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カテゴリー 信頼と好意の諸相
配信日 06年2月27日 (10年11月20日,11年1月16日 記述を追加)
タイトル 不信のスパイラル
昔の戦国武将の武田信玄が言っていますよね?「人は石垣」って。
大きな城を作らなかった信玄が、『どうして、大きな立派な城を作らないの?』と聞かれて、そのように答えました。
「大きく立派な城を作らなくても、みんなが一致団結していれば、それが大きな力になるんだ!」そんな意味でしょうね。

人間の信用はスパイラルのように増加していく・・・これについては以前に配信いたしました。
共同での成功体験が積み重ねれば、お互いの信頼も積み重なっていきますよ。
しかし、逆も真なりと言えます。
不信もスパイラルのように増加していくんですね。

しかし、それって当たり前のこと。当人自身がやり取りの相手を信用していなかったら、その相手から信用を受けられるわけがないでしょ?そんなことは人間関係の基本ですよ。
そして、不信を向け合っている者同士が一緒になっても、モメることは必定ですし、成功体験も得られるわけがないでしょ?結局は、「誰のせいで、うまく行かなかったのか?」という犯人探しとなってしまうだけ。
そんな目で見ていたら、ますます不信感が募るばかりですよ。

実に典型的に見られたのは、やっぱりダメダメ家庭の巣窟とでも言えるマスコミでした。
以前に、個人情報保護と言うことで、「報道に対する政府の規制をどうするのか?」そんな法律でモメましたよね?
国民の知る権利とか、報道の自由とか・・・マスコミの方はご立派な理屈を言っておられたようです。

しかし、常識的に考えればわかりますが、政府を非難する権利を、政府によって法律で守ってもらおうとしても無意味ですよ。法律なんて運用次第でどうにでもなるものですよ。
本気で政府を批判するのなら、命がけでやらないとね。そんな命がけの姿勢こそを、一般の国民は支持し、頼もしく思うわけでしょ?
安全圏でワイワイ言っていても、一般の人間は「あっ?そう?・・・で、アンタたちは、結局は、何が言いたいの?」で終わっちゃいますよ。

マスコミの方は、『いざとなったら、国民が自分たちを守ってくれる。』なんて思っていないでしょうし、国民だって、「マスコミは信念を持って命がけで報道しているわけではない。」と思っている。相互に信頼関係なんて成立していない。だからこそ、マスコミは法律という石垣によって、自分たちを守ろうとするわけです。
しかし、そんな法律頼りの姿勢だからこそ、ますます「マスコミは真剣にやっていない。」と分かっちゃうわけでしょ?信玄さんだったら、呆れてしまいますよ。

現実問題として、国民の知る権利に応えた事件が2010年にありましたが、国民に知らせるためにその人が使ったメディアは、「国民の知る権利」について常日頃から主張する既存のマスコミではなく、インターネットのメディアである「YouTube」でした。
既存のメディアが、国民の知る権利を声高に主張するのはいいとして、もはや実効性がなくなってしまっているんですね。まあ、それが現実と言うものでしょ?

不信というものは、スパイラル的に増加していく。
まあ、マスコミがどうなろうと、ジャーナリズムとは無関係でしょう。だから一般の人間の「知る権利」とは無関係。お互いが不信の念を持っている間柄で、何か意義ある成果ができるわけもない。しかし、このような流れは、ダメダメ集団の「不信のスパイラル」の例としては、典型的でしょ?

あるいは、年金問題だって全く同じでしょ?
国民の側が年金制度を信頼していないから、問題が大きくなってきたわけでしょ?それを強制力で解決しようとしても、そんな制度をますます信じないに決まっていますよ。
せめて一般の国民の声を聞けばいいのでしょうが、政府の側も国民を信じていないんでしょう。だからこそますます、年金制度に対して不信を持つわけでしょ?
この構図って、ジョンイルの北朝鮮と全く同じ。

誰かをサポートするにせよ、信頼感を持てない人間をサポートする必要はないし、することはできませんよ。それは、結果的に相手の人格を否定した形、いわば支配関係に陥ってしまうだけ。
結局は、強制力頼みになってしまって、ますます信頼とは無縁になってしまう。

ダメダメ集団での「不信のスパイラル」という状況は、当然のこととしてダメダメ家庭でも顕著に見られるものです。

ダメダメな親は子供を信じていないし、当然のこととして、そんな状況だと子供だって親を全く信じていない。
子供から信頼感を得ていないことが何となく判るから、親の言い方も強制力を伴った言い方をする。
「オマエのために、多くのお金を使った!」「いったい誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ?!」、だから「ワタシの老後の面倒を見るんだ!」

ダメダメな親は、子供を全く信頼していないので、このような言い方をせざるを得ない。「何も言わないと、子供は自分の老後の面倒を見ない。」と思っているわけです。
しかし、上記のダメダメな親の言い方って、「アンタはワシからお金を借りた。」だから「耳そろえて、早く返さんかい!」という、サラ金やヤミ金の物言いと同じでしょ?
ダメダメ家庭の子供は、そんな感じで、毎日がサラ金の取立て状態となっている。その取立て屋が自分の親なんだからシャレにならない。しかし、そんな取立てをする親を信頼する子供がいるわけもなく・・・
子供はますます親を信頼しなくなり、ますます親は強圧的な言い方をするようになる。
それこそ「とっとと、返さんかい!この、ボケっ!」と取り立ても厳しくなる。

「とっとと、返さんかい!この、ボケっ!」なんて言い方をする人間を信用する人が、この世にいるわけもなく・・・と、結果的に、不信感がどんどんとスパイラル進行することになる。
お互いの信頼がスパイラル進行するように、お互いの不信もスパイラル進行することになる。不信がスパイラル進行するようになったら、無理してもダメですよ。そんな関係は離れた方がいいに決まっているでしょ?しかし、ダメダメな親が唯一相手になってくれるのは、自分の子供だけというのも、やっぱり現実。だから自分の子供に関わろうとする。しかし、無理して関わろうとして、強制力を使い、ますます不信のスパイラルが進行させてしまう。

あるいは、別の方向から不信のスパイラルが進行することもあります。
頻繁に書いていますが、ダメダメ家庭の人間は、信頼と好意の区別がつかない。と言うよりも、信頼というものが心理的に理解できない。
だから、信頼感の喪失という問題を、相手から「好意を失った」と認識することも多い。

ダメダメ家庭の人間は、そもそも育った家庭において、お互いが信頼で結ばれていたわけではないので、信頼感の欠如が原風景となっている。
信頼が実感できないがゆえに、信頼の欠如も、改めて実感することもできない。
何度も書きますが、それがデフォルト状態だったわけですからね。

だから、信頼の欠如への対処がトンチンカンになってしまう。
それこそ、自分に対して不信感を持っていそうな相手に対して、「ワタシを好いてよ!」と絡みまわることになる。そして、「好いてもらう」ための理由として、「ワタシはかわいそうな被害者なのよ!」という理屈を持ち出す。
「被害者なんだから」→「ワタシはかわいそうな人間だから」→「ワタシを好いて」という流れになる。しかし、たとえ、かわいそうな人間だと言っても、と言うか、現実的に言うと、かわいそうな人間だからこそ、その人を信頼するわけには行かないでしょ?
と言うことで、相手からの不信感がより進んでしまう。

ダメダメ人間にしても、好意と言う断片的な感情は何とか理解できるので、その方向のみに対処することになる。相手に気に入れられようとして、媚びを売ったりする。
しかし、当人自身に一貫性がないことは変わらず、相変わらず断片的なまま。
一貫性のないところに信頼が生まれるわけがないじゃないの?

家庭においても、政治においても、どんな分野でも、指導者たるものは、一貫したメッセージを発しなければダメでしょ?
その配下にある人のすべてがそのメッセージを理解するというものでもなく、合意するものでもないでしょうが、一貫したメッセージを発し続ける態度が信頼に繋がっていくわけでしょ?

自身に信念がないから、結局は、相手の言葉を聞くことから逃げてしまう。
どうしても伝えたいものがなく、自身の逃げ場を残したいので、間に人を入れるやり取りをして、逃げ場を確保しようとする。
しかし、だからこそ、相手からますます不信の目で見られてしまう。
信頼のないところに強制力で対処するからますます信頼がなくなってしまう。
そんな流れもポピュラーでしょ?

信頼というのは、勝利から生まれ、勝利に導くもの。
なにも勝負事の問題ではなく、自分が達成したいものがあり、それが達成することができたら、勝ちと言えるでしょ?
しかし、ダメダメ人間は、かわいそうな自分を、つまり負けっぷりをアピールして同情を得て、好意を得ようとする。
しかし、だからこそ、ますます、人から信頼されなくなる。

あるいは、自分のかわいそさをアピールする以外にも、「ほんとうはアイツが悪いんだ、だからボクは悪くないんだ!」という他者への犯人認定を伴った弁解を始めることになる。
いわば「共通の敵」を設定することで、結びつきを得ていこうとする。
「他者への犯人認定を伴った弁解」というと、端的に言ってしまうと、人の悪口。
人の悪口ばかり言っている人を、信頼する人はいないでしょ?
と言うことで、ダメダメ人間は、信頼を失ってしまうと、それを「好意を求める」という方向での対処を取り、ますます信頼をなくしていってしまう。

実は、この不信のスパイラルがもうすぐ顕著になりそうなのは、最近(06年)の日本の民主党です。
今の代表の前原さんのアタマの程度には、ある意味において感心しますが・・・・

首相の小泉さんは、織田信長を意識しているとのことですが、織田信長は、長篠の合戦で武田軍に大勝利した後は、深追いはしませんでした。そのまま放置状態。
しかし、武田家は「おばかさん」の勝頼が大将のままなので、勝手にどんどんと腐っていってしまう。
信長がやったのは、大将の勝頼への攻撃ではなく、武田家の優秀な武将への個別の切崩しでした。武田家の中でも一旦離反者が出てしまうと、もうお互いを疑いの目で見るようになってしまう。

信玄の頃には、団結していて、それゆえに、合戦に強かったわけですし、合戦に強いという結果が出ていると、ますます信頼感が増し、ますます団結するでしょ?
しかし、トップが合戦に弱い人のままだと、部下は「自分の身は自分で何とかしないと・・・」と思わざるを得ませんよね?そうなってしまうと、そんな組織は勝手に瓦解していくんですね。大将を狙うよりも、その下を狙う方が効果的なんですね。

日本の政党だったら、「アンタが今、離党してくれれば、次の選挙では対立候補を立てないよ。しかし、離党しないと強力な対立候補を立てる。」なんて、くどき文句が来れば、心が動きますよ。
与党からの対立候補がなければ、当選確実ですし、強力な対立候補の「効果」なんて、前回の選挙で実証済み。

離党する大義名分なんて簡単。「前原氏は国民意識からずれている。」「今の民主党では自分が望む改革はできない。」でおしまいですものね。一人離党者が出ると、もう「次には誰だ?」ということになってしまうでしょ?
そんな政党は何もできませんよ。
幹部が一般の党員を疑いの目で見るようになったら、「情報交換は信頼できる側近とだけ。」となってしまう。こうなると、ますます一般の党員が離れて行き・・・と、キム・ジョンイル路線まっしぐら。
このままいくと、こうなっちゃうんでしょうね。

主義や理念は、人それぞれの形があるわけですが、「勝ち方」は、いつの時代でも、どんなシチュエーションでもそれほど変わるものではありません。
不信のスパイラルが回りだしたら、加速度がついてしまって、ちょっとやそっとでは止まらなくなってしまう。そのスパイラルが回らないように、日々チェックし、早めに対処する・・・そんな必要があるわけです。
早めに対処すれば、改善することだって、それほど難しいことではありませんよ。

(終了)
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発信後記

以前にこのメールマガジンで、小泉さんの選挙戦術が、プッチーニの最後のオペラ「トゥーランドット」との多くの共通点があることを書いたことがあります。
人を「のせる」テクニックは、オペラなどに典型的に見られるものなんですね。
小泉さんは、そうやって、選挙民を「のせて」大勝利したわけ。

「トゥーランドット」というと、イタリアのトリノでのオリンピックで、フィギュアスケートの荒川さんがその曲を使いました。まあ、結果は大勝利でした。
私個人は、フィギュアの表現なんて全然わかりませんから、ニュースを見ていても、音楽の方に興味が行ってしまいます。まあ、メロディーを聴くと、歌詞も浮かんできますしね。

ちなみに、フィギュアで使われた最後の箇所の歌詞は「vincero!vincero!」
訳すと、「私は勝つのだ!」となります。
「決め」の部分としては申し分ない。当然のこととしてイタリアのトリノという土地柄を考えれば、観客の中にはその歌詞が浮かぶ人も結構いるでしょう。観客が心の中で「vincero!vincero!」と歌っていれば、観客も「ノリ」ますよね?

あと、「トゥーランドット」は中国の北京を舞台としていますから、東洋のエキゾティズムもあるわけ。イタリア人が日本人に感じるエキゾティズムとつながっていくわけです。
フィギュアで同じ演技をしても、音楽がショパンだったら、こうは行かなかったでしょうね。

ちなみに、その最後の箇所の歌詞をもう少し前から書くとこうなります。
「星よ沈め!夜が明ければ、私は勝つのだ!」
日本時間では、こうなったというわけ。
R.11/1/16