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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神 |
配信日 | 05年10月19日 (10年11月18日 記述を追加) |
タイトル | 言葉への信頼 |
たとえば、夕食の材料を買いに、子供をスーパーマーケットに行かせる。 そんなことって、たまにはあったりしますよね? ちゃんとした買い物リストを作って、それらの品物を買って来させる方法が一般的と言えます。 言われた子供は、そのリストに沿って買い物をするだけ。 まあ、それが「子供の使い」と言うもの。 しかし、ダメダメ家庭だったら、そんなスタイルではないわけ。 親が子供に言うのは、 「オマエの自由に買ってきなさい!」 あるいは、もっとダメダメ家庭らしく「て・き・と・う でいいよ!」 と、そんな調子。 その言葉を受けて、子供が子供自身の判断で買い物をしてきて、親に言われるのは、 「なんだ!これは!オマエを信用して任せたのに・・・もっと安いのはなかったのか!もっと色々と選べなかったのか?ウチのことを全くわかっていないな!ホントに・・・使い物にならない!!」「こんな余計なものを買ってきてしまって・・・まったく、何をやっているんだ?」「あ〜あ、こんなものを買ってきて、今日の晩御飯はどうしよう・・・ホントに使えない子だねぇ・・・」となる。 親からそんな言葉を言われた子供がどう思うの? 「アンタが『自由に買ってきていい。』と言っていたので、自分の判断で買ってきたのに、後で色々と文句を言うなんて・・・もう、2度とこんなことなんかしないぞ!」 となるのは、自明のことですよね? しかし、ダメダメ家庭の特質を思い起こすと、そんな場面でのダメダメな親の反応は、ダメダメなりの道理に沿ったものなんですね。 ダメダメ家庭は自分自身を理解していない。だから、自分自身の希望がわからない。 ダメダメ家庭は会話の能力がない。だから、自分自身の状況も説明できない。 ダメダメ家庭は被害者意識が強い。だから、ちょっとでも都合が悪い事態になると、それを被害と捉えることになる。 そして、自分が被った『被害』で大騒ぎすることになる。 あるいは、長じた後で、子供だけで旅行したりすることもありますよね? 「お土産なんかいらないよ!お前たちで楽しんでおいで!」との親からのありがたい言葉。 しかし、その言葉を信じて、親にお土産を買ってこなかったらどうなるでしょうか? 「まったく・・・オマエは気が利かない!こんなに苦労して育てたのに・・・ブチブチ・・・」 そんな反応を受けた子供の側としては、当然のこととして、 『そんなにお土産が欲しいのなら、旅行に行く前にちゃんと言いなよ!』と思いますよね? しかし、ダメダメな親は自分自身がわかっていないし、何かと言うと被害者意識に火がつく。結局は、どんなことをしても、ブチブチと文句を言うものなんですね。 そんな体験を経てきた子供がどうなるの? 言葉そのものへの信頼がなくなるわけですね。 親が子供に対し何を言っても、「どうせ後になったら、今の言葉だって『なかったこと』にするんだろうな・・・」と言われた側の子供が思うのは当然。後で翻すことがわかりきっている言葉を信頼するわけがないでしょ? 親が何を言っても、「ああ、そう・・・ふーん・・・」と気のない生返事でごまかすことになる。 ダメダメ家庭の中ではそれでいいわけ。どうせ子供の側が何を言っても、親は聞かないわけですからね。それに、親の側は自分の語った言葉に責任を持ったりはしない。責任のない言葉なんて聞くだけムダですよ。 しかし、言葉への信頼がない人間は、将来はどうなっちゃうんでしょうか? マトモな社会生活を送れるわけがありませんよね? だって、人が何を言っても「どうせ、この人も後になって『あの時の言葉はなかったことにする。』なんて言い出すんだろうなぁ・・・」「この言葉を信頼して、自分で対処したら後々面倒になるんだろうな。」「どうせこの人は、後になって平気で梯子を外すんだろうな・・・」と思っているような人は、社会ではやっていけませんよ。 だって、会社内外での打ち合わせとか、会議も何も意味を成さないわけですからね。 そもそもそんな場に臨む態度自体が、マトモな人と違っているわけ。 自分の言葉に対して責任を持つという発想そのものないわけ。 言葉の扱いが軽い人は、単なる言葉の扱いの問題ではなく、当事者意識がないがゆえに、相手に対してわかってほしいこと、それ自体が存在しないということ。 そんな人は、ただその場その場が、滞りなく過ぎ去ればいいだけ。 逆に言うと、滞りなく過ぎ去るようにするためには、過剰なまでに人に合わせることになる。 相手の言っていることに、ちょっと色をつけるようなやり取りにしかならない。 だから、自分の言っていることが、場面によって、相互に矛盾することになってしまう。 それこそ「生きていて毎日が楽しい。」と言った人が、一週間後になると、「あ〜あ、生きていても何もいいことはない。」とグチったりする。 ギャグを書いていると思う方もいらっしゃるでしょうが、現実の例ですよ。 こうなってくると、記憶力の問題とかではないでしょ? 単にいい加減なキャラクターとかの問題ではなく、もはやキャラクターというか人格そのものが存在しないと見た方が自然でしょ? そんな人は相手に伝えたいことがあるわけではなく、その場その場で、自分の存在を、「ちょっと目立たせたい」という感覚なんですね。完全に埋没状態だとイヤだけど、かと言って、目立ちすぎるのも怖い。そのような、他者に依存するキャラクターという観点からみると、それなりに理解はできるわけです。 そんな人は、相手の話に色をつけるというやり取りをするものです。 あるいは、そのように言葉への信頼がない人間が、結婚して自分の家庭を持ったらどうなっちゃうの?そもそも配偶者とどうやってコミュニケートするの? 言葉を信頼していないのだから、もっと直接的な手段・・・つまり暴力を使うのも当然でしょ?言葉そのものへの信頼がない人は、言葉を使った会話による相互理解を積み重ねながら家庭を運営していく発想自体がないわけ。 そりゃ、ドメスティック・ヴァイオレンスの問題だって起こるのも当然ですよ。 そもそも、ダメダメ家庭で育って言葉への信頼を持つことができなかった人間と、わざわざ結婚するような人間も、「言葉への信頼がない」ダメダメ家庭の出身者。 そんな人間同士が自覚もなしに一緒になっても、マトモな家庭が作れるわけがありませんよね? 言葉による相互理解というものがないがゆえに、そして、相手から合意を取るという発想そのものがないがゆえに、序列関係なり支配・被支配の構図にこだわってしまうことになる。 実に逆説的になりますが、言葉がいい加減な人ほど、支配を目指すことになる。 強圧的な方法による人に厳しい支配なり、何かを恵むことによる人に優しい支配なりのヴァリエーションはあっても、この手の人は、支配欲が強く、仕切りたがりの傾向を持っているもの。 合意を取ることができないがゆえに、命令と服従でのやり取りだけで済む支配関係の中でしか対処できないわけ。 それは、自分の信念を実現させたいという強い思いではなく、「てきとう」に発した自分の言葉に反論されたら怖いという恐怖心なんですね。 人の気持ちもわからないがゆえに、相手を支配下に置きたいという発想になってしまうわけ。 そんな視点を理解していると、民主党の鳩山さんの言動の軽さと支配欲も理解できるようになってくるでしょ? 彼の言動を見て、「言葉も軽く、責任感もない人が、どうして上の立場に立とうとするのか?」「彼自身に、特にやりたいことがあるようには見えないのに・・・」という疑問もあるでしょうが、逆に言うと、そんな人は上の立場に立たないと、誰からも相手にしてもらえないわけ。上の立場に立とうとするという点から見るのではなく、言葉による合意形成能力が不全となっていると見ると、実につながりよく理解できるわけです。 言葉へ信頼を持っていない人間に、「もっとワタシの言葉を信頼してよ!」「もっとアンタ自身の言葉に責任を持ってよ!」と説教してもムダ。言葉を信頼していない人は、そのような「空虚な言葉」が飛び交っているだけの日々という体験を経てきていて、その体験での常識を元にしている。そんな人がマトモな社会に参加するようにするには、まずはその元になった体験を、その人自身が考え直して見る必要があるわけ。 しかし、そのようなことができる人は、ほとんどいない。 言葉が軽いということは、現状認識がいい加減で、思考もいい加減ということ。 そんな人に対して、何を言っても理解されませんよ。 言葉が軽い人に対して、言葉で説明しても、軽くしか受け取らないということは、実に当然の論理の流れでしょ? 結局は、言葉が軽い人は、「ああ、アイツらはオレのことを全然わかっていない!」と『親譲り』の被害者意識に浸って、自己憐憫して、それで満足となったり、まさに、支配関係を構築すること、それ自体を目標とすることで、自分の原体験なり信念の問題から逃避することになる。 実際に、言葉の軽い人ほど、むやみに仕切りたがりだったりするものでしょ? つまり、仕切ることが目的化され、相手に伝えたいことが不在になっているんですね。 相手に伝えたいことがない人が、言葉に責任を持つわけがないでしょ? 言葉の軽さと、支配欲は、一見は違っているように見えるわけですが、合意形成能力や、合意を取るという意欲の欠如という観点から見ると、基本的には同じものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 ブチブチと文句ばかり言っている人間は、周囲の人がどんなことをしても、やっぱりブチブチ文句を言っているもの。一旦、周囲から「アイツは文句ばかり言っている人間」と見なされてしまうと、それ以降は何を言っても相手にされなくなっちゃうんですね。 ダメダメ家庭の子供は、親をそんな感じで認定してしまっているわけ。 そういえば、小泉首相が靖国神社に出かけて、またまた騒動になりました。 戦没者をあえて靖国神社と結びつける必要は私にはわかりません。新しい無宗教の施設を作った方が結局は安上がりでしょうね。まあ、小泉首相の年代なりの拘りがあるのかもしれませんが・・・ しかし、多くの日本人が、「新しい施設を作った方が面倒がなくてラク」と思っているのでは? そうなんですが、あんな風にヒステリックに反応されてしまうと、不快になるのも事実でしょう。それに、あんな対応は「いつものこと」ですしね。「あんな程度」の人たちと同じことは言いたくない・・・と思っちゃいますよね? あんな反応がなければ、もうすでに「新しい施設」ができちゃっていたのかもしれませんネ。現実って、案外そんなものでしょ?「北風と太陽」の例えって、いいところを突いているわけ。 |
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R.10/11/18 |