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カテゴリー ダメダメ家庭の序列意識
配信日 06年1月25日 (10年11月19日 記述を追加)
タイトル 序列のための努力 (威張るための努力、大きく見せたい!)
映画や小説には、よく似ているストーリーの作品があったりします。あの有名な映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の監督のジュゼッペ・トルナトーレさんには「教授と呼ばれた男」という86年制作の作品があります。「ニュー・シネマ・パラダイス」の前作にあたります。

極貧の家庭に育った少年が、その智謀と度胸を生かして頂点に上り詰める。栄光の頂点で、慢心が生まれ、やがて転落・・・そんなストーリーです。
ちなみに、日本映画で松方弘樹さんの「首領と呼ばれた男」という映画もありますね。まあ、ストーリーだけでなく、タイトルまでパクちゃって・・・オイオイ!

小説の世界にも、そんな作品は多いでしょ?
だって、極貧の世界での苦労の描写。頂点へ上り詰める描写。栄光を勝ち取った後の描写。慢心の描写。そして転落の描写・・・と、映画などにするには、ピッタリの素材。描かれる世界が多様で、見ていて面白いものになりますよ。
見ていて面白いだけでは大した作品とは言えません。そんな作品は、映画や小説の世界だけでなく、我々が実際に見ている現実の世界にもフィットしているから、興味深く見ることができるわけでしょ?それだけ、普遍的な人間心理とつながっているわけ。

な〜んて、ミエミエの導入部ですねぇ・・・
ここまでミエミエなのは私の趣味ではありませんが・・・たまにはいいじゃん。

このメールマガジンでは、ライブドアの堀江さんが、ダメダメ家庭出身者の典型的な特徴を多く持っていることを、たびたび取り上げてきました。
今回のメールマガジンはその堀江さんの問題を取り上げながら、彼の活動の根本にある「威張りたい!」という点について考えて見たいと思っているわけ。

ダメダメ家庭は会話不全の家庭です。
「相手の話を真摯に聞き」「自分の意向を相手にわかりやすく伝える」という発想がないわけ。相互理解を達成し、合意形成を積み重ねていくということをしない。常に「命令」と「服従」という序列に基づいたスタイルのコミュニケーションにならざるを得ないわけ。同格同士のコミュニケーションが不得手であるわけです。
だから権威主義的にならざるを得ない。そして序列にこだわらざるを得ないわけ。
そして、出来る限り自分が「上の序列になろう!」とするわけ。
誰かに命令を下す側になろうとするわけです。

勿論のこと、命令を下される側よりも下す側になりたいことについてはマトモな人も同じでしょう。しかし、マトモな人間は同格の間でもコミュニケーションが出来るのに対し、ダメダメ家庭の人間は、同格の間柄では十分なコミュニケーションが取れないので、相手よりも上の立場にたって、「命令を下す側になりたい!」という思いは切実になるんですね。

だからどうしても、自分を「大きく」見せようとするわけ。
「常に勝ち続ける存在でないといけない!」と一種の強迫観念を持ってしまう。
勝ち続ける存在であるためには、逆に言うと、常に、勝負の場というか、戦いが必要でしょ?だから「平時に乱を起こす」ようなこともしなくてはならなくなる。自分のような人間は平穏無事な状況では相手にされない人間だと、何となくわかっているわけ。

戦いとなると、ダメダメ家庭のお得意の対抗心が出てくる。
「○○に対抗する!」なんて言い出して、その○○に対抗するわけ。

対抗心を掲げると、同じような強い対抗心を持つダメダメ人間が寄ってくるもの。そんな集団は最初の頃は共通の敵への対抗心で団結していても、やがてはその対抗心がお互いに向けられるようになって、その集団が瓦解してしまうことになる。そうならないためにも、なおさら、外との戦いが常に必要になってしまう。部下の対抗心を常に満たしてあげないといけないわけ。

それにダメダメ家庭の人間は、まずもって自分自身がわかっていない。自分自身について考えることから逃げている。だから、視点を外に向けるためにも、ますます「○○に対抗する!」なんて強い対抗心にすがらざるを得ないわけ。

しかし、自分自身から逃げて、自分自身が分かっていないものだから、今現在の本当の目的が分かっていないわけ。だから「どーでもいい」ことに手を出したりする。
堀江さんだったら、競馬とか芸能活動なんて、やっている場合じゃないでしょ?国会議員選挙もそんなに必要だったの?プロ野球だって必要ではないでしょ?
しかし、そんな活動も、自分自身から逃げ、自分自身を「実体以上に大きく見せる」ためには有効なんですね。

それにダメダメ家庭には強い被害者意識がある。「自分が一番の被害者」と思っている。だから他者の被害には無頓着。しかし、他者への配慮がなく、すぐに「オレは被害者だ!」なんて言い出すから、マトモな人から相手にされないんでしょ?しかし、相手にされないからこそ、ますます被害者意識が強くなるわけ。

だからこそ、ますます「自分をより大きく見せようとする」ことになる。人に自分の弱みを見せないようにするんですね。上手く行かない理由を他者に転化し、自分を被害者の立ち居地に置くためには、自分が立派でないとダメでしょ?「こんなに立派で正しいオレなのに、上手く行かないのはアイツのせいだ!」こう言いたいわけ。

ライブドアの拡大戦略なんて、企業を買収して、その買収した企業の価値を生かして、更なる買収って、体のいい「ネズミ講」でしょ?
拡大し続けないと、破綻する・・・そんな類のものなんですね。ネズミ講は拡大するためには会員に安心を提供しなくてはならないもの。

しかし、だからこそ、ますます「自分を大きく」みせないといけなくなる。
努力してそれなりの地位に到達したから威張っているのではなく、「威張るために」一生懸命努力する・・・彼としては、そんなパターンなんですね。

会話の能力の不足を、権威主義や序列意識で補う・・・って、ダメダメ家庭の典型ですよ。彼は別の面での能力があったので、一時的にはですが、そんな「補完」ができたわけ。しかし、不必要な戦いを起こして、とりあえず勝利しても、長くは続きませんよ。だって本当の目的が自分自身でもわかっていないんですから。

威張るために努力してきた人は、逆に言うと、一番上の立場を実際に獲得できてしまうと、何をやっていいのかわからない状態になってしまう。
本来は、その頂点において、威張るということが存分にできることになるわけですが、威張るための努力がアイデンティティになってしまうと、頂点ではもう努力しようがないでしょ?だからこそ、困ってしまうわけ。
だからこそ、また別のところで挑戦者の役回りをやろうとすることになる。

一番上の序列を達成することが目的化されてしまっていて、自分自身を見失ってしまっている状態。
逆に言うと、2番目以降だったら、上を目指すだけで済み、やることが単純となり、当人もやることが明確でラクチンとなる。
だからこそ、また平時に乱を起こし、挑戦者としての立ち居地を取ろうとするわけ。
序列を上げるための努力がアイデンティティになってしまうと、序列関係が形成され、挑戦者としての役回りができるところに次々と首を突っ込むことになる。だから、アチコチでバトルとなってしまう。

しかし、本当に「コイツに勝ちたい!」なんて思っている相手があるのなら、じゃあ、その相手に勝つために「どうやって味方を作っていくのか?」そんなことも考えないといけないでしょ?あっちこっちでケンカしている場合じゃあありませんよ。そんなことだと肝心の相手とのケンカに勝てないでしょ?
本当のケンカに勝つためには、それ以外の人には頭を下げる必要もあるわけ。必要に応じてスーツも着ないとね。
彼が勝ちたかった本当の相手って、いったい誰なの?

彼自身が本当に幸福になるためには、まずは自分自身を知ることが先決なんですね。せめて自分の会話能力の不足を自覚すること。そして自分の対抗心を自覚すること。
これって、ダメダメ家庭出身者には共通の問題といえます。

彼は「金で人は動く。」と言いました。勿論、人間はそんな面もあります。しかし、会話を使って、お互いの合意を達成できれば、何も無理して金を使わなくても、タダで済むじゃないの?しかし、彼にはそれだけ会話の能力がないわけ。だからこそ「金の力で自分を大きく見せたい!」と思うわけ。
しかし、「どーでもいい」ことにお金を使って、自分を必要以上に大きく見せるって、コンプレックスの裏返しなんですね。

会話の能力がなく、対抗心が強く、被害者意識が強く、強いコンプレックスを持っている・・・そんな言動は、何となくジョンイル将軍さんや韓国人を思い出すでしょ?
ジョンイルさんと、堀江さんは、その服装も似ている。
お金を使って人を動かすのもいいでしょうが、そんなことに金を使っても楽しくないでしょ?そんなもので動かされる人間も「小さい」人間でしょ?
彼は、金を使って何をしたかったの?

そんな「威張るための努力」をするより、「会話の能力を向上させる努力」をした方が、前向きでしょ?
堀江さんも、これからは、幸か不幸か時間も出来るでしょうから、「自分自身が本当に欲しいものは何なのか?」「自分自身の本当の敵は誰なのか?」そんなことについて考えてみる必要があるんでしょうね。

まあ、彼も折角だから、自分の生涯を題材とした映画の台本でも書いてみればいいのに・・・自分自身を見つめるには最適ですよ。それに実に面白いストーリーですしね。
監督は、やっぱり、ジュゼッペ・トルナトーレでしょう!

(終了)
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発信後記

ジュゼッペ・トルナトーレの有名な「ニュー・シネマ・パラダイス」を見ていて笑っちゃったことがあります。
主人公のトトの恋人のエレナが夏休みのヴァカンスで出かけてしまっていて会えない。トトは野外映画場でバイト。そんなシーンがあったでしょ?
トトは「エレナ!エレナ!」と名前を呼びながら、フィルムを巻きつけている糸車(のようなもの)をクルクル回すわけ。
これは笑っちゃいます・・・が、そういう人はたぶん少ないでしょう。

糸車を回しながら、人を待つというシーンで有名なものは、ホメロスの「オデッセア」でのペネロープです。夫のオデッセウスがトロイヤの戦争に出かけて中々帰ってこない。そうこうしている内に、「アナタの夫はもう死んだんだヨ!サッサと再婚しなよ!」と財産目当ての男たちが、ペネロープに言い寄ってくる。
夫が帰ってくるまでの時間稼ぎをするために、「この服が出来上がったら再婚するわ!」という名目をつけて、糸を巻き、布を織る。ただ夜になるとそれをほどいてしまって、元に戻すわけ。

つまり糸車を回すという光景は、「中々帰ってこない人を切実に待っている」というギリシャ的な引用表現なんですね。まあ、ちょっとしたギャグとも言えるわけ。
ご丁寧に、その野外映画場で上映されているのは、映画「オデッセウス」です。
いかにトトがエレナを切実に待っているか!
糸車や映画の「オデッセウス」が、示しているわけ。映画解説ではちゃんと解説されていたのかな?
まあ、私の映画解説は一般のものとは次元が違っていますが。

このように「オデッセウス」の物語は、妻のペネロープに焦点を当てて、「なかなか帰ってこない人を切実に待っている」という象徴に使われるケースがあるわけですが、夫のオデッセウスに焦点を当てるケースもあります。

トロイヤから故郷のイタケに帰ろうとするが、なかなかたどり着けない。そんなオデッセウスの苦難の旅は、自分の原点を捜し求める旅の象徴として使われるわけ。
自分自身が本来あるはずの場所はどこなのか?
自分自身の原点は何なのか?
そこになんとしてもたどり着きたい!
自分自身が自分自身を獲得するための、艱難辛苦の象徴として使われるわけ。そして自分の原点を忘れない人間の象徴としても使われるわけ。

映画「ニュー・シネマ・パラダイス」では、その面での引用もあるわけ。シチリアでの純粋な愛や、その愛の喪失ということが、後に映画監督となったトトの創作の原点となったわけでしょ?あのラストシーンだって、「自分の原点への到達」ということを頭に入れていると、わかりやすいでしょ?

自分自身を、そして自分自身の原点を見失った堀江さん。さて、彼は、どんな台本を書くのかな?
タイトルは「ライブドア」ならぬ「閉ざされたドア」なんて、どうでしょうかねぇ?
彼の少年時代に自分の前で閉ざされてしまったドアの心象風景が、彼の後年に影響しているのは確実ですしね。

ちなみに、まさに「ライブドア」のドアですが、ドアや窓というものは絵画や映画などでは、自分自身の内面と外の世界の「境目の象徴」としての役割があります。このことは以前に「ピアニスト」という映画について触れたときに書きました。

窓から外を見たり、ドアから外に出るというシーンは、自分自身の殻を打ち破って、一歩前に進むという意味になるわけ。それこそ「ニュー・シネマ・パラダイス」でも、映画で最初に映されるものが、窓の内から外を見るアングルでしょ?そのアングルは、前に進むことをためらう主人公のトトの心の壁を意味しているんですね。

あの「ニュー・シネマ・パラダイス」でも主人公のトトは、成功して映画監督になった後も、故郷と距離を置き、親とも距離を置いていましたね。それだけ心理的距離があるわけ。
堀江さんだって、その点は同じでしょ?

「ライブドア」と名前をつけるのはいいとして、自分の目の前にあるドアを開ける・・・それって難しいわけ。まずは自分自身がわかっていないとだめなんですね。
しっかし、映画の題材として本当に最適ですよねぇ・・・
R.10/11/18