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カテゴリー 会話のスタイル(発言側)
配信日 06年1月13日 (10年8月7日,10年11月24日 記述を追加)
タイトル 最初の自己紹介 (紹介するということ)
自分自身をちゃんと紹介し、説明できるか?
そのような的確な自己紹介は、人間として最低限の基本であり、そして会話の出発点ですよね?

ダメダメな人間は、まずもって、そのことができていないわけ。
こんなことを書くと、このメールマガジンを購読されておられる方は、こうおっしゃりたいでしょ?
「アンタ自身はどうなの?このメールマガジンの発行者の自己紹介がないじゃないの?」
この点はまさにおっしゃるとおり。

まあ、このメールマガジンは、「ヤバゲ」な文章を多く書いていますから、色々とセキュリティ上の差しさわりがあるのも事実。
毒にも薬にもならない文章なんて、書いたり配信するだけ無意味ですよ。
私としては、文章を配信しているのであって、文章の紹介はいつもメールマガジンの冒頭に載せてあります。

そこからの文章を受け入れるのも、否定するのも購読者さんのご自由です。私としては、「購読者自身が考える視点を提示したい。」・・・そんなスタンスです。
その文章が、イヤなら購読解除すればいいだけ。
最後に、クレームのあて先のメールアドレスも載せていますしね。

私からの紹介としてはそんなところです。
文章を配信しているのであって、作者を配信しているのではありませんからね。

さてさて、まあ、購読者の方々にしてみれば色々とご意見もあるでしょうが、メールマガジンだったら、そんな方法もあるでしょう。
何回も書いていますが、購読を解除する自由や権利があるわけですからね。

さて、このメールマガジンの趣旨であるダメダメ家庭の問題を考える際に、やっぱりダメダメ家庭の問題が頻発する業界があったりするわけ。代表的な例はやっぱり芸能界でしょう。そもそも芸能人はダメダメ家庭出身者には適した職業といえます。だからダメダメ家庭出身者が集まり、ダメダメな事件を繰り返すことになる。それこそ、離婚だの不倫だのと忙しそう。まあ、カタギの人に迷惑を掛けなければ、別に何やってもいいじゃないの?
その他の分野としては、よく触れたりしていますが、政治家だったり、教員だったり、マスコミだったりも、ダメダメ家庭出身者が多そう。
この手の家庭の出身者の子息が、事件を起こしたり、巻き込まれたりする例って多いでしょ?

まあ、一般の人間にとって、政治家とかマスコミなんて、接触する機会はそんなにあるわけではありません。しかし、教員となると、否が応でも接触した経験があるでしょう。教員がダメダメな場合には、芸能人と違ってカタギの人にも迷惑が掛かってしまう。どうしても早めに見極める必要があるわけです。

ちょっと思い出してみると、最初にあげた適切な自己紹介と教員は結びつきにくいものでしょ?ちゃんと自己紹介できる教員って、滅多にいませんよね?

何も「○○大学を卒業した。」なんてことは言わなくてもいいでしょうが、クラスの担任になった場合には、
「どうして教員になったのか?」
「クラスの運営はどうしたいのか?」
「過去の経験なり実績は?」
そして「困った時の連絡先は?」

それくらいは、子供や保護者に対して言っておいてもいいんじゃないの?
紙一枚で十分ですからね。
そんな自己紹介もできないような人間だったら、教員失格以前に社会人失格でしょ?
そんな社会人失格の人間が子供を教えちゃいけないでしょ?

メールマガジンだったら、イヤなら購読解除すればいいだけ。
しかし、クラス担任だったら、イヤだと言ってもリコールするわけにもいかない。だから担任の側から、出せる情報は出して会話の糸口を作っておかないとね。少なくとも、困った時の連絡先くらいは、言っておかないとダメでしょ?
21世紀の今だったら、それこそ、携帯電話でもメールでの連絡もあるわけですからね。
そんな簡単なこともしないで、何か事件が起こった後で「あの子が困っていたことは知らなかった。」なんてバカですよ。

クラス通信といった類の文章を毎週配信すれば、そんな自己紹介などしなくてもいいのでしょうが、そっちの方がタイヘンですよ。そもそも、そんな文章力のある人が教員などにはならないでしょ?それよりも、「困った時はここに連絡してね!」って、最初に言っておいた方がラクでしょ?どうして、そんなこともできないの?

教員というものは、往々にして同格の人と会話ができないからなったりするもの。ダメダメ家庭の特徴としてよく出てくる序列意識や権威主義を強く持っている例が多いんですね。理想論はともかく現実はそんなものでしょ?
だから会話になりそうなシチュエーションを回避しようとするわけ。命令と服従という関係性に常に頼ろうとするわけ。

皆さまの子供の担任の教員について考える際に、最初にどんな自己紹介したか?それだけでも結構わかるものです。後になって事件が起こって大騒ぎする前に、事前に手を打つことだってできるわけ。まあ、最初に自己紹介もできないような人と、会話が発展するわけがない・・・こんなこと当たり前のことですよね。

何も学校の教員の例ばかりではなく、それこそ地域の自治組織でもそのような事例は起こったりするもの。
イヤなら参加しないということが実質的に保証されているのだったら、指導者の自己紹介は必要ありませんが、実質的な強制参加だったら、指導者の自己紹介は不可欠でしょ?
特に重要なことは、問い合わせ先というか、問題点の指摘をする先を明示すること。

参加者の意向を上手にくみ取っていけば、その組織も円滑に運営されるでしょうし、聞く耳持たないという態度だったら、まあ、モメますよ。
そもそも、参加者を押さえつけるような運営をしている地域組織で防犯活動などをやるよりも、身近な人間の声をしっかりくみ取って行った方が、防犯につながるのでは?

そもそも、参加者を抑えつけるような運営をしていれば、地域の人間も不満がたまるわけで、それこそが犯罪の引き金ですよ。人からの注意点なり問題点の指摘は、本来は価値があるものですよ。それこそ問題が小さいうちに対処すれば、大きな事件にならないで済むわけですからね。

しかし、説明能力に自信がない人間なり、知的コンプレックスを持っている人間は、問い合わせ先を明示せず、一方的に命令するだけになってしまう。自分の説明に自信がないので、説明するシチュエーションそのものを回避しようとするわけ。
しかし、そんな態度だからこそ、呆れられてしまうことになる。
説明とか紹介においては、ボキャブラリーなり論理の組み立てなどの知識レヴェルが低くても構わないわけですが、その人なりの信念と、相手の意向をくみ取る意向を示すことが必要になるわけ。

何度も書きますが、参加しない自由が実質的に保証されている組織だったら、指導者が自由勝手に運営すればいいだけ。そんな運営になじむ人同士で一緒にやればいいだけですよ。
しかし、強制参加だったら、参加者の意向をくみ取るシステムを整備する必要があるわけで、そのための第一段階として、最初の自己紹介において、問い合わせ先を明示することは必須なんですね。
そして、そんなこともできないような人間がやっている組織は、ちょっとしたトラブルがあっても、どんどんと先送りしてしまって、外部に対しては、「ワタシたちは上手くいっている!」と豪語することになる。これでは北朝鮮ですよ。

学校の運営においても、地域の自治組織の運営においても、聞く耳を示すことが必要でしょ?最初の自己紹介においては、その点を示さないとね。

紹介というのは、自己紹介に限らず、意外と難しいもの。
別のところで書いていますが、ダメダメ家庭の人間は「他者というものを心理的に認識できない」わけ。紹介というものは、他者に対して行うものでしょ?
つまり、紹介という行為は、その表現の巧緻の問題以前に、対象となるものを、どのように認識しているのかと言う点が重要な問題になるわけです。

たとえば、自分の知人を、別の人に紹介するという状況を想定してみましょう。
その場合には、「この人は、○○さんという名前です。こんなことをやっていて、ワタシとは、△△の機会で知り合い、それ以降、懇意にしてもらっている・・・」とかのスタイルになるのが一般的なのでは?
あるいは、「この人は、こんなことが得意で、ワタシはいつもお世話になっているのよ!アナタも、そんな面で困ったことがあったら、この人に相談すると助けてくれるよ。」そんな紹介だったら、紹介を受けた人も非常にわかりやすいでしょ?

逆に、「この人って、すっごくいい人なのよ!」・・・なんて紹介だったら、『具体的にはどんな人なの?』『じゃあ、どうすればいいの?』となってしまうもの。
現実的には、紹介の文句として「すっごくいい人」という言葉しか出てこないという点において、紹介によって説明された人物よりも、間に立って、紹介してくれた人を、「うーん・・・」となってしまうものでしょ?

紹介する対象としては、紹介を受ける側が知りたそうな情報を、提供していく必要があるでしょ?それこそ、「どんな分野が得意で、関心を持っている人なのかな?」という視点で人を見たりする人に対して「この○○さんは、バスト★★cm、ウェスト☆☆cm、ヒップ□□cm・・・」と紹介しても、「なんじゃ、それ?」と思われるだけですよ。
これがモデルさんとしての紹介だったら、そんなパターンの紹介の方が適切といえるでしょ?
適切な紹介ができるということは、やり取りの目的もちゃんと認識しているということ。
その紹介によって築かれた新たな関係が、結果的に不調に終わっても、そんな適切な紹介ができる人だったら、安心でしょ?

紹介となると、新たに登場した人物を紹介するパターンだけでなく、それこそ映画とか小説などの作品を紹介するようなパターンもありますよね?

よく、映画などにおいて、「泣きました!みんなも見てください!」なる紹介の文言があるようですが、そんな文言を受けても知的な人は馬鹿にするだけですよ。
しかし、逆に言うと、そんなスタイルの紹介でないと受け入れない人もいるわけ。
それこそ、人物を紹介する際に「すっごくいい人よ!」としか言えないようなパターンもあるわけですしね。

この「ダメダメ家庭の目次録」のサイトには、映画や文芸作品などの他者の作品を紹介した文章があります。
発行者の私が紹介の文章を書いたものもありますし、購読者さんが投稿した文章もあります。
適切な形で作品を紹介することは、それほど簡単なものではないんですよ。

たとえば、小説を紹介する際にも、まあ、常識的な方法としては、作者について言及して、その小説の簡単なあらすじを記述していく・・・そして、その中から、テーマを抽出してく・・・そんな記述のパターンとなるでしょう。

紹介を受ける側としては、ある種の客観性を持った説明のスタイルで説明してくれないと、紹介とはならないでしょ?作者についても、作品の概要についても、客観的にまとめることができれば、適切な紹介といえるでしょ?

まあ、この私が作品などを紹介するパターンは、一般的なパターンとは違っていて、作者の問題意識を掘り起こしていき、そして、その問題意識や、作品で使った手法から、作品を再構成していく・・・そんなスタイルをとっています。
ちなみに、そんなスタイルは、音楽の作曲家が、別の日とが作曲した音楽を演奏する時には、よくやっているスタイルといえます。しかし、逆に言うと、演奏専業の人は、そんな視点では演奏しないもの。

音楽の演奏において、あるいは、作品の紹介において、外からの視点による説明か、それとも内からの再構成か、どちらがよくて、どちらが悪いというものではありません。
重要なことは、その紹介の説明に、ある種の客観性を持っていること。つまり、紹介の対象者について、ちゃんと考えた上での紹介であること。
作品を伝え、紹介するに当たっては、個人としての主観的な感想には意味はなく、客観的な構築を志向する必要があるでしょ?
紹介してくれた人が感じている、「すばらしい!」とか「面白い!」といった感想を直接的に伝えるのではなく、紹介の対象者が「この人やこの作品は、おもしろそうだな。」と思うように紹介しないとね。

インターネット上などにおいて、よく作品のレビューが載っていますが、まあ、個人的な感想を列挙しただけのものが多い。
個人的な感想を持つのは当然として、それを公表するということは、本来は、ある種の「紹介」に近い発想が必要でしょ?個人の日記ではなく、インターネット上にコメントを掲載するということは、「他者」に読んで欲しいからでしょ?だから、その「他者」を意識した文章にしないとね。

「おもしろかった。」とか「期待していたが裏切られた。」とか・・・
そんなことを一生懸命に書きこんでも、何になるの?
何をわかってほしくて、そんな文章を書き込んだの?
そんな個人的な感想を読んだ側は、何を思えばいいの?

まあ、レビューというものは、そんな個人的な感想を書けばいいのかもしれません。
しかし、紹介文だったら読む気にもなりますが、個人的な感想などは読む気にはなれませんし、ある意味において、そんな個人的な心情などは、一種のプライヴァシーでしょ?
むしろ、読まない方がいいのでは?
しかし、そんなものを、わざわざ読む人もいますよね?

ダメダメ人間の周囲には同類のダメダメばかり。
客観と言うものが心理的に認識できないダメダメ人間の周囲も、やっぱり客観というものが心理的に理解できない同類ばかりとなってしまう。
そんな人が、客観性を持った紹介などはできませんし、言われたり、書かれたりしても、理解できませんよ。

芸術作品を紹介できないくらいなら、大したことはないわけですが、適切に紹介できないという様相から、その根底にある「他者というものを心理的に認識できない」ことにも目を向けていく必要があるわけです。
自分自身でも、別の人間でも、作品でも、それを誰かに紹介するということは、他者についての認識なり、そんなやり取りの積み重ねがないとできないことですし、ちょっとした紹介によって、そんな背景が見えてくるわけです。

(終了)
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発信後記

ちなみに、「イヤなら止めればいい」というものと、「イヤでも続けなくてはならない」ものは、一緒には扱えませんよね?
「イヤなら止めればいい」ものは、あまり受け手に配慮すること自体が、受け手に失礼だと、私は、思っています。
受け手の判断能力を信じない状態だったら、何も書けませんよ。

私がいささか強烈な表現をしたりしているのは、購読者さんが「イヤなら購読を止める」くらいの判断能力は当然ある・・・と、思っていることが前提になっているわけです。

何も文章の問題に限らず、受け手や消費者への配慮などを言ったりする人がいますが、イヤなら消費しなければいいだけ。ヘタをすると「ワタシはバカだから、アンタの方で配慮してよ!」なんて理屈になってしまう。あまり発し手の側が配慮しすぎるのは問題なんですね。勿論、判断するための情報開示が必要というわけ。

人を判断するためには、その人の自己紹介が必要ですし、
文章を判断するには、文章の挨拶があった方がラク。
まあ、このメールマガジンの場合は、文章自体の量がそれ自体で膨大になってしまって・・・もう350本以上配信しているので、1本を読むのに5分としても、合計して約30時間掛かってしまう・・・トホホ・・・
挨拶と言っても、これ以上何を言うのかな?
R.10/11/24