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カテゴリー ダメダメ家庭をめぐる環境
配信日 05年9月14日 (10年9月24日 記述を追加)
タイトル 集団ヒステリー
ダメダメ家庭の人間は被害者意識だけがある。当事者意識がないので、自分自身が対処して問題を解決していくという発想がない。というか、自分で判断してトラブルを避けるということもしない。全部が人任せ。だからトラブルが起こった場合は、「自分が受けた被害」と捉えてしまう。だって、当人としては何も判断していないわけだから、間違った判断はしていないことになるでしょ?だからこそ、失敗ではなく被害と認識してしまうわけ。

それに加えて、ダメダメ家庭は会話が不全の家庭。自分の考えを相手にわかりやすい形で説明する意欲も能力もないわけ。

説明能力が低い、被害者意識だけがあるダメダメな人間ができることといったら、グチを言うこと。
「オレたちは、かわいそうな被害者だよな!ああ!周囲の人間は何もわかっていない!」
そうやって、周囲にグチることになる。

マトモな人間は、そんなグチ人間に近づくわけもなく・・・
結局は、グチばかりのダメダメ人間の周囲には、同じようなグチばかりのダメダメ人間が集まっているわけ。
そんな集団は、被害者意識が充満していて、発火寸前の状態。
だから、ちょっとのことで火がついて暴走してしまう。

ちょっと前に、とあるインターネットのブログで「オタクはキモイ」と書いてあったサイトが、オタクの集団に総攻撃を受けたそうです。
その人のブログにおいて、東京ビックサイトかどこかに集うオタクを「キモイ」と評したらしい。
それで大騒ぎとなったわけでしょうね。

実は、このメールマガジンで「ダメダメ家庭出身者のその後」というカテゴリーで「キモイオタク」という回がありました。この時は全然大騒ぎにならなかったけどなぁ・・・
まあ、それだけこのメールマガジンが注目されていないんでしょうね。
ああ!そんな程度のブログに負けているなんて・・・
喜んでいいのか?悲しむべきなのか?

私が取り上げた「キモイオタク」というのは、趣味の問題を議論した内容ではありません。「自分の趣味をどう説明するか?」その点に、ダメダメ家庭の会話不全が顕著に表れてしまう問題を考えたものです。
自分のオタク趣味を語るのは勝手ですが、相手にわかりやすいように説明する必要があるでしょ?相手を無視して、「熱く」語るから、「キモイ」って言われちゃうわけでしょ?
その挙句に、「アイツたちは、オレたちのことをわかってくれない!」なんて被害者意識に浸られてもねぇ。

説明能力がない、被害者意識の強い人間同士が集まってグチ大会。
これじゃあ、ますますキモクなりますよ。だから、周囲の人にますます相手にされず、ますます被害者意識を持ってしまう。
そして、その被害者意識が充満した状態に、何かで火がつくと、集団ヒステリーになるわけ。
それこそ、「オタクはキモイ」なんて他愛のない文章に集団で総攻撃するようになる。

ちゃんとしたマトモな「オタク」なら、周囲から「キモイ」と言われても堂々としているものでしょ?
人差し指で「チッ、チッ、チッ」とやって、「この作品のよさがわからないなんて、君たちはなんて可哀相な感性をしているんだ!」とでもやればいいじゃないの?
あるいは、「ホント、こんなのが好きなんて・・・オレってバカだなぁ・・・」と笑っていれば、周囲の人もキモイとは思いませんよ。

それこそ目を吊り上げ、逆上するから、キモイとなるわけでしょ?
趣味は趣味として勝手ですが、自分の考えを相手に分かり易く語らないとね。
しかし、被害者意識だけがあり、周囲の人間からして、同じような被害者意識だけの人間だと、「相手に対して分かり易く語る」という発想が喪失してしまって、いざという時に的確な説明ができないわけ。

おまけにダメダメ人間は対抗心が強い。被害者意識が強いので、加害者に対抗するという形をとりたがる。何かに対抗するという形でないと自分自身を実感できなかったりするんですね。そんな人間が集まっていれば集団ヒステリーも起きますよ。

この集団ヒステリーに陥るのは、何もオタクの人(勿論、ダメダメ家庭出身のオタクですが)だけではありません。被害者意識が充満している集団では起こるものなんですね。
逆に言うと、集団ヒステリーが発生するということは、その集団が被害者意識で充満していたということ。

それこそ中国や韓国の反日暴動などその典型でしょ?
目を吊り上げて、逆上しての集団ヒステリーで、一体何が伝わったの?
まさに「キモイ」と言われるのがオチ。
彼らとしては、過去の日本の植民地支配云々と言っているようですが、あのデモの参加者の年齢を見てみればわかるように、あの参加者は過去の日本の植民地支配を実際に体験している人ではないでしょ?つまり、具体的な被害の問題ではなく、一般的な被害者意識の問題なんですね。そして、そんな漠然とした被害者意識が充満していることがその理由。だからどのみち、別の事案でも集団ヒステリーに陥るわけ。それこそ過去においては、中国では文化大革命という集団ヒステリーもあったでしょ?漠然とした被害者意識が充満していて、それに「形」を与えれば、まさに暴走していくわけです。「ネタ」というか「形」を得たことは、集団ヒステリーの「きっかけ」であって、「理由」ではないわけ。集団ヒステリーの理由は、蓄積し土壌となっていた漠然とした被害者意識の方なんですね。

何回も書いていますが、グチばかりのダメダメ人間の周囲には、同じようなダメダメ人間が集まってくるもの。だから、そんな集団ヒステリーにも妙に共感を表明する人っていたりするでしょ?
そんな人はそのような集団ヒステリー予備軍というわけ。

漠然とした被害者意識が集団ヒステリーの本質なので、怒りというか抗議の対象については、どうでもいいわけ。
その集団がまとめやすいネタであれば、真偽なり、合理性はどうでもよくなる。
その集団の構成員が共通して持っている恐怖感や不安や不満を統合できるネタであれば、どうでもいいわけ。
そんな集団は、成功者に対する妬みを持っているもの。
だからこそ、その妬みを統合できるネタがあると、集団で盛り上がってしまう。

あるいは、この手の人たちは、当事者意識がなく、目的意識がないので、つまり「結局は、自分として、何をしたいのか?」について考えることから逃避している。
自分で達成したいことが存在しないので、逆に言えば、「どうやって達成していくのか?」というプラグマティックな観点がなくなり、倫理的な物言いが多くなるわけ。
「これは道徳的に正しいか?」そんなスタイルの疑問が多くなり、そんな視点で物事を見る。
そして、道徳的な正しさから外れた事案を見つけると、「待ってました!」とばかりに大きな反応となってしまう。

そして、集団的な形で、道徳的公憤が暴走する。
このような心理の前提となっている不満とその合理化について、別のところで集中的に言及しておりますが、ドイツ出身の社会心理学者のエーリッヒ・フロムがこのように書いております。

『富と力にあかし、生活を楽しむ人間に対して、実際には羨望をもっていたが、この憤りと羨望を、道徳的な公憤の言葉や、これらの上層の人間たちは永遠の苦悩を受けて罰せられるだろうという信念によって合理化していた。』
『強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、敵意、金についても、感情についても、けちくさいこと、そして本質的には禁欲主義というようなことである。かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対しては詮索好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた。』

・・・まあ、上記のキャラクターは、どこかで見たことがあるような人たちの姿でしょ?
その手の人たちは、自分たちの不満や被害者意識を道徳的な公憤という形にすり替えているわけ。そして、それが充満している。
だからこそ、「憎い○○をやっつけろ!」「悪い□□をたたけ!」というきっかけができてしまうと、「倫理や正義を掲げ」、集団で暴走することになってしまう。

道徳的公憤という形であるがゆえに、ますますものの見方が倫理的になり、ちょっとでも非・倫理的な行為が発見されると、集団で攻撃することになる。
しかし、本質は、当人たちの被害者意識なのであって、実際の事件の倫理性はあまり重要ではない。
当人たちの公憤を統合できることが重要なのであって、事件そのものには関心がないわけ。
みんなと一緒になっての抗議行動をしたいだけ。
そういう意味においては、集団で攻撃する対象は、誰でもいいんですね。
集団になれることが重要なのであって、攻撃対象の問題点について、客観的に説明する能力はない。
自身を抑圧しているので、自分なりにしっかりと考察することに心理的な恐怖をもっている。
エーリッヒ・フロムが指摘するように、詮索という面では関心はあっても、知的な面では何も関心がないわけ。

そんな心理を理解していると、先日(10年)北海道で起こった、無関係の人がインターネット掲示板の人間によって集団で攻撃を受けた事件も理解できるでしょ?
なんでも、同姓の関係者がいたら、間違って攻撃を受けたそうですが・・・

そもそも、電話などで抗議しても、何も変わらないでしょ?
それどころか、無関係の人に抗議してもねぇ・・・

しかし、集団ヒステリーの本質的な原因は、相手方の問題ではなく、自分たちの被害者意識なので、攻撃の対象はどうでもいいし、抗議の結果もどうでもいいわけ。そのことをわかっていれば、そんな方向違いの抗議の心理もみえてくるでしょ?
自分たちの道徳的公憤を主張することが目的なのであって、対象の選定にあたっては、自分たちがまとまりやすいネタであれば、それでいいわけ。
対象の選定も、まずは自分たちのまとまりが優先されるんだから、その合理性について検討なんてしませんよ。そんな合理性を自分なりに検討するくらいの人は、集団ヒステリーなどには参加しませんよ。

本当に抗議したいのなら、一人でも、その人の尊厳をもって、堂々とやればいいだけ。
抗議の主張も、相手にとって理解しやすい形にすることが必要でしょ?
しかし、自己逃避の人が、そんなことはできるわけがない。だから、真偽とか重要性とか有効性については度外視されてしまい、集団化できるネタで、集団化しやすい行為であることが優先されるわけ。

集団ヒステリー状態でワイワイやるのは、その人たちの勝手ですが、そんな騒動が起こるのは、それだけその集団が被害者意識が強く、つまり当事者意識がないということ。
そんな人たちは、別の分野でも当事者意識がないものなんですね、というか、その抗議すら当事者意識をもってやっているわけではないでしょ?
そんな集団には近づかないのが賢明というわけです。
そんな人たちの被害者意識に毒されて、自分自身もダメになってしまう必要なんてありませんからね。

(終了)
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発信後記

初対面の人と話をしたりした時に、フと、「あれっ?この人は文章を書いたりする人だな?」と判ることもあります。商売になるかならないかは別として、読者を意識した文章を書く人は、視点なり、表現なりがちょっと違っていたりするもの。

先の総選挙での小泉さんの演説をニュースで見ましたが、あの演説は読者を意識した文章を書ける人の言葉。読者を意識するとなると、流れの中の「緩急」というものが重要になるわけ。ダラーと一本調子だと読んでいてもツマンナイわけです。たとえその文章に内容があったとしてもね。

だから緊張と弛緩を組み合わせて、流れを「作って」いくわけ。
緊張といっても、大声を上げて緊張させるというものではなく、たとえば疑問を提示するようなことをします。
疑問を提示されると、受け手は考えることになる。だからある種の緊張状態になるわけ。そのような疑問を続けざまに提示すると、受け手は非常に緊張することになる。その時に「これだ!」と回答を出すわけ。「疑問符」「疑問符」「疑問符」そして「感嘆符!!」と流れを作ると、受け手は緊張から劇的に解放され「カタルシス」を味わうことができるわけ。

いきなり感嘆符を連発すると、受けては強圧的に感じてしまう。疑問符の後に感嘆符だから効果があるわけです。いうまでもなく、このように緊張からカタルシスへの流れを作っていくのはオペラでは常套手段。

オペラの台本は、あまり内容を膨らませすぎず、表現のスタイルの変化で、流れを作っていきます。小泉さんの演説は、オペラの台本とすれば極めて優秀なものと言えるでしょう。
ちなみに、小泉さんの演説を「疑問形」や「感嘆符」なしに、つまり単純な句読点のみの教科書的な文章に書き換えると、何も面白くはない。まあ、オペラの台本を文学的に云々してもしょうがないようなもの。

小泉さんの演説の草稿は、小泉さん自身が書いているそうですが、あれだけの文章は、おいそれと書けるものではありませんよ。

また、「総選挙で大勝利したから小泉首相は続投だ!」と言っている人がいますが、そんな理屈はまさに凡人の論理。「総選挙で大勝利したからこそ、任期いっぱいで辞める。」と考えるのが変人の論理。言葉が読める人は、それくらいはわかるものなんですね。

ちなみに、私の文章は基本的には、疑問形が多い文章です。だから読者に緊張を強いる。それに最後にカタルシスを与えるわけではありません。
「答えのない質問」をぶつけて去っていく、迷惑な書き手と言えるでしょう。まあ、政治家には向きませんね。
R.10/9/24