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カテゴリー ダメダメ家庭の顔
配信日 05年12月19日
タイトル 幸薄い顔
「ワタシって、そんなに幸薄い顔をしているのかなぁ・・・」
そんな返事をもらったことがあります。

この私が「アナタの顔って、あのサイババの元に修行に行ったりした、あの女流棋士の顔に似ているよねぇ・・・」と、とある女性に言った時でした。
あの女流棋士さんについては、以前にも触れたことがありますが、はっきり言って容姿端麗な人ですよね?写真集だって出したことがあったはず。「あの女性の顔に似ている。」と言われたら喜んでもいいはずなのに、「あんな幸薄い顔と似ているなんて・・・」と言われちゃうとは!
しかし、「幸薄い顔」って、いい表現だ!見事としか言いようがない。

こんなメールマガジンを、なんと週3回のペースで発行している私なので、言葉を使いこなすレヴェルは一般の人よりはるかに上でしょう。しかしたまに、一般の方?が使う言葉に「うまいなぁ!」と感嘆させられることもあります。

このメールマガジンへお便りをいただいて、「アナタも何か書いてみたら?」と私がお返事をしたのですが、「ワタシはアナタのような言葉がジャブジャブ出てくる人間じゃないので・・・」という返事をいただき、その言葉に感心したことがあります。
「言葉がジャブジャブ」かぁ・・・いやぁ・・・いい言葉使いだ!

いい言葉使いというものは、単に上品とか的確という意味ではなく、その言葉の「生命」を生き返らせているような言葉使い。
たとえば、以前にもちょっと触れたシャンソン歌手のエディット・ピアフが書いた歌詞に詩人のジャン・コクトーが感嘆したという話があります。コクトーはきっとピアフの歌詞に言葉の生命を感じたのでしょうね。

話が飛んでしまいましたが、「幸薄い顔」という表現は実にいい表現。
では、「幸薄い顔」と言われて、皆さんはどんな顔を思い浮かべますか?
顔の中で一番重要なパーツは言うまでもなく「瞳」でしょう。
「幸薄い顔」は、「幸を求める顔」。そして「愛を求める顔」それは「愛を求める瞳」。
そう言うことでしょ?

あの女流棋士さんの瞳は、まさに「愛を求める瞳」でしたよね?
愛を求め、インドのサイババの元に行ったり、妻子ある棋士の愛人になったりしたわけ。しかし、愛を求めるのはいいとして、愛を求める気持ちが強すぎると、どうしても焦ってしまう。とんでもないものに「食いついて」しまうことが多いわけ。

それに、ダメダメ家庭出身者は自分から逃げている人が多い。それこそ、インドまで自分探しに出かけるハメになってしまう。そんな人は、結局は自分自身の希望がわかっていないわけ。
愛を求めるのはいいとして、「どんな愛を求めているのか?」「どんな相手がほしいのか?」「どんな安らぎがほしいのか?」
そのようなことは自分と向き合わないとダメですよね?
そうなると、自分の出身家庭の問題と向き合わないといけないわけ。
だって、人間にとっての、「愛の原体験」は、本来は自分の出身家庭で行うものでしょ?
その「愛の原体験」を、ふまえて、自分なりの愛に向き合って行くわけでしょ?
そこでコケていたら、その後もコケますよ。
じゃあ、自分の子供時代における親からの愛情はどんなものだったの?

頻繁に書いていますが、ダメダメ家庭を作る親には被害者意識がある。子育てを親の被害ととらえているわけ。だから「いったい誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ!?」と常に子供にグチっている状態。
そんなダメな家庭で育ったからこそ、実家の問題はアンタッチャブルになってしまう。
自分が一番よく知っている他者といえる親がアンタッチャブルになってしまうので、結局は、自分自身の問題もじっくり考えることができずに、スグに視点を外にそらしてしまう。
だから、自分自身のことが何もわからないまま。
自分で自分がわかっていないものだから、「本当の自分はこんなものじゃない!」「ワタシの相手はこんな人じゃない!」と常に否定形。
愛を切実に求めるがゆえに、どんどんと自分とは無縁な方向に突っ走ってしまう。だからどうしても行動が突拍子もないものに・・・

そんな人をマトモな人は相手にするわけもなく・・・
幸の薄い人は、切実に「幸を求め」、ますます幸が薄くなるわけ。
そして幸が薄い顔の人は、ますます幸が薄い顔になって行くわけ。

実際に「ワタシって、そんなに幸薄い顔をしているのかなぁ・・・」と言った女性ですが、やっぱりそんな状態なんですね。
会話の能力のない男性と義理でお見合いしたら、相手がやけに積極的だったこともあったそう。
会話の能力のない男性は、「人に合わせすぎる」傾向を持っているダメダメ家庭出身者の女性と結婚したがることは以前に配信しております。だって、「会話の能力のない自分であっても、この女性なら合わせてくれる!」そう思っているわけ。しかし、そんな男性と結婚しても上手く行くわけがありませんよね?

幸が薄い顔のままだと、やっぱり幸が薄いまま。周囲の人だって、やっぱり「心の余裕」を感じさせてくれる顔の方が落ち着けるでしょ?マトモな人は、「余裕ある」顔の人に向かいますよ。

ちなみに、今回の「幸薄い」顔となると、まさに目というか瞳が最重要な要素と言えるわけですが、マンガとかアニメだと、また別の要素を使うことがあります。
前髪が、なんとなく顔に垂れ下がっている顔です。
皆様もそんな人物描写を見たことがあるのでは?
少なくともフィクションの世界では、そんな前髪の人で、心豊かで現状を満足している人はいないでしょ?
瞳による幸の薄さは、「愛を求める」ニュアンスが強くなるのに対し、前髪による「幸の薄さ」が漠然とした不満に近いのでは?そして、その漠然とした不満が、不幸を呼び込んでしまう。だから、ますます幸が薄くなる。

「人間は顔じゃない!」なんて言われますが、顔も重要な情報源なんですね。鏡を見て自分自身の顔と向き合うのも、決して虚栄ではないわけ。いい顔になるために努力するのも重要なこと。そのためには自分自身の内面と向き合うことが第一というわけです。

(終了)
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発信後記

本文中にも書いていますが、一般の方?も結構「いい表現」をしていたりするもの。ただ、そのことを自分自身でも気がついていないわけ。文章を書きなれている人は、「表現」を意識的に使いこなすことができるものなんですね。

前回ちょっと触れましたが、松尾芭蕉の俳句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」なんですが、芭蕉はさすがプロ。実に上手い。
たとえば最初の「行く春や」ですが、季節的には初夏でしょ?だったら「来る夏や」でもいいわけ。あるいは「春行くや」でもいいわけでしょ?
しかし、夏という言葉を使うと、生命感が出てきてしまって、辞世の旅路への出発という趣が消失してしまう。辞世の旅の出発なので、「行く」という言葉を冒頭に持ってきているんでしょうね。

「行く」という言葉は、「出発」に通じ、勿論、「逝く」という辞世の覚悟にも通じているわけ。
生命感が衰えて、辞世の旅となると、本来は「行く春」よりも「行く秋」の方がマッチするんでしょうが、秋に江戸を出発すると、冬に東北地方を旅することになって、これは芸術云々以前に、実際的に不可能。

あと「鳥啼き」ですが、なぜにここで鳥の鳴き声なの?犬でもネコでもいいわけでしょ?
たぶん、芭蕉は、ここで鋭角的な音響がほしかったんでしょうね。と同時に位置的な高さ。
そして「魚の目に泪」ですが、本来「泪」を持ってくるのなら、魚などは一般的ではありません。
どうして魚なんかもって来たの?
魚を食べると頭がよくなるから?

ここで魚を持ってきたのは、魚は音響と関連が少なく静寂に通じている点と、位置的な低さでしょうね。
鳥の位置的な高さと、魚の位置的な低さによって広々とした空間性を作り出し、魚の静寂のトーンを打ち破る、鳥の鋭角的な響き。その音響が余韻に通じ、作者の心を表しているわけ。
音響によって、静寂を表したり、空間性を強調する手法は、絵画においてはオランダのフェルメールが典型的ですね。フェルメールが活躍した時代と、芭蕉が活躍した時代は20年くらいしか差がありません。洋の東西や、ジャンルは違っていても、同時代の天才は似通っていたりするもの。

ちなみに、芭蕉の俳句の言葉を少しずつ変えていくと、全然違ったものになったりします。

それこそ、「行く春や」を、同じ初夏ということで「夏来るや」に変える。
そして、「鳥啼き」を「鳥鳴き」という一般的な漢字に変える。
泪を流しているのを、魚から、より一般的な存在である犬に変える。
すると、「夏来るや 鳥鳴き犬の目は泪」となる。描かれていた情景はほとんど変更はないでしょ?しかし、解釈すると「夏が来た!鳥は声を上げて喜んでいるが、犬は花粉症で涙を流している。」と言った感じになってしまう。

もう少し変更を加えると、鳴いているのを、鳥ではなくもっと鳴き声が印象的な動物にする。涙を流しているのも、より涙がおなじみの動物に変更する。
すると「夏来るや ネコ鳴き亀の目は泪」となる。
解釈すると、「夏が来た!恋の季節だ!ネコは相手を求めて鳴いている。カメは涙を流して出産している。」となる。
もはや辞世の旅どころではなく、東北にナンパ旅行に行きそうな勢い。

同じ季節をどう表現するのか?何を登場させるのか?言葉の順番はどうする?どんな種類の音響を持ってくるのか?作者というものは色々と自由度があるもの。作品に接して「感動しました!泣きました!」はいいとして、作品を多方面から考えて見ると、作者の意図も見えてくるわけ。そこから、受け手の思考も広がって行くわけです。
作品に接して「鳴いたり」「泣いたり」するだけだったら、鳥や魚と変わりませんよ。
R.10/11/28