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カテゴリー | ダメダメ家庭の会話の雰囲気 |
配信日 | 05年11月25日 (10年7月9日,11年1月29日,11年2月18日 記述を追加) |
タイトル | 非難しているわけではないのに・・・ |
ダメダメ家庭は当事者意識がない。 自分自身で事態を認識し、考えるようなことはしない。権威筋から与えられた「ご高説」を、ただ、オウム返しに繰り返しているだけ。まあ、この言葉もほとんどテンプレート状態ですね。 それこそ、オウムのように繰り返しているくらい。トホホ・・・ まあ、それはそれとして、自分で考えずに「権威筋のご高説」を繰り返しているだけなので、別の人から、それまでとは「別の視点」を提示されても、対応のしようがない。 たとえば、「ボクはこのような問題をこんな感じで考えているんだ!」 「有名な○○先生も、そう言っているんだよ!」 という言葉に対し、 『ふーん・・・それはそれでいいとして、例えばその件について、このような観点を合わせて考えると、現時点でのその結論だって変わってくるのでは?』という回答が返って来たケースを考えて見ましょう。 まあ、よくある他愛のない会話ですよね? それまでの自分の考え方に加えて、指摘があった「別の視点」なり「別の観点」を含めて、自分で考えてみればいいだけでしょ? しかし、自分で考える習慣がない人間にしてみれば、そのようなことは大きな困惑をもたらすことになってしまう。 『別の視点も合わせて考えてみたら?』 などと言った、ちょっとした指摘にも対応できない。 別の視点を提示されると、今までの自分の考えや存在そのものが否定されたようにとらえてしまう。そして「オレの考えを非難するのか?!」と逆上する。 逆上することによって、まさに「我を忘れる状態」に到達し、自分自身で考えることから逃避してしまう。 しかし、「別の視点も、取り入れてみたら?」なんて言葉は、非難でも何でもないでしょ?もっと多くの視点を取り入れることによって、自分自身の考え方も豊かになるものでしょ?しかし、自分で考えることをしない人間にしてみれば、と言うよりも、特定の考えによって、自分自身を「縛る」ことによって自己逃避していた人間にしてみれば、それまで自分が信じ、従ってきた考え以外は受け入れることができない。今までの安定が揺らぎかねない「新しい視点」は、自分自身を否定するものと受け取るわけです。 一つの方向からだけ光を当てると、影ができるでしょ? 一つの方向からだけ見ると、見えない部分も出てくるでしょ? だから、多方面から光を当て、多方面から対象を見た方が正確に認識できるじゃないの? 何かを達成するためには、まずは正確な現状認識が必要でしょ? しかし、ダメダメ人間は、自分自身で達成したいものがない。何かを否定するしか能がない。 だから、肯定的なスタイルでは自分を語れない。 自身がそんな否定的な人間なので、自分以外の人間も、否定ばかりしていると考えてしまって、ちょっとでも自分と違った発想だと、自分を否定しようとしていると思ってしまう。 しかし、その人を「否定」する視点ではなく、単に「別の」視点のケースだってあるわけでしょ? このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、基本的に「視点の提示」を意図しています。意見を提示しているわけではないんです。だって、家庭の問題は、その家庭の当事者が自分で考えないとダメでしょ? 他人の意見を盲目的に取り入れても、「ああ、やっぱりダメだったわ!」となることは誰だって分かることですよね? 私としては、ご自身の家庭を考えるに当たっての、「見過ごされがちな視点」を提示しているだけなんです。その視点を頭に入れて、自分で家族を見つめればいいだけ。そんなに難しいことを言っているわけではありませんヨ。 以前にちょっと書きましたが、ロシアの文豪トルストイは晩年の作品である「復活」という小説について、周囲から『非難』を受けた際に、「この小説をどうとらえようとアンタ達の勝手だよ。ワシはこの小説を読むことで福音書(まあ、新約聖書です)を、虚心に読むきっかけになればそれでいいんじゃ!」と言ったそう。私もまあ、トルストイと似たようなものです。 しかし、虚心に福音書を読むことが難しいように、虚心に自分の家庭の問題を考えることは難しい。多くの人間は権威筋の「ご高説」のフィルターを通してしか見ないもの。 だって、それだったら自分で考えないで済みますからね。 だからこそ、「自分自身で考えたら?」などと言われちゃうと、むしろ逆上してしまう。 たとえば、かなり以前にこのメールマガジンで大阪の問題に触れたことがあります。あの文章では、大阪というダメダメのメッカについて考えるに当たっての「視点」を提示したわけです。あの文章は視点の提示であって、非難ではありません。だって私個人は大阪がどうなろうと、知ったことじゃありませんモノね。わざわざ「非難」なんて、しませんよ。 しかし、「大阪を非難した。」と受け取っていらっしゃった方も、やっぱり、いました。 そんな人は、「じゃあ、アナタは大阪での家庭問題の多発をどう思うの?どうして児童虐待が多く発生していると思うの?」なんて聞かれても、何も言えなかったり、ダメダメにお約束の言葉である「ふ・つ・う」で終わってしまう。 あるいは、このメールマガジンではボランティアの方々を取り上げることが多くありますが、決して非難しているわけではありません。一見、通りのいい活動の心理面を考える視点を提示しているだけです。 あるいは、韓国人だってそうでしょ? 日本人から、「この面も考えてみたら?」などと言った類の、ちょっとした指摘に対して、逆上するだけでしょ? 彼らは自分自身で考えることができないわけです。むしろ、自分で考えることから逃避しているわけです。 だって、自分で考えて、その結果が上手く行かなかったら、その結果責任を取らないといけないでしょ? 何かをやるにせよ、人に言われたから・・・そんな受身のスタンスに徹していれば、うまく行かない状況になったら、自分が被った被害ということにできますよ。 トラブルが発生しても「ああ!どうして、こんなことに?!」と、嘆いていればいいだけ。 自分で考えてしまったら、そんな嘆きを並べることができなくなってしまう。ヘタをすれば、周囲に人から「オマエが、その時に、ああ言ったからだ!」と犯人認定されてしまう。 だから、『自分自身で考えたら?』という指摘は、彼らにしてみれば、拷問に等しくなってしまう。 まさに「自分を追い詰めてくる」ように感じてしまう。 あるいは、周囲から見て、『ちょっとマズイのでは・・・』、と思われるような状態の家庭の人に対し『アンタはアンタなりには色々と考えているんでしょうが、もうちょっと子供のこんな面を考えてみたら?』とか、『今はともかく・・・将来も、このままで行くわけがないでしょ?』なんて言葉は、よく言ったりしますよね? しかし、自分で考えることをしないダメダメ人間は、そんなサジェストに対し「ワタシを非難するのか?!」「オマエは、オレの家庭を否定するのか?!」と、逆上してしまう。まあ、だからこそ、何も対処せずに、そのまま突っ走る。 そんな姿は、ダメダメ家庭の周囲では実にポピュラーな事例でしょ? 皆様の中でも、そんな困惑を体験した方もいらっしゃるのでは? あるいは、このメールマガジンでは、ちょっと話題になった人物なり事件なりを取り上げて考えたりすることもあります。まあ、芸能人さんたちが「面白いこと」をしたりしますよね? しかし、私は非難しているわけではありませんよ。 そんな「面白いこと」「困惑させられること」の背景にある精神状況なり心理状況に注目し、描写し、考察することによって、その元になっている考え方が、決して特殊なものではないことを指摘したいと考えているんです。 往々にして、我々自身にも、程度問題は別として、そんな心理が存在したりするものなんですね。 そんな問題点だって、程度が小さいうちに早めに自覚し、対処しておけば、大きな事件にならないでしょ? 皆様が『今はともかく・・・将来も、このままで行くわけがないでしょ?』と言ったりすることがあるように、私もそんなことを書いているだけなんですよ。 自分で認識し、考えることを恐怖し、逃避する人に限って、それまでとは違った視点に対して過敏な反応となってしまう。 逆に言うと、そんな過敏な反応は、「自分はコイツが言っていることを、受け入れないぞ!」と、自分自身に言い聞かせる儀式となっているわけです。 実は先日(10年7月5日)から、このサイトのトップページのカウンターがやたら回りました。多くのアクセスがある状態です。 まあ、たまにこのサイトを、インターネットの掲示板などで紹介される方もいらっしゃって、そんなことがあると、突然にアクセスが増えたりします。 もちろん、文章を読んでいただくために、このサイトを維持運営しているわけですから、アクセスが増えたことは結構なこと。 しかし、それでも普段とは、次元が違っている。 誰かが、インターネットの掲示板などで紹介して、アクセスが一時的に増えたといっても、まあ、1日に100を超えるくらいです。普段のアクセス数は70くらい。 そもそも、内容的に難しい面がある文章でしょうし、一つ一つの文章も長いわけですからね。 ところが、先日は1日で1000とか3000のアクセスがありました。 しかし、トップページ以外のアクセスカウンターはそれほど回っていない。 どうやら、トップページだけにアクセスしているようです。 まあ、インターネットの掲示板で紹介されたので、このサイトにやってくるパターンだったら、基本的にはその掲示板の住人だけでしょうから、これほどのアクセスはないでしょうし、別のアクセスカウンターも回るでしょう。 あるいは、読んで不快に思った方より、抗議のお便りもあるでしょう。 連絡用のアドレスだって表示してあるんですからね。 しかし、抗議のメールも来ていない。 たぶん、文章を読んでいないでしょうね。 はて? と、色々と考えてみたのですが、これが噂に聞く、F5アタックというものなのかぁ・・・と、思った次第です。 それだったら、トップページ以外のカウンターが回らないことも、文章を読んでいる様子がないことも、抗議のメールが来ないことも理解できる。 しかし、このサイトはInfoseek(10年当時)・・・つまり楽天が管理しているサーバーに置いてあるんだから、それなりに丈夫でしょう。サーバーとしては、私個人が管理しているわけではないんですからね。 その種の攻撃は意味がないのでは? このサイトの文章においては、韓国の問題を取り上げたりすることもあります。しかし、文章をお読みになられればお分かりでしょうが、いわゆる民族的な偏見を申し上げているわけではありません。 私は、基本的には、個人の尊厳に注目する人間です。 韓国の方々が、自分自身の尊厳の問題から目を逸らしている・・・その点を指摘しているだけです。 尊厳の問題となると、難しいことではなく、それこそ自分自身の目標を掲げ、その実現のために自分なりに努力していく・・・それでいいのでは? 自分自身を律しながら、目標達成のために努力する・・・そんな生活の積み重ねが尊厳につながるのでは?言葉で書くと大層なことと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなことは小学生でもできることですよ。 しかし、自己逃避が進行してしまうと、「自分の目標」を掲げることができなくなってしまう。まさにエーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」の中で記すように、「○○からの自由」を持っても、「○○をする自由」から逃避してしまう。 「○○からの自由」に逃げ込んでしまうので、どうしても犯人探しなり、犯人認定行為が多発することになる。 だから、「つるし上げ」のようなことが起こりやすい。 F5アタックなんて、まさに絵に描いたような「つるし上げ」でしょ? 日頃から自分の尊厳に配慮していれば、人からの指摘に対しても、落ち着いた対応も取れるでしょ? だって「先ほどのキミからの指摘なんだけど、自分はこんな目標があって、こんな現状認識をして、だから、今はこんなことをしているんだよ。」「アナタのその見解は、このような事態が発生した時に、参考にしようかな?」と言えば済むだけ。 逆に言うと、そんな簡単なことができないがゆえに、「アイツはオレたちを非難するのか?」と逆上し、「悪いのは全部○○のせいなんだ!」と犯人認定行為に逃げ込まざるを得ない。 抑圧的なダメダメ人間は、周囲からの評価を過剰に気にすることになる。 指摘というものは、あくまで指摘であって、固定的な評価ではないでしょ? しかし、抑圧的な人間は、指摘を受けて自分で対処するという発想自体を持っていないので、どうしても固定的に考えてしまう。だから、何事も評価という形で受け取りやすい。 そして、その評価が否定的に見なせるものだったら、「非難」と受け取ることになる。 やり取りをした側は、ちょっとした指摘のつもりが、「非難」と受け取られ、過剰に反発を受けてしまう。 たとえば、この文章をお読みになっておられる方は、たぶん、お尻から尻尾は生えていないでしょう。だから、この私が「アナタは尻尾がない。」と言ったらどうなるの? 『えっ?ホントだ!ワタシは尻尾がないぞ!どうしよう!ああ!この人はこのワタシを非難しているぞ!』なんてリアクションを取るの?そんなリアクションはヘンでしょ? 指摘は指摘であり、それが評価と直結するものではありませんよ。 しかし、評価に対して異常にこだわるダメダメ人間は、ちょっとした指摘も評価の観点でみることになる。だから、予想外の指摘なり、ちょっとでも否定的な指摘だと、「ワタシを非難している!」と大騒ぎすることになる。実際に、そんな人は多いでしょ? 逆に言うと、その大騒ぎによって、その人が、当事者意識がなく、他者からの評価に依存していることも見えてくるわけです。 その物言いに「非難」と言う言葉が頻発する人は、往々にして、逆上しやすいもの。 その指摘がその人と直接的に関係のないものに対してであっても、物事を固定的にとらえる人は、評価という形で認識しやすい。 その評価として、非難という否定的な評価になったり、あるいは、別の肯定的な評価となったりする。 しかし、重要なことは、自身の判断につなげていくことでしょ? それこそ、私はボランティアの方々や韓国の方々を非難しているわけではなく、考えるための視点であり、「距離の取り方」の視点を提示しているだけです。 非難という名目で、距離を縮めることと、賛同という名目で、距離を縮めることは、私の観点では同じなんですよ。 問題点が多ければ距離を取り、賛同すれば、一緒にやっていく・・・それが適切なアクションなのでは?問題が多いのに、距離を縮めようとしたら、それは某かの心理的な問題があるわけです。 もちろん、そのようなことの最たるものが親との距離です。 非難するという名目で、いつまでも関わっている人も多いでしょ? まさに「反面教師としている。」とかの言葉を持ち出し、いつまでもダメダメな親を見続けることになる。 しかし、親がダメダメだったら、距離を取るという対応が最善でしょ? 逆に言うと、「非難」という言葉は、否定している対象に、わざわざ近づく人がよく使う言葉なんですね。 しかし、ダメダメ人間は評価にはこだわっても、自分のアクションにはいかさない。 それだけ、自分で考えることができず、他者からの評価に依存してしまっているわけです。 皆様も、ちょっと注意してみてみては? そうすれば、早めに避難できますからね。 (終了) *************************************************** 発信後記 例の建築士の構造設計偽造事件の騒ぎが、ますます大きくなってきています。 確かに色々とコストダウンの必要もあるんでしょう。 しかし、いい素材を使って、丁寧に作るとそれなりにコストもかかるもの。 異常に安いものって、それなりの「わけ」があるものなんですね。 食料品などの表示を見ても、異常に安いものは、原材料は日本の○○県産、販売会社も日本の「△△物産」と表示してあっても、製造会社の表示がどこを探してもなかったりするわけ。 そこまで製造会社を隠す必要があるってことは、相当にヤバイところで作っているんでしょうね。 ダメダメって、「何を言っているのか?」よりも、「何を言っていないのか?」から多くの情報が得られるものです。 ダメダメ家庭も、ダメダメ食品も、その点では全く同じというわけ。 |
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R.11/2/18 |