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カテゴリー ダメダメ家庭の序列意識
配信日 06年4月19日 (10年11月14日 記述を追加)
タイトル 本家意識
昔よくあったコメディーで「本家のお団子屋さん」と「元祖のお団子屋さん」が、いがみあっている・・・そんなコメディーがよくありました。
まあ、私はそんなコメディーを最後まで見たりはしませんでしたが、その手のコメディーにはツボみたいなものがあって、往々にしてお店は近所にあって、ご主人同士は親戚筋で・・・顔を合わせるたびにモメごとをしていたりする。
「オレんちが本家だ!」『イヤ!オレの家が元祖だ!』「なんだと!このヤロー!」と、そんな調子。

まあ、所詮はコメディー。虚構の話。
どっちが元祖で、どっちが本家でも、どうでもいいのですが、本来は、もっと重要な問題としては「どっちのお店のお団子がおいしいのか?」と言うことでしょ?

お団子の味がマズければ、本家も元祖もないじゃないの?
たとえ分家であっても、おいしい方がいいに決まっていますよ。もちろん、商標なり製造上のロイヤリティーの問題は、しっかりしないといけませんが。

まあ、お団子の本家なり元祖は家庭問題とは関係ない話。しかし、ダメダメ家庭は、この手の本家意識を持っていたりすることが多いわけ。
「どっちが本家か?」ということで熱くなったりするんですね。

だって、ダメダメ家庭の人間は序列意識が強い。コミュニケーションが「命令と服従」というスタイルしかなく、話し合いによる会話というスタイルではないわけ。だから自分が命令を「下す」側か、命令を「受ける」側か、明確に決めておかないと心理的に落ち着かないんですね。その序列のひとつとして、「オレたちは本家だから偉い!」なんてことを主張するわけ。

それに、本家って、一端認定されてしまうと、あとは何もしなくていいわけでしょ?「我々は本家だ!」って、自分だけでなく周囲からも認めてくれれば、それで完了。後はでーんとしていればいいだけ。しかし、「おいしいお団子」を作るためには日々精進しなくてはダメでしょ?でーんとしているヒマはありませんよ。当事者意識を持って、現在の課題に向き合っていかないとダメでしょ?本家にこだわるということは、逆に言うと、現在の課題と向き合うことから逃避しているということですよね?

ダメダメ家庭の人間が持つ、序列意識と、現在からの逃避、そして目的意識の不在・・・それらが合わさると本家意識になってくるわけ。

実は、最初にあげた元祖と本家のお団子屋さんのコメディーとそっくりの光景が、京都のかばん屋さんでやられているそうです。
それまで家業に関心がなかった長男が急に現れて、父親の遺言なるものを持ち出し、「店を譲れ!」と、それまで実質的にお店を経営していた三男に要求。その遺言状の真贋ならびに、作成時の判断能力云々が裁判になって・・・

結局は、三男はその自分が経営していたかばん屋さんから独立し、道を挟んだ向かい側に新たな会社を興し、職人さんも、その三男と一緒に移動。怒った長男は、また裁判を起こすとともに、新たな職人を集める計画だとか・・・

しかし、新たな職人を集めると言っても、そんなことをすれば実質的に別ブランドになってしまいますよ。そんなブランドを乗っ取るようなことをするよりも、新たに別ブランドを立ち上げた方がマシ。職人さんが全然違うブランドの製品なんて誰が買うの?結局は、事業も失敗するだけでしょ?それまで家業には全然タッチしていなかったのなら、ある程度のお金をもらって、「ハイ!サヨナラ!」でいいじゃないの?

そう!こうなると、ダメダメ家庭にお約束の言葉が出てきてしまうんですね。
「で、アンタ・・・いったいどうしたいの?」
三男の活躍が嫉ましく、嫌がらせをしているだけ・・・心情的には、そう見ることができるでしょ?

まあ、かばん屋さんのトラブルは、長男の方が一方的に悪い・・・周囲の人からは、そう思われてしまうでしょうね。「自分がどうしたいのか?」自分でもわかっていないのだから、周囲の人には「何なの?あの人?」「いったい何をしたいの?」と思われることも必定。どうしても周囲からそのような評価を受けてしまうわけ。

しかし、そうなると、被害者意識に火がついて、ますます「絡む」ようになってしまうわけ。しかし、そのかばん屋さんのもともとの家庭がダメダメ家庭であることを前提に考えれば、長男の心情も、共感できないにせよ、理解できるようになるわけです。

ダメダメ家庭におけるコミュニケーションについては、命令と服従という序列に基づいたスタイルが基本。そのような会話不全のダメダメ家庭で育った長男は、会話の能力がないので、普段からうまくいかない。しかし三男が育った頃は、そのダメダメも、多少は改善してきていた、だから、三男はそれほどダメダメ家庭の要素が強くない。だから、それなりに会話も出来て、周囲の人に信頼され、事業もそれなりにうまく行っている。

それに、携わった仕事のキャラクターによっても、成功と失敗が分かれたりする。
会話の能力があまりなくても何とかなる仕事をしていれば、ダメダメ家庭出身者でも成果を得られるケースもある。かばん作りを地道にやっている仕事は、ダメダメ家庭出身者にしてみても、何とかなるケースと言えるんでしょうね。
しかし、会話能力が欠如し、そして「人の気持ちが判らない」人間が対人折衝の仕事をしてもトラブルになるだけですよ。

そうなると、ダメダメの別の要素である被害者意識によって、長男の方は「自分は三男による被害者だ!」と思うようになるわけ。ダメダメ家庭を作る親は、そもそもその親自身からして被害者意識が強いので、そんな家庭で育った子供は、親がダメダメであることは心理的にアンタッチャブル。だから、アンタッチャブルである父親の代替として三男が犯人認定されてしまい、「悪いのは全部弟である三男のせいだ!」とされてしまう。

自分が一番の被害者だと思っている長男は、ある程度、無茶なことをしても、「自分は被害者だから、この程度の悪さは当然だ!」と思っている。そもそも会話のできない長男の相手をしてくれるのは、序列が下である自分の弟だけ。だから唯一自分の相手をしてくれる弟に命令調で絡むわけ。

最初はそれなりに相手をしていた弟も、「もうっ!いい加減にしてよ!で、兄さん!アンタはいったい何がしたいの?」そう思うに決まっていますよね?
長男は、「弟は兄の言うことを聞くのが当然だ!」と言い出すのはいいとして、その肝心の「言うこと」なり「わかってほしいこと」が明確でない。だって、「何がしたいのか?」自分だってわかっていないわけですからね。

こうなって、ますます被害者意識が強くなり・・・と、どんどんスパイラル進行するわけ。
皆さんもお気づきになられたでしょうが、この京都のかばん屋さんの事例は、韓国人が日本に絡むやり方と瓜二つでしょ?

「オレは本家なんだ!」というのはいいとして、「おいしいお団子」をどうやって作るのか?「いいかばんをどうやって作るのか?」そんな発想がなければ、単なる「威張り屋さん」ですよ。

この本家意識が登場する光景を見てみると、その本家意識に内在する序列意識と現在からの逃避の心理が見えてくるものでしょ?
「自分はどうしたいのか?」それが明確にわかっていれば、無理に本家である必要なんてないわけ。こんなことは当然でしょ?
しかし、「自分はどうしたいのか?」そのような当事者意識に基づく思考から逃避するダメダメ人間は、本家であることにこだわらざるをえないわけです。逆に言うと、そんなことにこだわる人間はダメダメ人間なんですね。

本家というか、いわゆる正統性にこだわるのもいいわけですが、正統性が、これすなわち創造性というわけではないでしょ?というか、目線が過去を向いている分だけ、むしろ創造性からは遠いパターンが多いでしょ?
本家とか、別の言い方だと嫡流とかの文言もありますが、そんな発想が出てきている時点で、前を向いた創造的な活動はなされていないもの。
何も血統的な嫡流だけでなく、たとえば、芸術の分野においても、たまに出てきます。
クラシック音楽の「演奏家」の系譜において、そんな説明があったりするわけ。

それこそ、あのピアニストは、○○の一番のお弟子さんで、そのお弟子さんは、もっと前の△△のお弟子さんで、その△△は、□□の教えを受けた・・・と、演奏家の世界では語られたりするようです。
しかし、まあ、そんな系譜によって、その人が語るのはいいとして、その人自身の創造性はどうなっているの?
創造性とは、神様から、直接的に降りてくるものでしょ?
天才は自分とは別の天才を認めることはあっても、天才を指導したりはしませんよ。
だから、誰から指導を受けたのかなんて、あまり意味はないわけ。
多少のチェックポイントとか視点とかを提示することはあっても、「手取り足取り」の指導を天才に対してはしませんよ。

だから、「誰の指導を受けたのか?」という点などは、創造性という観点から見ると、枝葉末節そのものなんですね。
逆に言うと、「誰の指導を受けたのか?」「どんな流れなのか?」という点ばかりで自分を語っているということは、神様からの声が聞こえないということ。

これについては、実に典型的な例があります。とあるイタリアの天才ピアニストさんが「お弟子さん」に対してレッスンをした。指導している天才ピアニストさんは、才能がないお弟子には熱心に指導し、非常に才能があるお弟子さんは、まったく無視でネグレクト。
そんな光景を見た人が、「どうして、アナタは才能のない方に熱心に教えて、才能のある側は無視するの?むしろ、逆じゃないの?」と質問したわけ。そんな質問に対し『才能のない側は、将来はピアノ教師になるから、教え方を教えている。一流のピアニストになる才能がある側は、その才能を伸ばすためには、自分ひとりでやっていくしかない。』・・・という回答だったとのこと。な〜るほどね!

ちなみに、その放っておかれた側のお弟子さんは、しょうがないから別の天才ピアニストのお弟子さんになりました。その新たについた先生は、お弟子さんの演奏をテープにとって、それを当人に聞かせただけだったそう。そうして、「自分の音楽をどう思う?」と質問を投げかける指導法だったそう。
ちなみに、そんな指導を受けて、結果的に超一流のピアニストになったんだから、それでOKでしょ?どっちの先生の指導も適切だったといえるわけ。
こうなると、誰の指導を受けるとかは、あまり関係ないでしょ?
まさに、自分自身との対話に導くことが、「先生」の責務であって、だからこそ、「いい先生」ほど、その人固有の指導を議論しても意味がないわけ。

「どんな指導法の流れなのか?」ということは、神からの声なり、芸術的な創造性とは関係ないもの。
これが芸術の分野だったら、笑って済む話ですが、政治の世界でも、このような本家意識などが出てきたりするでしょ?
まあ、過去からの流ればかりが言われる状態は、目線が過去を向いていて、現実なり将来を見ていないということでしょ?
しかし、逆に言うと、現実や自分自身から逃避するダメダメ人間にしてみれば、嫡流とか本家とかで話がまとまってしまえばラクなもの。
しかし、それゆえに、未来への可能性を失い閉塞していくわけです。

お団子屋さんでも、かばん屋さんでも、音楽の演奏家でも、政治家でも、どんな流れという点を強く意識している状態だと、創造性を否定しているということ。
逆に言うと、創造性なりチャレンジ精神がなくなっているので、正統性なり、本家意識にこだわる必要が出てくるわけです。
芸術的な創造性はともかく、チャレンジ精神なり、現状認識がなければ、ダメダメになってしまうでしょ?そんなダメダメを、「ワタシは正統的な流れだから・・・」と弁解しても、ますますダメダメになるばかりですよ。

(終了)
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発信後記

現在このメールマガジンは週3回のペースで発行しています。
5月から週2回に変更する予定です。バックナンバーのサイトのリニューアルなどもしなくてはいけませんし。水曜日を廃止して、月曜日と金曜日の配信にする予定です。
読むのもタイヘンでしょうが、書く方はもっとタイヘンですからね。

5月初頭はゴールデンウィークですから、購読者の方々も色々とあるでしょう。ですから、そのゴールデンウィークがあけたら、当初最終回として予定していた、とある小説を取り上げます。文章はほぼ上がりました。長いので8回に分けて配信いたします。

どうせなら、その小説を実際に読んでいただきたいので、実質上の予告編といえる最初の2回を配信した後で、2週間は別のお題に移り、そして残りの6回をまとめて配信する予定です。その2週間のうちで、読んでくださいな。

今からその小説のタイトル名を出して、事前に読んでもらうようにすればいいじゃないの?
と、おっしゃりたいでしょうが、予告編を出した後で、関心を持った後で読んでもらった方がいいと考えた次第。
予告編である第1回の分をお読みいただければ、必ず関心を持っていただけると思っています。「えっ?!」と思うはずですよ。
R.10/11/14