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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の活躍分野
配信日 05年9月5日 (10年11月24日 記述を追加)
タイトル ストーカー
以前に、とあるクレーマーさんと話をしたことがあります。
その人は、ある会社に執拗にクレームをつけているわけ。
私からは、『アンタもいい加減にしないと・・・そんな調子でクレームをつけてもムダだよ。だって、あの会社はアナタをタチの悪いクレーマーと思っているんだからネ。相手に不満があるにせよ、やり方を改めないとダメですよ。』と忠告しました。

すると、
「クレーマーって何?」
との質問。
私が『クレーマーというものは・・・うんたらかんたら・・・』と、ちょっと気を使いながら説明したわけ。

すると今度は、「へぇ・・・世の中には、そんな人もいるの?もしかすると、あの会社も、私のことをクレーマーだと思っているのかもしれないわねぇ。」との感想。
・・・しっかし、そう言われちゃうとサスガの私も絶句。
『いやぁ・・・アンタはクレーマーそのものだよ!何がクレーマーだと思われちゃっているかも?だよ。こりゃダメだ!』
と、言いたかったところですが、言いませんでした。ただ、遠い目をしただけ。

往々にしてクレーマーというものは、自分をクレーマーだとは思っていないもの。
そんなものでしょ?
昨年(04年)に発生した島田紳助事件の「被害者」の女性も、まさか自分をクレーマーだとは思ってはいないでしょう。しかし、その言動はクレーマー以外の何ものでもないでしょ?
その手のクレーマーが言うのは大体決まっています。
「クレーマーは相手に嫌がらせするのが目的でしょ?しかし、私は違うわ!私は正義感を持って、悪い相手を追及しているんだ!」
そう考えているわけ。
「だから私はクレーマーではないんだ!」
自分では、そう思っちゃっているんですね。

しかし、「乱暴なやり方で相手に絡むだけで、具体的な着地点を想定できていない。」「ひたすら自分の被害を叫び続ける。」「クレームし続けること、そのものが目的となっている。」という抗議のスタイルは、正義感があろうが、なかろうが、クレーマーそのものですよ。
いや、正義感があるから、具体的な着地点を想定していないわけ。単なる金儲けだったら、ちゃんと具体的な解決策を事前準備していますよ。それこそ企業にたかる総会屋のようにね。総会屋は最初から「落としどころ」をちゃんと準備していますよ。商売でクレームをつけてくる人は、ちゃんと物事がスムーズに運ぶように事前に準備ができていなくては失格ですからね。そんな人たちは、クレーム処理の設計図をもとにクレームをつけてくるわけ。逆に言うと、流れが読みやすいことになる。
しかし、正義感が暴走するクレーマーは、暴走するがゆえに、自身にも相手方にも着地点が想定できないわけ。

クレーマーというものは、正義感を持ってクレームをつけてくる。
このことを理解していないと、クレーマーの心理は理解できないわけです。
クレーマーさんは、自分の不満に正義という覆いをかぶせて、暴走していくわけです。
だから、クレーマーさん自身に見えるのは、覆いである正義だけになっているわけ。
しかし、本質は、覆いの中にある不満の方なんですよ。

かと言って、ダメダメ家庭出身者は、会話の能力がない。だから自分の不満について具体的に説明できる能力がない。
また、ダメダメ家庭出身者は被害者意識が強い。だからすぐに自分の被害者意識に火がついてしまう。
また、ダメダメ家庭出身者は妄想への親和性が高い。だから妙な陰謀史観でものを見てしまう。
また、ダメダメ家庭出身者は周囲にマトモな人が少ない。だから、適切なアドヴァイスも受けられない。

だから、たとえ、そこに善意があったとしても、そんな人のやっているクレームは、クレームのためのクレームになってしまうわけです。

このようなクレーマーと実に良く似ているのがストーカー。
ストーカーも、その心理の中には善意があるものなんですね。
善意があるからこそ、ストーキングするわけ。

「あの人の本当のことを理解してあげられるのは、このワタシだけ!ワタシだけが、あの人を理解してあげられるんだ!」
「このままじゃ、あの人はダメになってしまう!ここでワタシが何とかしないと!!」
「あの人を救えるのはワタシだけ!」
これってみんな、言葉の上では「それなりに」善意でしょ?

相手への善意を持ってストーキングするわけ。だから自分が受ける犠牲もヘッチャラ。だって自分は相手に対して「いいこと」をやっているという認識なんですからね。
自己犠牲を容認するくらいの使命感をもっていると言っていいくらい。
だから、クレーマーと同じようなことが起こるわけ。

「ワタシはストーカーじゃない!ワタシはあの人に嫌がらせをしているんじゃない!あの人のためにやっているんだ!」

しかし、やっていることはストーカーそのもの。
だから、周囲がそのストーカーさんに忠告してもムダ。「あの人もアナタには困っているよ!」なんて言っても効果はないわけ。だって、「ワタシだけがあの人を救うことができる!」なんて思いつめている人間に、そんな忠告しても無意味でしょ?「ああ、こんな無理解な人たちに囲まれて、あの人はなんてお気の毒なの!こうなったら、このワタシがもっとがんばらないと!」と、いっそうストーキングに気合が入ってしまうのがオチ。

この手のストーキングは何も最近になって始まったものではないんですね。ストーカーというダメダメ家庭の問題は、人類の歴史と供にあるわけです。

以前にも書きましたが、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」では、ドンナ・エルヴィーラという女性が「ワタシがいないと、アナタはダメになってしまうわ!」と、ドン・ジョヴァンニをストーキングしている。あるいは有名なオペラ「カルメン」でも、ドン・ホセは「このままでは、オマエはダメになっちゃう!オレがオマエを救ってやる!」とカルメンをストーキングするわけ。その挙句にカルメンを殺してしまう。
まあ、芸術家はちゃんと見ているものなんですね。

しかし、程度の低い人間は、クレーマーやストーカーの心理の中に「善意」や「正義感」があることがわからない。
だからこそ、ストーキングしている人間が、「ワタシはクレーマーじゃないんだ!」とか「ワタシはストーカーではない!」・・・「だってワタシには善意があるもの。」という話になってしまう。

しかし、善意があるからこその、ストーカーなんです。
ダメダメ家庭出身者の全員が、ストーカーになるわけがありませんが、すべてのストーカーはダメダメ家庭出身といえます。
そもそもダメダメ家庭の人間は、当事者意識がなく、自分が何をやっていいのか自分でもわからない。自分一人で何かをやって行き、その活動によって、自分の価値を作っていくことができないわけ。だからこそ、「ワタシはあの○○にとって役に立つ人間だ!」そんなロジックを求めている。
クレーマーでの例えをちょっとモディファイすると、ストーカーは、自己逃避に善意という覆いを掛け、その善意によって暴走していくわけ。
ストーカーさん自身にしてみれば、覆いである善意しか見えない。
しかし、その本質は、自分自身でやりたいことがわからない、あるいは自分の価値が自分でもわからないという自己逃避の問題なんですね。

自分単独での価値が自分でもわからないので、「別の人にとって役に立つ」ことを渇望し、その対象者を探している状態。そんな状態の時に、「救ってあげられる」対象が現れたら、「ワタシだけがアナタを!!」と気合が入ってしまうのは当然のこと。

自己逃避で抑圧的な人間は、そのような形で、人との関係性によって自分の価値を設定することになる。
「あの人にとって、役に立つ自分。」
「あの人に被害を受けた自分。」
そのように、関係性によって、自己を認識しているわけ。

別のところでも書いていますが、相手そのものよりも、相手との関係性が優先されることになる。
それこそ、相手との肯定的な関係で突っ走ってしまったら、それはストーカーとなるわけですし、相手との否定的な関係で突っ走ってしまったら、それはクレーマーとなるわけです。

ストーカーにおいては、相手との肯定的な関係が重視され、相手そのものが無視されてしまう。
だから、肯定的な関係を維持するために、相手本人を殺すことも、その面においては、合理的な行為となってしまうわけ。
あるいは、クレーマーの場合は、相手との否定的な関係の面だけに視点が集まってしまうので、その関係性を確定させるためには、自分を犠牲にすることも躊躇しない。
相手そのものなり、自分自身の存在よりも、関係性が重視されているわけ。
まさに、「ワタシが被害者として認められるためには、ワタシ自身は死んでもいい!」なんてことになってしまう。「あるいは、あの人から恋人として認めてもらうことができるのなら、ワタシは死んでも構わないわ!」と考え、実際に行動に移してしまう。
実際に、そんな事件が起こったりしているでしょ?
逆に言うと、このストーカーの問題の解決にあたっては、その本質である自己逃避に対処する必要があるわけです。善意とか被害とかの表象の面に注目しても、効果はありません。
何回も書きますが、対象そのものよりも、対象との関係性が肥大化してしまっているわけ。

せめて、自身がダメダメ家庭出身であることを自覚し、自身の自己逃避傾向について自覚していれば、そんなことにならないで済むわけです。しかし、頻繁に書きますが、自己逃避を自覚できないことが、まさに自己逃避というもの。だから、そんな自覚は起きようもなく、結局は、ちょっとしたことで、暴走してしまうわけ。

ちなみに、このストーカーの問題は成人同士のケースがニュースなどで登場したりしますが、家族内ストーカーのケースもありますよね?
親が子供にストーキングするわけ。

それこそ、プロゴルファーである自分の娘にストーキングした父親がいましたが、典型的なケースと言えます。
「アイツはオレがいないとダメになってしまう!」
まあ、立派な愛情だこと!

ダメダメ家庭の人間は、会話の能力がなく、自分の子供しか相手になってくれない。それに加えて、「恋に恋する」妄想癖がある。親が子供にストーキングする背景が十分に存在しているわけ。

以前にも書きましたが、私が具体的に知っている人で、『陰陽師の先生が言っていたけど、子供たちとワタシは前世から親子だったのよ!』と、言っている人がいます。
前世から現世に渡ってストーキング。そしてその次は来世までストーキング。
まあ、時空を超えた雄大なスケールのストーキングですね。

しかし、親が子供にストーキングしても、法律上問題にならないばかりではなく、社会的にも問題にはなりませんよね?
挙句の果てには、嫌がる子供の方が社会から糾弾される始末。

これじゃあねぇ・・・

(終了)
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発信後記

ストーカーを扱った芸術となると、非常に有名なのはフランスのエクトル・ベルリオーズ作曲の交響曲「幻想交響曲」でしょうね。
ベルリオーズは自分自身がイギリスの舞台女優をストーキングした実体験を交響曲にしたわけ。

ベルリオーズはイギリスの女優さんに一目ぼれして、ストーキングしたわけ。舞台稽古に忍び込んで、その女優さんのラヴシーンを見て、大声を上げて逃げ出したこともあったそう。

まあ、彼の発想や行動を見てみると、ダメダメ家庭出身者のスタイルがてんこ盛りと言えます。

ちなみに、ベルリオーズとその女優さんは、やがて結婚しました。しかし、結局は離婚。
まあ「恋に恋する」結果なんて、ちょっと考えれば予想できること。そもそも会話がないわけですからね。

とは言え、ストーキングの結果で芸術作品が出来上がったのだから、そのケースはハッピーエンドと言えるのかも?
R.10/11/24