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カテゴリー | ダメダメ人間の自己逃避 |
配信日 | 05年7月29日 |
タイトル | 自分探しの旅 |
ダメダメ家庭は、何かと「費用対効果」などと言い出し、すぐにリターンが得られることしかしないし、子供にもそれを要求する・・・このようなことは何回も書いています。 何をするにせよ、自分の持ち出しというか被害を意識することになる。 お金が貧しいというより、それだけ心が貧しいわけ。 しかし、中には、スグに金銭的なリターンを求めないダメダメ家庭もあるわけです。 お金と時間には余裕があるタイプのダメダメ家庭です。もちろんお金や時間に余裕があっても、心が貧しいのはダメダメ家庭のお約束。 その種のダメダメ家庭で育った子供が、往々にしてやったりするのが「自分探しの旅」というヤツ。自分自身を探し求めて、世界中を旅する・・・そんなモノらしい。 この種の自分探しの旅は、何も最近になって始まったものではないようです。いわゆる「団塊の世代」の人にもそんな自分探しの旅の経験者がいたりします。当人はそれを「自分探しの旅」とは意識していなくても、「オレも大学卒業後に1年掛けて世界中を回ったモンだ!」そんな感じで語ったりするわけ。 それって今で言うと、まさに「自分探しの旅」そのものでしょ? 自分のお金を何に使おうと本人の勝手でしょう。まあ、人様に迷惑を掛けなければネ。イラクで捕まったりして迷惑を掛けたりするケースもありますが、あれは基本的にはレアケース。 しかし・・・「自分探し」と言っても、じゃあ、自分の何を探すの? 自分探しの旅をなさった方々は、その点を明確に説明したりはしないもの。 「自分探しの旅」って、そういうものでしょ?ただ漠然と「自分探し」なんですね。 「自分なんて・・・手で胸を叩いて『ボンっ!』と音がするモノ・・・それが自分じゃないの?」 と、私などはそんな身もフタもないことを言ったりしますが、きっとその手の人たちにしてみれば、そうではないんでしょうネ。しかし、では具体的に自分の何を探しに出かけたの? 自分の体の一部・・・たとえば肝臓とか? それだったら確かに必死で探さないといけないでしょう。失われた自分の肝臓を求めて世界中を旅する!そしてヨーロッパの片隅で自分の肝臓と感動の再会! こんな感動のロマンだったら、面白いでしょうが・・・ シュールでコミカルな話は私好みであることは確かですが、自分探しの旅をなさっている方は、自分の内臓を探しに出かけているわけではないでしょう。 では、具体的に何を探しているの? その種の自分探しの旅の経験者と話をしても、往々にして、ただ「自分探し」以上には言わないもの。しかし、そんな人たちと話をしていると、私にも少しずつわかってきました。 どうやら自分の「存在価値」というか「役割」というか、「居場所」を探しに出かけているようです。本人たちは明確に言ったりはしませんが。 スグに「費用対効果」などと言い出し、金銭的なリターンを求めるタイプのダメダメ家庭ばかりではないけれど、だからと言ってダメダメ家庭を作る親は、心が貧しく被害者意識があるもの。子供を育てるハメになってしまったことによる被害を、子供に語り続けたりするわけです。だから、子供としても親に対して加害者意識があるわけ。加害者は被害者に贖罪をしなければならない。謝罪となると補償となる。やっぱり一種のリターンが要求されるわけです。その補償が必ずしも金銭的なものではなくても、ある種の補償を求められるわけ。親の側としては、子供から補償を得ることで、自分は子育てという被害を背負わされたことを確認するわけです。 だからこそ、子供としてはリターンを出さなければならないと切羽詰まってしまう。 「自分は・・・親のために・・・役に立つ人間にならなければ!!」 「しかし・・・今のボクには何があるのだろう?」 と言うことで、自分の存在価値なり役割を探しに出かけている・・・ようです。 社会に対する存在価値というより、自分の親に対する存在理由が根底にあったりするわけ。マトモな家庭だったら、子供は親に対する存在理由なんて考える必要はありません。しかし、ダメダメ家庭だったら考える必要が出てくるわけです。 マトモな家庭の子供だったら、長期で外国に行くといっても、大学在学中に外国に遊びに出かけたり、就職した後で会社の費用で外国に留学するものですよ。しかし、ダメダメ家庭の「自分探しの旅」は、往々にして学校を卒業した直後に出かけたりするものなんですね。 何回も書きますが、自分のお金と時間をどのように使おうと本人の勝手です。 しかし、その「自分探しの旅」で、結果的に何が見つかったの? それこそ「失くしていた自分の肝臓が見つかった!」と言うのなら話は簡単でしょう。 しかし、そんなものじゃないんでしょ? では、結果的に何が見つかったの? 自分の存在価値はちゃんと見つかったの? 実際には、自分探しの旅について経験者が語る際には、その探した結果について語ることはないんですね。ただ「オレも自分探しの旅をした・・」そんな程度になってしまう。 折角、1年くらいかけて探したのだから、「結果的に何が見つかったのか?」それこそが語るに足る内容でしょ? しかし、ダメダメ家庭というものは、細かな具体論よりも漠然とした一般論ばかりなんですね。そんな環境で育っているので、「自分探しの旅」などと漠然そのものな言い方でも平気になってしまう。 しかし、「自分の何を探すのか?」もうちょっと具体的にしておかないと、見つかるものも見つかりませんよ。 だから、そんな「自分探しの旅」と言うものは、「自分の何を探すのか?」を探す旅とも言えるわけです。違いますか? 最初に書きましたが、自分なんて・・・手で胸を叩いて「ボンっ!」と音がするモノでしょ?それが自分そのものじゃないの?実際にそうでしょ? 自分なんて、自分の目の前・・・それどころかもっと近くにあるものでしょ? それがたとえ「自分の存在価値」という抽象的なマターであっても。 自分の存在価値なんて、自分自身をしっかり見つめることから出発するしかないじゃないの?そのことに、別にお金が掛かるわけでもないし・・・何故にそこから始めないの?自分自身との対話こそが、自分探しの出発点でしょ? そう!いわゆる「自分探しの旅」って、むしろ「自分からの逃避」の旅なんですね。 自分と向き合うのが怖いから、世界中を回ることになる。 しかし、メーテルリンクの童話「青い鳥」のように、幸福は自分の目の前にあるもの。ましてや『自分』なんてものは、自分自身の元にしかないでしょ? チルチルとミチルは子供だから、幸福を求めてあちこち回ることもしょうがない。しかし、20歳過ぎた大人が自分を求めて世界中まわってどうするの? しかし、ダメダメ家庭出身の人間は自分自身と向き合うのが怖い。自分自身と向き合うと、そんな自分を作り上げた自分の実家・・・つまり親の問題と向き合わなければならない。日頃から子育てによる被害を強調し、自分に加害者意識を植え付けていた親について考えることは、確かに大変ツライことであり、実質的には親の問題はアンタッチャブルになってしまっている。 親の問題がアンタッチャブルになっているというだけでなく、そんなダメダメ家庭で育っているので、子供自身もダメダメな要素をふんだんに持っている。人にウソをついたり、言い訳をしたり、やたら人に合わせすぎたり、オドオドしたり・・・そんな自分自身を見たくはない・・・まあ、確かにそうでしょうね。 「こんなダメな自分は本当の自分じゃない!!本当の自分はどこだ?オレは本当の自分を求めて世界中を旅するんだ!」 そう考えるのも無理はありませんよ。 しかし、そんなダメダメな自分こそが本当の自分でしょ?自分自身の存在価値なんて、そんなダメな自分を自覚して改善して行くしかないじゃないの?しかし、そんなダメな自分について考えるのは精神的にツライし、そんなダメな自分にした親の問題を考える必要が出てくる。しかし、そうなると、心理的なアンタッチャブル領域にぶつかってしまう。 それを避けるために、世界中へ逃げ回る。 しかし、逃げて得られた結果なんてあるわけもなく・・・「結局は、アンタとしては、その自分探しの結果で何が見つかったの?」という当然の質問に答えられないわけです。 自分のお金と時間を何に使おうと勝手。しかし、その種の自分探しの旅で「味を占めて」しまうと、妙な「逃げ癖」が付いちゃうんですね。 どうでもいいような問題には首を突っ込むけど、自分自身に関わって来そうになるとさっさと逃げてしまう。その種の人って、結構いたりするでしょ?何をやらせても中途半端な人。 また、自分の存在価値を求めて、自分自身から逃避したわけですから、妙な宗教に入れ込んだりするケースもあったりするわけ。 安直に、宗教から「自分の価値」を与えてもらおうとするわけです。しかし、自分自身の価値なんて、人から与えてもらうものではないでしょ?自分自身で獲得するしかないじゃないの? あるいは、「こんなダメな自分になったのは、全部○○のせいだ!」という、強い被害者意識にしがみついたりするわけ。この種の人はイスラムなどの被害者意識の強い地域に出かけて、その地域の被害者意識と共鳴して、自分自身を被害者と認定して、自分自身のダメダメを正当化するわけです。 典型的な例は、度々言及していますが、とある芥川賞作家さん。イスラムとかギリシャなどのダメダメな地域に出かけて、その被害者意識と共鳴することで、当人自身のダメダメから目を逸らしている。「よくまあ!こんな程度の人間が賞を取れたものだ!」とは思いますが、逆に言うとその程度だからこそ、賞が取れたんでしょうね。程度が低い読者がラクに読める文章なんでしょうね。 確かに、自分を被害者だと認定すれば、自分自身を改善する必要はありませんからね。後は加害者と認定した人間を糾弾していれば済むだけ。自分自身にはラクなこと、この上ない。 また、自分の存在価値を安直に獲得しようと、ボランティア活動をしたりするケースもあったりします。ボランティア活動自体は、もちろん結構なこと。しかし、自分自身からの逃避が、その活動の、本音での目的になっていたりするケースもあるわけです。だから、そんなボランティア活動も、最後に成果を出すまで付き合うようなことはしない。都合が悪くなると「それは、本来はアンタたち自身の問題でしょ?ワタシはたまたま手伝ってあげていただけですよ。」と言いながらトンズラしてしまう。 結局は、「自分探し」という名目で、自分からの逃避を行った発想がそのまま続いているわけ。 その種の人って、例外なく「自分に甘い」人なんですね。だから本当の改善は何もしないで、自分とは直接関係しないことばかり関わったりするわけ。そして、自分にとって触れられたくない、自分自身や自分の親の問題に近くなってくるとさっさと逃げてしまう。その種の人は「自分に甘い」だけでなく、往々にして「他者に厳しかったり」するもの。だから、やたらと人の悪口を言ったりする。 「悪いのは全部○○のせいだ!」「あいつの△△のせいでうまくいかない!」と言いたいがために、人のあら探しをしてばかりになっている。他者に厳しくすることによって、自分を被害者の側に置くわけ。 自分の本当の問題から目を背け、どうでもいい問題に首を突っ込み続けているので、本当の改善もなされない。だから、当人自身としては、自分でやりたいことがわからないのは相変わらずだし、ダメダメ家庭の会話能力の不全も変わらないし、ダメダメ家庭の被害者意識も相変わらず。 そんな被害者意識を持ったまま、家庭を持ったらどうなるの? 結局は、子育てによる被害を真っ先に考える親になってしまうわけです。 「あ〜あ、オマエを育てるために、ワタシの人生を棒に振ってしまった!」 自分の親と同じように、やっぱり自分自身も子供にグチったりすることになる。 しかし、それこそ「自分を探し当てて」自分自身をちゃんと見つけていれば、そんなことにはならないものでしょ?そんな風に親から言われ続けた子供がどうなっちゃうのか?本来は本人自身が一番わかっているはずでしょ? まあ、「自分探しの旅」が2代続くくらいなら、大したことではないでしょうが、結果的には、もっとひどいことになったりするわけです。 そんな人が親になっている家庭は、その「子育てによる被害者という立ち位置」を確定させるために、いわば報復のようなことを行うことになる。 報復行為を行うことで、自分を被害を受けた側だと自分に確認させるわけ。 まさに、虐待家庭が誕生してしまうわけ。 このメールマガジンの購読者の方の中には、「自分探し」の経験者の方もいらっしゃるかもしれませんが、今回のこの文章に対して、もし、ご批判があれば甘んじてお受けいたします。 勿論のこと、「自分探しの旅」によって「自分なんて、自分の元にしかない。」と気づいて、方針転換する人だっているでしょう。自分探しの旅において、唯一「見つけること」と言ったらそれくらいじゃないの? せめてそれが見つけることができれば、ヨカッタ・・・ということなんでしょうね。 自分の親の「心の貧しさ」と、自分自身の「心の弱さ」というものは、わざわざ世界中を回らなくても、気がつくことはできるものですが、世界を回ったおかげで気がついたのなら、それなりの収穫と言えるわけです。ただ「自分探し」経験者の大多数がそんなことも気がつかないでいるんですね。一体、自分の何を探していたのやら? (終了) *************************************************** 発信後記 日本では、団塊の世代あたりから、この種の「自分探しの旅」の経験者が登場するようです。ある程度は経済的に豊かでないと、こんなことは出来ませんからね。 ちなみに、自分の子供が自分探しの旅をすることについて、その親は何を思っているでしょうか?あるいは、その「自分探しの旅」の後で、その親は何を言ったりするんでしょうか? 「お父さん!お母さん!ワタシ来週から自分を探しに世界中を回ってくる!」 なんて子供に言われて、「そうなの?じゃあ、気をつけて!」なんて言ったりするの? それ以前は一体どんな会話をしていたの? そんな状況を想像するだけで、「自分探しの旅」がダメダメ家庭に特有なものであることがわかるでしょ? |
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R.10/11/21 |