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カテゴリー 映像作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 05年10月28日
タイトル 歌う女、歌わない女(77年作品)
監督 アニエス・ヴァルダ
今週は女性に関することを、取り上げてきました。
今回はそのまとめとして、女性監督の映画作品を取り上げます。
フランスの女性監督、アニエス・ヴァルダさんの「歌う女、歌わない女」。77年の作品です。

アニエス・ヴァルダさんは、映画監督ジャック・ドゥミさんの妻です。ジャック・ドゥミは、カトリーヌ・ドヌーヴが主演したミュージカル映画「シェルブールの雨傘」の監督さんですね。またドゥミさんは日本の宝塚の「ベルサイユの薔薇」を映画化した際の監督さんでもあります。

芸術家同士の夫婦は結構あったりします。ただ、完全に同業者という例は意外に少ないわけ。映画業界だったら、映画監督の夫と、女優の妻の組み合わせはポピュラーですよね?似た例ですと、クラシック音楽の世界で指揮者の夫と、オペラ歌手の妻の組み合わせも多かったりするもの。しかし、完全に同業者の芸術家夫婦となると、ともに画家であるロベールとソニアのドローネー夫妻の例があったりしますが、このケースは夫のロベールは若くして死んでしまったので、結果的に長続きした夫婦とは言えないし・・・
完全な同業者の夫婦の例は、まあ、俳優夫婦の例が一番多いでしょう。

そもそも芸術家なんて種族は、神経過敏な人たちなんだから、長続きする関係は作りにくい。おまけに映画監督なんて連中は、「お山の大将」なんだから、共同作業なり、共同生活なりには、そもそも向かない連中。それに、俳優同士の夫婦なり、監督と女優の夫婦だったら、一緒に映画作品を作ることができますが、映画監督同士の夫婦だったら、一緒に映画を作るわけには行かない。仕事が同じであるがゆえに、共同で仕事をすることができないわけ。

それに、芸術家同士だったら、別の問題も出てきます。
「どっちが優秀な芸術家なのか?」という問題から避けては通れないわけ。
映画監督と女優の組み合わせだったら、「どっちが優秀か?」なんて問題は起きませんが、監督同士のような全く同じ芸術家だったら、「どっちが優秀か?」と比べてしまうでしょ?
残念ながら、「優秀でない方」は、「優秀な方」を前にして、「つらい」ことになりますよね?

夫であるジャック・ドゥミさんと、妻であるアニエス・ヴァルダさんで、「どっちが優秀な映画監督か?」なんて、言われたら、結論は決まっています、妻のアニエス・ヴァルダさんの方が頭3つくらい上。はっきり言って格が違う。そんなこと、本人たちが一番わかっていること。

夫婦なんだから、優秀とは言えないジャック・ドゥミさんだって、芸術家として自分より優秀なアニエス・ヴァルダを毎日見るハメになるわけ。これはつらいでしょ?単に「稼ぎ」の問題だったら、ドゥミさんも自分を納得させることができるでしょうが、芸術的力量の差となると簡単には納得することって、難しいでしょ?
そんな夫婦だったら、スグに離婚したのでは?

と、思ってしまうところですが、ドゥミさんとヴァルダさんの夫婦は長続きしました。ドゥミさんがお亡くなりになるまで、連れ添ったわけです。
もっとも困難な映画監督同士の夫婦で、どうして長続きしたの?
自分より遥かに優秀な妻を前にして、ドゥミさんは立派だねぇ・・・
確かに、そのようなドゥミさんは立派なんですが、そんなドゥミさんのような人を夫に選んだヴァルダさんは、中々の人と言うことでしょ?

ヴァルダさんだって、芸術的な力量ということで、ゴダールやトリュフォーやルイ・マルと結婚していたら、こんなに長続きしなかったでしょう。
ヴァルダさんは、自分自身についてちゃんとわかっていて、相手についてもちゃんと見えている人なんでしょうね。中々「したたかな」女性というわけです。

さてさて、今週は女性に関わるダメダメ家庭の問題を取り上げて来たわけですが、そのようなダメダメな境遇から、どのように脱却していくか?やっぱりそのことが重要でしょ?
実は、今回取り上げるヴァルダさんの「歌う女、歌わない女」という作品は、ダメダメ家庭出身の女性が、それなりの幸福を得るまでのストーリーなんですね。

と言うことで、芸術的に優秀で、実生活では「したたか」な女流監督のヴァルダさんの作品に従って、ダメダメ家庭出身の再生へのストーリーを見てみましょう。

この「歌う女、歌わない女」という映画は、「歌う女」ポリーヌと、「歌わない女」シュザンヌの2人の女性を中心に作品が進行していきます。その2人の女性の姿を通して女性の問題を提示しているわけ。

まずは、いつものようにこの映画で描かれているダメダメ家庭の具体的な項目を列挙し、その後でそのダメダメな環境から改善へ向かうための具体的項目を列挙いたします。

★ ダメダメの具体例
1. 不幸への親和性・・・「歌わない女」のシュザンヌは、妻のある男性ジェロームと同棲している。そのジェロームは、言わば「不幸を呼ぶ男」。不幸な女性の不幸な姿を写真に撮るカメラマン。その人は人の不幸に引き寄せられ、そして、その人自身が不幸を呼んでしまうわけ。ダメダメ家庭はこんな不幸への親和性があるものなんですね。

2. 未婚の母・・・そのシュザンヌの相手のジェロームには妻がいるので、シュザンヌは当然結婚できない。しかし、ジェロームとの間に2人の子供がいる。未婚の母はダメダメ家庭によくあるパターン。性道徳的の問題というより、「親としての条件」を考えずに、「て・き・と・う」に親になってしまうわけ。それだけ、その人の親が見本になっていないということなんですね。

3. 人生に疲れた顔・・・ダメダメ家庭は不幸な生活の中で人生に疲れてしまっている。そしてそれが顔に出るわけ。そんな疲れた顔で暮らしていたら、改善への意欲も出てこずに、ますます人生に疲れてしまうでしょ?最初のころのシュザンヌの顔がまさに人生に疲れた顔の典型。実際の年齢よりも遥かに老けて見えるわけ。

4. 名前の喪失・・・同棲していたジェロームが自殺した後で、子供を連れてとりあえず実家に戻るシュザンヌ。その実家では、シュザンヌの名前が呼ばれない。実家の親は自分の娘の名前も呼ばないし、孫の名前も呼ばない。家庭内から名前が消えてしまっているわけ。

5. 脱出を妨害・・・ダメダメ家庭の人間は、自分たち家族がいつまでもダメダメ仲間でいて欲しいと思っているわけ。マトモになって欲しくはないわけです。だからマトモになるべく必死の努力をしている娘を妨害するわけ。

6. 恋に恋する・・・「歌う女」の方のポリーヌは、さすが歌手だけあって、ちょっと直情的。異国の男性に燃え上がって、イランに行ってしまう。しかし、やがて離婚してしまう。国際結婚が悪いというわけではありませんが、一時の熱情だけでは、うまく行かないでしょ?しかし、ダメダメ家庭の人間は、結婚前に「この人と長くやっていけるか?」なんて、あまり考えないんですね。むしろ結婚してからウダウダと考えたりするわけ。

7. 当事者意識の欠如・・・望まない妊娠を避けるために、ピルを処方する。しかし、そのピルを飲まない女性もいたりするわけ。「どうして飲まないの?」と聞いても『なんとなく・・・』と気のない返事。かといって妊娠したいわけでもない。宗教的な規律を意識しているわけでもない。本当に『なんとなく・・・』なんですね。すべてにおいて当事者意識がないのは、ダメダメ人間のお約束。そして結果的に望まない妊娠をしてしまい、「亭主は非協力的だ!」と一方的に被害者意識に浸ることになる。すぐに被害者意識に浸って安心してしまうので、自分で出来ることもやらないわけ。「なんとなく」「て・き・と・う」で流れて生きているのは、まさにダメダメ家庭のお約束。

★ 改善へのステップ
1. 運・・・ダメダメ家庭出身者の再生の具体的項目に「運(ラッキー)」を上げるのは、実も蓋もありませんが、やっぱり「運」はどこかで必要なもの。このシュザンヌのケースでは、「内縁の夫」のジェロームの自殺がそれに当たるわけ。だって、そんな「不幸を呼ぶ男」といつまでも一緒に暮らしていたら、マトモにはなれませんよ。実際のダメダメ家庭出身者とやり取りをしても、「親が死んでくれて気分的にラクになった。」・・・と話す方が多くいらっしゃいます。「不幸を呼ぶ人間」や「幸福へ努力をしない人間」は、死んでくれることが周囲の人間にとって「いい契機」になるわけ。そんなラッキーも必要なんですね。

2. 実家のダメダメの自覚・・・「歌わない女」シュザンヌはジェロームの自殺の後で、子供を連れて実家に戻るわけですが、その自分の両親のダメダメ振りを改めて自覚することになるわけ。この自覚から、改善への意欲が生まれるわけです。あるいは、「歌う女」のポリーヌも、自分の両親の強圧的なところを自覚することから、実家を飛び出し、「自分でやっていこう!」と決意を持つことになる。自分の実家のダメダメ振りを自覚しないままだと、結局は、その親と同じようにグチっているだけなんですね。ダメダメからの脱却には自分の親のダメダメを自覚することが第一歩というわけです。

3. 周囲のスパイラル・・・シュザンヌは「こんな状態ではいけない!」と改善への努力を始めることになる。そんな努力する姿にマトモな人はサポートの手を差し伸べてくれるわけ。そしてそんな人と会話が始まっていく。そうなると、ますます改善への意欲が増し、周囲の人も手伝ってくれる。そうやって周囲の人とのマトモな方向へのスパイラルが進行するわけ。それに対しダメダメに安住している人間はグチばかり言っているので、グチに親和性の高いダメダメ人間が「一緒にグチを言い合おう!」と寄って来るもの。そうやってダメダメなスパイラルが進行するわけ。それに対し、マトモになるべく努力している人には、「一緒にガンバロウ!」と、同じような努力をしている人が寄ってくるわけです。

4. 家族のスパイラル・・・この映画にはちょっとしたシーンがあります。シュザンヌが子供とお出かけ。自転車で段差をあがろうとする際に、息子が自転車を押して助けてくれるわけ。母親が何も言わなくても、助けてくれる。普段から会話があるからこそ、「言わなくてもわかってくれる。」わけ。しかし、ダメダメ家庭は普段は何も会話がないのに、「家族なら言わなくてもわかるはずだ!」などと勝手に言っているもの。しかし、そんなわけはないでしょ?普段から頻繁に会話があるからこそ、ちょっとしたことは「言わなくてもわかる」わけでしょ?そのような状態になったら、やっぱり会話も弾みますよ。だからますます「言わなくてもわかる」わけ。

5. 顔のスパイラル・・・自分のやれることをやって、事態が好転してくると、やっぱり顔の表情もよくなる。「いい顔」をしている人の元には、やっぱりマトモな人間が寄ってくるもの。そんな人たちのとの会話が弾み、ますます「いい顔」になってくる。顔だってスパイラル的によくなっていくものなんですね。映画の最初の頃に、老け顔だったシュザンヌは、マトモになったら歳を取るごとにどんどん「いい顔」になっていくわけ。

6. 対抗心がない・・・往々にしてダメダメ家庭は強い対抗心を持っているもの。やたら「アンチ○○」なんですね。アニエス・ヴァルダさんは女性監督だけあって、女性問題の作品を多く作っています。しかし、そこには「男性に対する対抗心」はないわけ。ヴァルダさんは「女性の問題や困難さをひとつひとつ解決してこう!」そんなスタンスなんですね。そのことはダメダメ家庭の再生には必須。そもそも男性への対抗心を持っていたら、マトモな男性なんて寄ってきませんよ。それに女性にしても、何かと「アンチ○○」と言った対抗心の塊のような女性が寄ってくるだけでしょ?そんな人間と一緒にいてもマトモになれるわけがないでしょ?

7. 被害者意識がない・・・「歌わない女」シュザンヌも、「歌う女」ポリーヌも、ダメダメ家庭出身者。だから両親による被害者だと言えます。おまけに当時のフランスのある種封建的な雰囲気の被害者とも言えるわけ。ですが、彼女らは被害者意識を強く持っていない。「自分は被害者だ」と納得してしまうと、それで安心してしまって、もう何も改善への努力をしなくなるもの。被害者意識を持っている段階でマトモにはなれないわけ。

8. 反省する・・・彼女らは被害者意識を持たず、当事者意識を持っているので、自分の失敗は潔く認め、次のステップへの反省材料としています。シュザンヌもジェロームとの泥沼生活をちゃんと反省して、二度とあんなことにはならないように自戒している。だからこそ、次にはマトモな男性と結婚できるわけ。

9. 子供以外の世界を持っている・・・ダメダメな人間は、「子供のためにガマンする。」というお題目を掲げ、子供にまとわりつく例が多く見られます。子供以外に世界がないわけ。しかし、そんな親が子供とどんな話をするの?子供としても、親が、子供以外の世界を持っていることは必須なんですね。だからこそ子供だって親から色々と学べるわけでしょ?この映画でのシュザンヌもポリーヌも、子供以外に仕事を持っていて、社会に参加している。仕事云々は色々のケースがあるでしょうが、仕事に限らず親が子供以外の世界をもっているからこそ、社会との適切な関りを教えられるわけでしょ?

「歌う女」のポリーヌも、「歌わない女」のシュザンヌも、何も難しいことをやっているわけではありません。当事者意識をもって、「やれることをちゃんとやる。」そんな積み重ねなんですね。その結果、2人とも「それなりに」「満足がゆく」幸福に到達することができたわけ。

ちなみに、この映画では、「歌う女」のポリーヌと、「歌わない女」のシュザンヌの2人の女性を中心にストーリーが進行していきます。
「歌う女」ポリーヌは、楽天的で行動的で、歌手という芸術家。
それに対し、「歌わない女」のシュザンヌは、メランコリックで知的。

このような相違する2人のキャラクターと言うものは、芸術作品においては作者自身のキャラクターであることが通例です。作者のヴァルダさん自身、楽天的だったりメランコリックだったり、行動的だったり、知的だったりするわけでしょう。それを2人の女性に振り分けて物語にしたわけ。
両方ともダメダメ家庭の出身であるポリーヌとシュザンヌの会話は、そのままヴァルダさんの頭の中の会話というわけです。
ヴァルダさんは、それだけ、自分自身についてわかっている人なんでしょうね。

ダメダメ家庭は会話が不全の家庭です。家族の会話も重要ですが、自分自身との会話もやっぱり重要というわけです。
「自分は被害者だ!」なんて納得し、対抗心を膨らませている段階で、ダメダメに安住してしまっているわけです。
そんなクレーマーのような女性って、結構いるでしょ?
それで女性問題が改善した例なんてありませんよね?

自分が幸福になるためには、「自分ができることをやり」、「マトモな人間と結婚する」って、当たり前のこと。そんな簡単なことができないからダメダメ家庭になっちゃうわけ。まずは小さなことからでも始めれば、後はうまくスパイラル的に回っていきますよ。
この映画はそんな視点があるわけです。
だからヴァルダさんは、この映画を自分の娘に贈っているんでしょうね。

ヴァルダさんが自分の娘に贈った映画であるわけですが、折角ですから、皆さんも「おすそ分け」してもらえば非常に参考になると思います。
しょーもないフェミニズムの闘士などの意見とは、格が違うことが実によくわかるはずです。

(終了)
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発信後記

外国語に特化した高校で外国語を選択する際に、英語を除いて中国語が一番人気なんだそうです。そして今では韓国語がフランス語を抜いたそう。
別にいいんですが・・・

言葉って別に学問ではないんですから、「あの人と直接に話をしてみたい!」とか「あの作品を読んでみたい!」そんな動機がないと続かないでしょ?
韓国語を習得してどうするのかなぁ・・・
どんな人と話をしたいんだろう?
どんな作品を読んだり、見たりしたいんだろう?
そもそも韓国語を選択した高校生って、どんな人なんだろう?
そっちの面に興味があります。
中国語だったら、今の中国はダメダメですが、やっぱり以前の歴史的な作品は多くありますからね。勿論、ビジネスにも、それなりに有利でしょうが。

過去の偉大な文章を読むということなら、韓国語よりもむしろラテン語の方が重要でしょう。ルネッサンス期の文章って、まだまだラテン語が主流でしたからね。それぞれの国の言葉で作品が書かれたのは、かなり後になってから。それまではラテン語で書かれていました。

会社の人に言わせると、外国語の能力などは重要ではないとおっしゃります。その国の言葉が必要なら、その国に放り込んでしまえば済む話。イヤでも習得しますよ。
母国語での会話がちゃんとできる人なら、外国語での「会話」もそれなりにできるようになりますが、母国語での会話ができない人が外国語を習得しても、「会話」はできないでしょ?

小学校での英語の授業が始まるようですが、英語は教えることができても、「会話」は教えることができないものでしょ?そもそも教員は往々にして、会話ができない人間がなったりするもの。マトモに日本語会話ができない日本人から、英会話を学ぶなんてギャグですよ。
R.10/11/9