって、みんな話し合いの意欲も能力がありませんよね?
イスラム教徒が代表例ですよね。
だから何より味方がいないわけ。
今回取り上げたソラナスさんもその典型といえます。

テロそのものを問題視するのは当然ですが、その元となっている強い被害者意識に目を向ける必要があるはずです。だってそんな被害者意識は日本でもおなじみですからね。日本ではテロは一般的ではありませんが、クレーマーくらいはポピュラーでしょ?
あれも一種のテロリストですよ。
R.10/11/21