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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神
配信日 06年3月31日 (10年5月8日,11年2月18日 記述を追加)
タイトル 思考力  (思考力と学力の違い)
以前より、このメールマガジンにおいて、社民党の福島党首が語った言葉である、「普通の人が、普通に働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉を取り上げたりしています。
まあ、たまたまテレビをみたら、そんな言葉をおっしゃっていたんですね。

しかし、何ともまあ、「雲を掴む」ような言葉だ!
「普通の人」って、どんな人?
「普通の働き方」って、どんな働き方?
アナタの言う「幸せ」って、何?どんな状態なの?
福島さんの言葉に該当する国って、具体的にどこの国なの?北朝鮮なの?それともアメリカ?ブラジル?

「べき論」で、そんな主張をされても、全く持って、何と言ったらいいのかなぁ?
そんな言葉を聞かされた側はどう思うの?
何とも言いようがないでしょ?
だから会話が発展しませんよね?
会話というものは、実際に自分の前にいる人間と言葉を交わしながら、発展していくわけですが、自分自身の頭の中で一人で行う場合もありますよね?
それが「思考」と言うものでしょ?

「普通の人が、普通に働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉に対して、先に私が挙げたような疑問、たとえば「普通って何?」などの問いを 自分自身で発して、自分の頭の中で「会話」してもいいじゃないの?
ちょっとでも、頭の中で「会話」したら、「こりゃヘンだ!」って、思いますよ。それこそ小学生だってね。つまり福島さんは頭の中で「会話」していないわけです。つまり、彼女は「思考」をしていないと言えます。もっと端的に言うと、彼女には「思考力」がないんですね。

しかし、福島さんは東京大学の出身で弁護士資格を持っている人。決して「オバカ」ではないはずでしょ?確かに、彼女は学力はあるんでしょうね。しかし、思考力と学力は違うんですね。
学力は、「そもそも、以前から正解が存在している問題において、正しい答えを出せる能力。」でしょ?
正解が存在しないような問いには対応できないものなんですね。

ダメダメ家庭の人とやり取りをしていると、実に頻繁に登場してくるのがこの言葉です。
「それって、正しいの?」
そんな問いかけのスタイルは、魯迅の「狂人日記」においても登場してきます。まさにダメダメの領域においては、実にポピュラーな問いかけのスタイルといえます。
ダメダメ家庭は「正しさにこだわる」傾向があります。このことは、魯迅だけでなく、このメールマガジンで以前に配信しております。そして、その「正しさ」とやらを立証するのは、往々にして権威者のお墨付きなんですね。
「権威ある○○先生がおっしゃっているんだから、これが正解なんだ!」
そんな感じでしょ?
その○○が、マルクス先生だったり、宗教団体の尊師だったり、学界の大物だったりと、その点ではヴァリエーションがあっても、「権威ある○○先生がおっしゃっているんだから、これが正解なんだ!」という発想のスタイルは共通しているんですね。
だから、その「権威ある見解」に反するものは、「不正解」。その「権威ある見解」に沿ったものは、「正解」となる。
学校の試験だったら、そんなスタイルでもいいんでしょうね。
しかし、現実世界ではそんなわけには行かないでしょ?

そもそも現実世界では、正解なんてありはしないでしょ?物理法則のような分野ならいざしらず、人間の感情に関わるような分野だったら、「これ以外は不正解だ!」なんて言えないでしょ?

それこそ、たとえば、モネの絵画を見て、「キレイだ!」と思うことが正解で、「なんじゃコリャ?」と思うことが不正解なの?そんなものではないでしょ?
あるいは、ニーツェの思想は正解なの?不正解なの?
あるいは、政治の世界だって、消費税の税率に正解も不正解もないでしょ?
だって、人間はそれぞれなんですからね。
それなのに、強引に排他的な正解を導き出そうとするから、無理が出てくるわけでしょ?
「この点について、アナタはそのように考えているの?自分としてはこのように考えている。じゃあ、一緒に話し合いながら色々と調整していきましょうヨ!」
そんな感じで、会話していけばいいじゃないの?

自分自身について理解し、相手の話を聞く。それによって、自分たちの問題点そのものを理解し、その問題点を自分の目で確認する。そして様々なアイデアを頭の中でシミュレートして、さらに自分自身で色々と考える。
人間の思考って、そんなものでしょ?
そのようなスタイルで進めていくこと自体は、子供だって出来ること。
しかし、普段から自分自身で考えることをしない人間は、自分で考えるよりも、「正解はどこにあるのか?」という発想をすることになる。だから正解のない現実の世界の改善は不可能になってしまう。
そんな状態で、正解を求め、権威者の「お墨付き」にすがりつく。

自分自身そのものなり、自分自身の目の前にあるものを虚心坦懐に見つめることをしない。むしろ、権威者のお墨付きに合っていない「現実」そのものを否定しようとする。だから、周囲に対しては問答無用の「べき論」で説教するだけ。
結局は、ますます「会話」から遠ざかっていく。そして、頭の中の会話と言える思考からも遠ざかって行く。

学力があれば、正解が存在している問題には解答ができる。しかし、現実において重要なことは、「どこに問題があるのか?」「その問題の本質は何なのか?」そのようなことを見出し考えることでしょ?いわゆる世俗的なマターに限らず、問題を見出していく能力の方がクリエイティヴなんですね。だって、そもそも前々から正解が分かっている問題を改めて解いたところで、人類の知的財産にはならないでしょ?

単純化すると、「問題を解くのが学力で、問題点を見出していくのが思考力。」と言えるでしょう。
問題を認識するから、新たな知見が得られることになる。

あるいは、別の言い方をすると、
「学力は、相手が要求する課題を、解決できる能力であり、
思考力は、自分自身が要求するものを、解決できる能力。」
と言えるでしょう。

自分自身の希望を抑圧し、人に合わせてばかりのダメダメ家庭においては、相手から課題を提示されると、その課題に対しては、正解を提示できる。
しかし、そもそも自分自身として達成したいものがなく、あるいは問題意識がないんだから、「自分自身が要求するものを、解決する。」という思考力は必要性自体がない。
逆に言うと、人に合わせてばかりだと、自分なりの疑問点を持つことがないので、学力の面では意外にも向上したりする。
「相手からの要求に対して合わせないといけない!」と強迫的な心理になってしまい、目の前に「解決されていない課題」があることに、心理的な面から耐えられない。
しかし、そのような学力は、好奇心や向上心や向学心というよりも、不確定なものへの恐怖感なり、人からの要求に対応しきれていないことに対する心理的な不安からきているわけで、建設的な学力とはいえない。学ぶということも、知識を習得するというプラス方向のものもあれば、「正解まで到達していない状態に耐えられない。」という二重否定のパターンもあり、ダメダメの領域では、二重否定的な学力になっている。
「解決されていない状態に耐えられない。」ので、自分なりに問題意識をもって、現実を見て、事態に対処する発想はない。問題意識を持つこと自体に心理的なストレスを持ってしまう。

思考力とは、自分自身の目の前にあるものを真摯に見つめ、そして当事者意識を持って自分で考えることであり、だからこそ「文句を言わずに従え!」と要求する権威主義に満ちたダメダメ家庭では育ちにくいんですね。
そして「思考力の欠如した」人間は、自分と同じような「思考力の欠如した」人間と一緒にいようとする。だって、同類といれば、お互いが何も考えずに済むわけですからね。
そしてお約束といえるグチの共鳴。
「本来はこうあるべきなのに、どうしてこうならないんだ?!」
そんな状態では、グチで盛り上がることはあっても、会話が盛り上がることはないでしょ?
だから思考だって盛り上がらないでしょ?
そんなグチの中から、新たな知見が得られるとでも言うの?

ダメダメ家庭だと、既存の常識的な発想に縛られず自由に考えられる。
そのようなパターンもあったりします。
しかし、権威主義的な面が強いダメダメ家庭だと、親の権威主義を引き継いで、ひたすら権威を求めるようになってしまう。
あるいは、対抗心が強いダメダメ家庭だと、親の対抗心を受け継いで、ひたすら「アンチ○○」ということで、何かに対抗するという形でしか自己の考えが展開できなくなってしまう。

問題意識自体を抑圧しているので、トラブル発生時などの、必要に迫られた時にしか、事態を見ようとしない。しかし、本来は「トラブルを解決する。」という問題意識以外の問題意識もあるでしょ?
自分なりの課題を見出していく出発点としての、違和感なり、驚きもあるでしょ?
「これって、おもしろいなぁ・・・」「へぇ・・・不思議だなぁ・・・」「これって、ちょっとヘンじゃないの?」という子供っぽい驚きでもいいのでは?
そんな子供っぽい驚きから、「じゃあ、どうしてこうなっているんだろう?」などと、探究心なり思考が進んでいくんでしょ?
子供っぽい好奇心がない人は、やたら立派な言葉を使ったりしても、その中身は実に安っぽいもの。
議論のための議論ばかりで、地に足がついていない。
逆に言うと、自分に直接に関係のあるようなマターは避けようとして、自分に関係しそうになると、その議論から逃げだしてしまう。そんな逃避的な人の見解に対して鋭く質問すると、「別にぃ・・・特に言いたかったことじゃないから・・・」と逃げを打って、やっぱりトンズラ。「じゃあ、アンタの最初の言葉はいったい何だったの?」と呆れてしまうことになる。
そんな人は、「ワタシはかわいそうな被害者なんだ。」と自分で納得できるための理屈を探しているだけ。

だからスグに犯人認定に逃げ込んでしまう。
時代が悪いとか、
政治が悪いとか、
あるいは、壮大なスケールの陰謀史観を持ち出すことになる。

まあ、そんなことを書いた文章を見せられると、とてもじゃないけど、最後まで読めたものじゃないんですよ。
文章表現がヘタとかの問題ではなく、その言葉に実感がこもっていないんですね。
別の言い方をすると、表現に空気感がない。
それこそユダヤ人の陰謀話でもいいわけですが、そんなことを書いた人本人が、ユダヤ人と話をしたことがあるわけではない。あるいは、自分の希望の実現のためにユダヤ人が障害になって困ったという経験もない。
まさに、実感がなく、自分に関係がないがゆえに、もっともらしく語っているだけ。
しかし、そのもっともらしさゆえに、そして権威主義的な物言いであるがゆえに、ボンクラな人は、「あの人は、色々とものを知っている!」との評価になってしまう。
まあ、そんな人が語る知識なんて、逆に言うと、「あの人はハダカだ!」なんて子供から言われてしまうだけ。実際に、思考の面ではハダカ同然でしょ?
本当の意味での思考力は、子供っぽい驚きや疑問がその人の実体に根ざしているもの。実体に根ざしているがゆえに、相互の知識がその実体の中で結びついたり、影響を与え合って発展することになる。
それこそが思考というものでしょ?

学力というものを、思考力との違いに注視した形でとらえると、学力は「正解はどこだ?」という発想とつながっていることは、前に書いています。「正解はどこだ?」という発想であるがゆえに、トラブル状態になると、「正しくないものは誰だ?」「悪いのは誰のせいだ?」「犯人は誰だ?」との犯人探しの発想に向かってしまう。
実際問題として、それなりの学力はあっても、思考力の欠如した人間は、スグに犯人探しの議論をするものでしょ?

そして、犯人探しは一生懸命にやって、それ相応の理屈をつけることができるわけですが、やり取りの相手側から、「で、結局は、アナタ自身ではどうしたいの?」と聞かれると何も答えられないもの。
「で、結局は、どうしたいの?」という疑問が常に心理にあるのが、思考力であり、その疑問から無関係に成立しているのが学力といえます。
その乖離の大きさは、そのまま当事者意識の欠如や心理の抑圧を示しているわけですから、その人のダメダメを見極めるには、有効な視点なんですね。

(終了)
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発信後記

私は別に社民党に恨みがあるわけではありませんよ。
できることなら社民党の集会を見学したいと思っているほどです。きっと沢山のネタが取れるんでしょうからね。

私は以前に、繁華街の「絵売り家」さんに突撃潜入したことがありますが、さすがの私も社民党はチョットねぇ・・・やっぱり怖いヨ。
しかし、どんな顔をした人がいるかだけでも、興味があります。まあ、かつての土井さんのような容姿の人が多くいるんでしょうねぇ・・・

どなたか、突撃レポートしてくれないかな?そんな投稿があれば歓迎するんですが。
R.11/2/18