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カテゴリー | ダメダメ家庭の親のキャラクター |
配信日 | 06年4月26日 (10年10月7日 記述を追加) |
タイトル | 評論家風 |
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。 自分自身で考え、対処するという意識がないわけ。 いわば傍観者然としたたたずまいとなってしまう。 だからその物言いも評論家風のものが多くなるわけです。 「あの人の意見はどうこう・・・」 「あの○○大学の△△教授の意見はちょっと極端かな?」 「このメールマガジンの考えは気に入らない・・・」 「この本に書いてあることには満足できない!」 そのような、上から目線の感想が頻発してくるわけ。 人間は当然のこととして、他者の考えに感想を持つでしょう。自分とは違った人の考えなのだから、無理に同意する必要はないわけ。 だから重要なことは、他者の見解を聞いた後で、「じゃあ、自分はどのように思うのか?」その点について、自分自身で考えることですよね? 「この人の文章のどの点が気に入らないのか?」 それをたたき台にして自分自身で考えれば、自分自身の考えだってまとめやすいでしょ? 当事者意識の欠落したダメダメ家庭の人間とやり取りをすると、そのあたりまで行くことが少ないんですね。 他者の見解への漠然とした感想を表明するだけで、「自分はどう考えるのか?」「自分はどうしたいのか?」「自分だったらこのように書く。」そんなところまで行かないわけ。 自分の考えを文章にまとめ上げることは、文章力の問題もあります。すべての人ができるというわけではないのでしょう。 しかし、頭の中で試行錯誤することくらいはできるでしょ? 私のメールマガジンにもご意見を寄せられる方もいらっしゃいます。あるいは、別のところで感想を表明する人もいるようです。私に対してお便りをされる場合でも、漠然と「気に入った」とか「気に入らない」のケースもあったりするわけ。 そうなると、私の方からは「では、アナタ自身はどうしたいの?」「アナタ自身はこの問題についてどう考えるの?」「こんな状況になったら、アナタはどのように対処するの?」と言ったりします。 その段になって「そう言えばそうですね。その面が抜けていました。」と回答する場合は、それなりのやり取りが可能となります。「自分だったらどうする?」と言うことを常に考えるということは、まさに当事者意識ですからね。 しかし、骨の髄まで当事者意識が欠落している方だと、「では、アナタはどう考えるの?」と、こちらから問い合わせても、素通りだったりするわけ。 ただ延々と、「あの人の考えは、どうこう。」「この文章は面白い。」そんな調子の傍観者然とした感想が延々と続くだけ。 別のところでも書いておりますが、ダメダメ家庭の人間は自己逃避であって、自分なりに考えをまとめることができず、感想どまりになってしまう。 だからこそ、そんな感想を言いたがる。 しかし、逆に言うと、感想どまりの人間が発した感想などは、何の意味もありませんよ。 自分で直面している事態を解決していこうと、必死になっている人が持った感想だったら、示唆的なこともあるでしょう。しかし、人の業績を論評しているだけの人の感想などに何の意味も価値もあるの? 私個人は、購読者の方がご自身で考えるように、ある意味において、極端な視点も提示したりしています。むしろ違和感を持ってもらいたいわけ。演劇の用語でいうと異化と言ったところです。ブレヒトと似た発想なんですよ。 その違和感から、「じゃあ、自分だったらこう考える。」というところまで読者さんが至ればそれでいいと思っています。 私の文章に、漠然と納得されても、意味はないわけ。 納得するとか、納得しないとかの問題ではなく、示唆的であることを目標としているわけです。たまに書いておりますが、「見えているものを、見えるようにしたい。」というだけです。 当事者意識を持って事にあたっているのなら、他人の考えを論評しているだけでは済まないでしょ?自分の問題がどの程度まで前進したのかが重要でしょ?それこそ、「離婚しようか?」などと考えている事態なら、石にかじりついても、自分に役に立つ考えなり知識を得ておかないとダメでしょ?しかし、当事者意識がないダメダメ人間は、そんなクリティカルな事態になっても、「あの人はどうこう・・・」「この本に書いてあることは極端だ!」そんな論評ばかり。かと言って、当人自身は自身の希望を言えないし、現状を客観的に説明することもできない。そして、「あ〜あ、どこかにいい情報はないかなぁ・・・」「あ〜あ、誰か、ワタシを助けてくれないかなぁ・・・」と周囲を見回すことになる。 そんな論評を聞かされた方が思うのは、「はは、ノンキだねぇ・・・」。 しかし、当人がそんなノンキであるがゆえに、周囲の人も、ノンキでいられる。 逆に言うと、必死で頑張っている人にしてみれば、そんなノンキさを見せられれば腹が立つでしょ? だから、自分の目標を達成しようとしたり、問題を解決しようと必死になっている人と、そんな姿をノンキに論評しているだけの人は、まさに二極化するわけ。 達成したい目標自体は、人によってヴァリエーションがありますが、その達成に向き合う覚悟については、どんな目標でも、それほど変わりませんよ。 目標達成のための覚悟のない人が、集まって、お気楽な論評会議。 集団での会議にはならなくても、悪戦苦闘している当事者から隠れて、傍観者風の独り言を言っているだけになってしまう。 そして、そんなことばかりやっているから、それが当たり前のこととなってしまう。 逆に言うと、そんな自堕落なことができるように、自分なりの目標を掲げることから、ますます逃避してしまう。 何かについて、本当に論評したいのなら、他者の見解に対する単純な感想を述べるのではなく、自分の成功体験というか達成体験との比較において語ればいいだけ。 「オレはこうやって、このようなことを達成したぞ!」「だから、この見解では、実効性が不十分だ!」 そんなことが語れるのなら、聞かされる方も真剣に聞きますよ。 たとえ、その表現が上手でなくても、内容において、それなりに示唆的である可能性もあるでしょ? 論評の達人から論評されても、鬱陶しいだけですよ。 目の前にある困難さをどうやって打開していくのか?そんなことを真剣に考えていたら、他者の考えを論評しているヒマなんてありませんよ。 他者の見解も、必要に応じ、「利用」すればいいだけ。 実際のやり取りでも、他者の見解や業績に感想を言うだけの人っているでしょ?そんな物言いは格好がいいのかもしれませんが、当事者意識がありませんよね? 当事者意識がないということは、被害者意識があるということ。そんな人は、何か状況が悪化すると、その被害者意識に火が付いて逆上する・・・そんなことも簡単に予想できるわけ。 予想できるというか・・・実際に体験なさった方もいらっしゃるのでは? そんな人からは早めに距離を置くことが、身のためなんですね。 それに、そんな人と話をしていても、つまらない感想や論評を聞かされるだけなんだから、面白い人とも役に立つ人とも言えないでしょ? 人のことを論評しているだけの人が集まって、人の成果をけなして一緒になって喜んでいて、そして、やがてはお互いをけなしあい、修羅場になってしまう。 なんとも見事なまでの予定調和の世界。 そんな流れが、インターネットの掲示板くらいでとどまっていればまだしも、それこそ結婚して、そんなことをやったりするのがダメダメ人間。 逆に言うと、そんな流れは、見る人が見ると、簡単に予想できるものなんですね。 自分で達成したい目標とか、解決したい問題を見ようとしない人ほど、人のやっていることを論評して喜んでいる。逆に言うと、そのヒマがあるし、それ以外はすることがないわけ。 そんな人が子供とどんな話をするの?子供に対して、人の論評や、人の成果に対する感想を言うだけなの? そんな話を聞かされた子供はどうなってしまうの? そうやって、当事者意識の欠如も連鎖していくんですね。 そもそも、子育てに当事者意識がないからこそ、覚悟も将来ヴィジョンもなく、子供を作ってしまう。 そして、その子供が問題行動を起こしたりすると、肝心の子供本人は放っておいて、「時代が悪い!」とか「政治が悪い!」とか、「悪いのは全部○○のせいだ!」と、評価者然で論評する。 あるいは、「ウチの子にも、困ったものだ!」と自分の子供に対しても評論家風の論評。 そんな論評を聞かされて思うのは、やっぱりコレ。 「はは、ノンキだねぇ。」 (終了) *************************************************** 発信後記 5月からこのメールマガジンは週2回の発行頻度にいたします。 月曜日と金曜日の配信です。 ということで、水曜日の配信は今回が最後です。 |
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R.10/10/7 |