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カテゴリー 文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 06年6月2日
タイトル 「谷間のゆり」(自分自身がわかってない 編)
作者 オノレ・ド・バルザック
ダメダメ家庭の人間は、まず何よりも、自分自身のことがわかっていない。当事者意識がないので自分自身の問題を自覚することはないわけ。

この「谷間のゆり」でのアンリエットもその典型と言えます。
自分自身の特性なり問題点を、まったく自覚せず、自分の周囲にいる人間を評価する言葉を乱発している状態となっている。そして、自分の欠点を他者に投影している状態になっている。
アンリエットが他者を評価する言葉が、そのまま、このアンリエットの自身の特性を描写しているんだから、ある意味において笑えるわけ。

この小説の特質として持っている「書簡体」というスタイルは、このような面を強調するのに有効なんですね。登場人物が持つ主観と、実際の客観の間に大きなギャップがあるわけです。
読んでいると、「登場人物であるアンタは、周囲の人をこのように評価しているけど、その評価の言葉って、アンタそのものに『あてはまる』じゃん!」そう思ってしまう。
そんな表現が実に多く登場しています。

たとえば、アンリエットが自分の夫について、「本当にどうしようもない夫だ・・・」と、具体例を挙げて延々と説明して、「まったくあの人はグチっぽくてイヤになっちゃう!」なんて調子ですが、「あの人は、グチっぽくってイヤ!」と延々と表現する言葉はそのままグチですよね?

その点については、フェリックスも実に似ている。たとえばフェリックスはアンリエットの夫をこう描写しています。
「まるで、お妾くらしの女みたいに、しきりに頼んだり、願ったりさせては、おそらく実際にそうであるだけに、かえってありがたそうな様子を見せまいとしています。」
これはアンリエットの夫のモルソーフ伯爵についての描写ですが、これはそのままアンリエットの描写としても完璧です。
アンリエットの言葉を聞くことになるフェリックスは、相手であるアンリエットのことが何もわかっていない。本来なら、「オマエが言うなよ!」とでも突っ込みを入れるシチュエーションですよ。あるいは、「アンタ・・・自分の言っていることが分かって言っているの?」と、呆れる場面と言える。逆に言うと、それだけ相手のことが見えていないわけです。アンリエットも、フェリックスも目の前にいる相手に恋しているわけではないわけ。自分の中にいる幻想の中で「恋に恋している」だけ。

あるいは、フェリックスがアンリエットを絶賛して言う。
「彼女は孤独な生活が心に呼び覚ます詩を、かつていかなる詩人も歌い得なかったほどに巧みに語りました。」・・・なんだそう・・・まあ、いいんですけど、この表現は文学的修辞に満ちていますが、それって要はグチでしょ?まあ、フェリックスは絵に描いたように「アバタもエクボ」状態。それもいいけど、それだけではダメでしょ?たとえ、当時はそうであっても、書簡を書いている現在はどうなの?

あるいは、アンリエットがフェリックスにアドヴァイスを送るわけ。
それが秀逸というか、ギャグとなっている。
「ある女はその不幸な身の上があなたの心をひきつけ、その様子は女の中で一番やさしい一番おとなしい女のように見えるでしょう。けれども、いよいよ自分がなくてはならないものになってしまうと、次第にあなたを引き回し始めて、自分の思うようにさせるのです。」とのアドヴァイスの言葉が登場してきます。

アンリエットは、フェリックスに宛てて、「そんなヤクザな女に気をつけなさいよ!」とアドヴァイスを送っているわけですが、そのヤクザな女って、まさにアンリエット自身の描写として完璧なもの。

あるいは、「また、ある女はどこまでも下手に出てあなたの心を惹こうとして、まるで侍女のようにあなたに仕え、小説さながらに世界の果てまでついて来て、あなたの心を引きとめておくためなら身を危うくすることもいとわず、それこそ小さな宝石のようにあなたの頬にくっついているでしょう。」とのアドヴァイスというか予言を語ることになる。
まあ、このアドヴァイスも「そんなヤクザな女に気をつけなさいよ!」ということなんでしょうが、アンリエットが語るこのヤクザな女の描写も、そのままアンリエット自身の描写として完璧です。
なにしろ、頬にくっついている小さな宝石の代わりに、手紙を渡して、いつまでもグチを言い続けているわけですからね。

事態を改善するためには、まずもって自分自身の現状をよく認識することが第一でしょ?
しかし、この手の人は、自分自身がまったくわかっていないわけ。ただ、「ワタシはかわいそうな被害者だ!」そう思っているだけ。
これじゃあ、うまく行くわけがないでしょ?

しかし、「自分のことがわかっていない」アンリエットにも、自覚のあることがあります。
彼女が言うわけ。「ワタシは独占欲が強いわ!」あるいは「嫉妬深い女よ!」
この点は自覚があるんですね。

独占欲とか嫉妬深いというと、「要は愛情が深いということなんじゃないの?」そう思われる方も多いでしょう?
しかし、「彼はダメダメ!」と自分の夫への不満を散々漏らしていますが、そんな夫を独占しても意味ないでしょ?さっさと手放してしまった方が自分のためですよ。それこそ夫である伯爵が、パリで愛人でもこさえてくれれば、願ったりかなったりですよ。そうなれば、晴れて離婚して、フェリックスと再婚できるというもの。ダメダメな夫を独占する必要なんて全然ありませんよ。

どうして、そんなダメダメな夫を独占しようとするの?
だって、彼女にとってダメダメな自分の夫は、「きわめて都合のいい」グチのネタなんですね。「こんなおいしいネタを他人などに渡すもんか!」内心ではそう思っているわけ。
彼女はグチのネタを独占したいと思っているわけ。またグチの聞き役であるフェリックスに対しても、独占欲が強いわけ。愛ゆえに、独占したいと思っているわけではないんですね。

このようなことって、ダメダメ家庭では頻繁に見られることですよね?
「ウチの子供は困った子だ!出来の悪い子どもだ!」と、子供への不満を日頃から口走っている親に限って、子供を外の世界に出そうとはしないでしょ?そんなに自分の子供が不満なら、さっさと外に出して縁を切ればいいじゃないの?どうしていつまでも自分の手元に置こうとするの?しかし、ダメダメな人間は、グチのネタに執着するわけ。手元において「この子供のためにうまく行かない!」とグチる。

自分自身がわかっていない人は、やたら他者を批評したがるもの。だから、そのネタとなる他者が必要になるわけ。自分が被害者であることの理由としても、その被害話を語る相手としても、誰かが必要になるわけです。
被害者として自分を語るためには、被害者という立ち位置を説明する「加害者」の存在が必要になりますし、その説明の対象として、どうしても他者が必要になってくるわけ。
誰かとの関係性の面が主となり、自分自身が従となってしまっている。
逆に言うと、自己逃避の人間にしてみれば、関係性を主とすることにより、自分自身ではなく、関係性だけをみていればいいだけなので、心理的にはラクになる。 だから、ますます自分自身がわかっていない状態が加速してしまう。

アンリエットとフェリックスの間では、愛の言葉が飛び交いながら、そこには「恋愛」がないわけ。そこにあるのは、ただ愛の幻影だけ。そしてその愛の幻影に逃げ込んでいるだけ。
他者については散々と評価しながら、自分自身については何もわかっていない。
自分から逃避するために、ボランティアなどには熱心。しかし、自分自身をはじめとして、自分の身近な人間は幸福にできない。ただ、自分の善意に酔いしれているだけ。みせかけの善意によって、自分の本心に覆いを掛けてしまい、善意の幻影に浸っている状態に安住する。

だから、助ける対象がなくなると「自分のためにビクビク」とするようになってしまうわけ。それだけ自分自身を見つめるのが怖いんですね。
この手の人は、まずもって、「自分自身をだましながら」生きている。「ワタシは○○による被害者だ!」そう言い聞かせながら、自分を納得させている状態。自分自身をだましているので、周囲の人も簡単にだまされてしまう。別に意図的に周囲をだまそうと思っているわけではないのですが、自分をだます「ついで」に周囲もだまされてしまうんですね。

19世紀の小説なのに、なんとも、まあ、現代的な!!
いや、現代的というより普遍的と言えるのでしょうね。
人間なんて、昔から全然変わっていませんよ。
購読者の皆様だって、そんな人を具体的に知っていたりするでしょ?

(終了)
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発信後記

約1年前に、例の長崎県の小学6年生の事件における「手記」を取り上げました。
その父親が2周年記念の手記を発表したそうです。
インターネットに手記が載っていました。
私がみたアドレスは
http://www.asahi.com/national/update/0531/TKY200605310377.html?ref=rss
です。
その他のサイトにも載っていると思います。
一度読んで見られることをお勧めいたします。

1年前の「手記」について、割と詳細に考えてみましたので、今回の手記については、「付け加える」ものはありません。あるいは、「訂正」するものもありません。

話は変わりますが、現在少子化問題が声高に言われており、まさに昨日の発表では少子化がより進行したとのこと。
しかし、子供のためには、親としてはどんなことが必要なのか?資金は?時間は?将来は?などと真剣に考えれば、子供なんて多くは作れないでしょ?

興味深いことに、いわゆる下層階級が多く住む地域ほど、子供が多いように感じます。全世帯を平均するとそれほど違いはありませんが、子供を持っている世帯だけに限定すると、子供の数に明確な傾向が出ているように思います。

それこそ自転車に子供3人乗せて、お買い物・・・なんて光景が頻繁に見られる地域もありますよね?
ダメダメ家庭の人間は、会話の能力がないので、相手をしてくれるのが子供だけになってしまう・・・だから子供をほしがる。
そしてダメダメ家庭の人間は、子供に何か与えるというより、子供から何かをもらうという発想・・・だから子供をほしがる。

だから、子育てに真剣に向き合う家庭の子供の数は、どんどん減って、「て・き・と・う」に子育てする家庭の子供の数はどんどん増えてしまう。
そんな家庭で育った子供に罪はないのですが、周囲がしっかりケアーをしないと、やっぱり事件が起きてしまう・・・

しかし、現実には、本来は、そんな家庭の子供をケアーしないといけない周囲からしてダメダメになってしまっていて、子供がますます追い込まれて、ドッカーン!となってしまう。

少子化対策ということで、子育てに関する経済的な支援策云々が言われていますが、そんな経済的支援を当てにして子供を作るような家庭が増えると、マトモな家庭では「別の」経済的な支出が発生しますよね?

ダメダメ人間は被害者意識が強く、声高に自分の被害を語るもの。そんな被害話ばかり語る人間の意見ばかり取り上げていると、新たに別の被害が発生するだけ。

長崎の事件の新たな手記を読んで・・・この人がどんな子育てをしたか?ちょっと想像してみてくださいな。
そういう意味で、やっぱり参考になる手記だと思います。
R.10/12/2