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カテゴリー ダメダメ家庭の人間の行動
配信日 06年9月19日 (10年10月6日,11年2月7日 記述を追加)
タイトル 安い自己主張
インターネットのニュース欄を見ていて、最近目立つのが、いわゆる「ブログの炎上」事件です。
なんでも、ちょっと刺激的な文章があるブログに抗議の書き込みが殺到して、まさに「炎上」するんだそう。
私個人は、ブログにはあまり関心がありません。書く方にも、読む方にも。
しかし、たまには「じゃあ、どうして炎上したのかな?」と思って、そのニュースの文章を読んでも、よく分からない。
ブログの読み手を立腹させた文章と言っても、ある意味において、たいした文章とはいえない。

自慢じゃあ、ありませんが、この私のメールマガジンの文章の方が百倍もヤバゲな文章ですよ。それに、そんなヤバゲな文章を乱発しているし・・・質&量ともにヤバイのに、どうして炎上しないんだろう?まあ、ブログじゃないから無理かな?
私のメールマガジンのバックナンバーのサイトはブログではなく、昔ながらのホームページです。というか、私は最新技術なんてわかりませんよ。しかし、感想のメールは出せるように設定しています。実際に、逆上メールもたまに、つまり単発的には、いただくこともあります。
ブログに抗議の文章を書き込めるのだから、抗議の文章をメールにまとめることくらいはできるでしょ?

だから、「どうして、そのブログが炎上したのか?」という疑問とともに、
「どうして、私の文章に、抗議メールが殺到しないのか?」
そのような疑問もわいてくるわけです。
なんとも、身もフタもない疑問だねぇ・・・

ブログだったら、抗議の文章を書き込めることができるけど、メールの文章には出来ない。
これって、ヘンでしょ?
その抗議の心情が、自分の心からのものだったら、多少の困難さがあっても、その「怒り」なり「疑問点」を相手に伝えようとするものじゃないの?
あるいは、相手に伝えないまでも、それを客観的な形の文章にしてもいいのでは?
ブログにおいて相手に抗議するのも、あるいは、インターネットの掲示板で罵詈雑言を書き込むのも、所詮は刹那的な感想のレヴェルでしょ?

さて、以前に「掲示板常駐者」というお題で文書を配信した中で、「おしゃべりと会話は違う」と書きました。
会話というものは、「相手の話を真摯に聞いて、自分の考えを相手にわかりやすく伝える。」その往復運動ですよね?
その往復運動の中から、相互理解が深まり、お互いが成長していくわけでしょ?
おしゃべりによって相互理解が深まるというものではありませんよね?「ああ!あの人とおしゃべりをして楽しかった!」それでオシマイ。
おしゃべりって、所詮は、その程度のものでしょ?

インターネットの掲示板も、ブログも、そんなおしゃべりの発展型でしょ?そんなおしゃべりレヴェルにムキになって、もっとヤバゲな私の文章にはムキにならないの?
どうして、私の文章には、抗議のメールが殺到しないの?
そもそも購読者数が少ない・・・これは厳然たる事実でしょう。
しかし、誰かが「コイツに抗議のメールを送ろうよ!」と、それこそインターネットの掲示板で呼びかけるようなことはしないのかな?
というか、文章が長すぎて、文章の最後まで読んでいる人が少ない。
これは確実にありそう。
あるいは、文章がそれなりに理路整然としているので、気後れしてしまう。
こんなところでしょうか?

ブログの書き込みに対しては、反論できる人が、私の文章には抗議のメールを送れないのだったら、それも問題ですよ。
そもそも、問題になったブログの書き込みと言っても、所詮はインターネットの掲示板の書き込みに「毛」が生えたようなものでしょ?
それらの文章って、会話ではなく、おしゃべりのレヴェルですよ。文章自体も、単にちょっとした感想を書いただけの「軽い」ものでしょ?
だからこそ、炎上したりすると、その文章をさっさと引っ込めたりするんでしょ?
しかし、トラブルが起こったらさっさと引っ込める文章は、その内容よりも、その意気込みにおいて、問題があるんじゃないの?そんな文章自体も、内容というより、そもそも扱いが「軽い」よね?私としてはそんな軽い文章なんて、わざわざ読む気がないなぁ・・・

そんな軽い文章に、軽いスタイルで特攻して、大喜び!
いやぁ〜、何て、お軽い世界なの?

私の文章の方が理路整然としているだけ、逆に、反論しやすいでしょ?だって、論理も明確なんだから、反「論」もしやすいじゃないの?
おしゃべりにムキになっても、会話の状態からは、さっさと逃げ出す。
反論の論旨の問題よりも、そのような態度こそが問題なんじゃないの?

ダメダメ家庭は会話不全を、その特徴としています。
そして、当事者意識がないので、「自分が本当にしたいことは何なのか?」それについて考えることから逃げている。
その手の人が、「主張」したいのは、「ワタシは悪くない!」そんなことくらい。
しかし、それって「軽い」ということ以上に、「安い」よね?
もちろん、人間は常にシリアスな会話をしているわけではありません。おしゃべりだってしますよ。
しかし、自分の思いを真に伝えようと思ったのなら、やっぱり「相手の考えをちゃんと理解し、自分の考えを相手にわかりやすく伝える。」必要があるんじゃないの?つまり会話の精神でないと、真の自己主張なんてできないでしょ?

ブログやインターネット掲示板のような「軽い」おしゃべりの場所に首を突っ込むのはいいとして、「じゃあ、アンタが本当に主張したいことは何なの?」そういう問題になりますよね?

人の書き込みにケチをつけて喜んでいて、それでオシマイなの?
そんな人間が、じゃあ、どんな親になるの?

「自分が何をしたいのか?」
その自覚がちゃんとあれば、そのための有用な情報を集めて、いらないものは捨てればいいだけ。わざわざ「つまらない」文章に、つまらないクレームを付ける必要もありませんよ。
本当に反論したいのなら、自分でしっかりとした文章にまとめた方が説得力が出るでしょ?

ブログや掲示板なりの、「軽い」領域も、それなりに価値があるわけですが、そこにとどまっていたら「安い」まま。
自己主張が安いままということは、人間としても「安いまま」ということでしょ?
本体が安いから、出て来るものも安いものしか出てこないんでしょ?

さて、今回この文章を配信するのは2つの具体的事例があったからです。

先日、購読者さんよりお便りがあって、なんでも『他人を見下す若者たち(「自分以外はバカ」の時代)』という書籍が話題になっているそうで、その読者によるレビューが、まさに炎上状態なんだそう。
私はその書籍を読んでいないので、内容については云々しませんが、本の内容が「気に入らない」からと言って、レビュー欄を炎上させても、しょうがないでしょ?そんな炎上状態こそが、レビューした側の人の資質を雄弁に物語っている・・・そんなものですよね?まあ、だからこそ、そんな本が話題になるわけですよ。

具体的な別の事例として、たまに起こる過激な政治デモも同様に考えることができるでしょう。
以前にこのメールマガジンで、「集団ヒステリー」というお題を取り上げました。その手の現象は、インターネットの掲示板とか、韓国や中国のデモ行進などで典型的に見られるものでしょ?
本当に相手に主張したいことがあれば、論旨を明確に、相手に分かりやすいように表現手法に工夫して、表現すればいいだけ。
別の言い方をすると、「異論は許さない」という二重否定のスタイルではなく、「合意をとる」というシンプルな肯定形のスタイルの方がいいのでは?
「逆らうことを許さない」というヒステリックな対応こそが、その人たちのダメダメを如何なく証明しているもの。

このような、集団ヒステリーは、まさに先日、見られましたよね?
ローマ法王が、イスラム教徒の問題を指摘して、イスラム教徒が逆上した一件です。
ローマ法王は、イスラム教徒のジハード(聖戦)という部分を問題にしたわけですが、イスラム教徒は、いつものように集団ヒステリー状態になりました。

自分たちの問題を見つめようとせず、「悪いのは全部○○のせいだ!」と、勝手に他者を犯人認定して、その相手に攻撃を繰り返す。それを指摘されると、逆上して、さらに相手を攻撃する。

イスラム教徒のこのような行為の、どこがマトモなの?
他人から言われるのが不快なら、言われる前に自分で直せばいいじゃないの?

ローマ法王の言葉に絡んでいく呼吸は、まさにブログの炎上と同じ。
自分と意見が違っているのなら、相手に分かりやすい言葉なり、それ以上の的確な論旨で表現すればいいだけでしょ?
ただ、そんな分かりやすい言葉にすることができないんでしょうね。だって、本当のことを言われちゃったから・・・
そうなると逆上するしかない。そして、大がかりで儀式的な行為をすることで、自分をだます。これは自分から逃避しているダメダメ人間のお約束の対応といえます。

そんな連中は、いったいどんな親になるんだろう?
まさに「悪いのは全部○○のせいだ!ああ!オレたちって、なんてかわいそうなんだ!」
こんなことばかり言う親になるわけでしょ?
それでは、そんな親の元で育つ子供が気の毒でしょ?まあ、親と同じようなダメダメ人間にならざるを得ませんよ。

言うまでもなく、今回のイスラム教徒の逆上のシーンは、集団ヒステリーの常連といえる韓国人の対応とまったく同じでしょ?
結局は、ダメダメというものは、世界共通だったりするんですね。
だから、その気になりさえすれば、早いうちから見分けることも可能といえます。

他人のブログを炎上させて喜んでいる人間から、早めに距離を置く。
そうしないと、そのダメダメな要素がもっともっと増大して、関係ない人間まで巻き込んでしまうだけ。「この人たちと、一緒にグチって、騒ぐことができて楽しい!」なんて思っていると、ヘタをすると、自分が犯人認定されるハメになってしまう。こんな事例もよくあるでしょ?
まさに、学校で一緒になって誰かをイジメていたら、いつのまにか自分がイジメられているようなもの。その手の人は、結局は、何かを犯人認定して、つるし上げをしたいだけ。その対象はどうでもいいわけです。

相手に対して分かってほしいことがあるのなら、相手の考えをじっくり聞いて、その上で、相手に分かるように表現する・・・そんなことができない「安い」人間と関わっても、損をするだけですよ。
しかし、逆に言うと、相手に分かってほしいことを自分でも分かっていなかったり、わかってほしいことそのものがない人にしてみれば、誰かのブログを集団で攻撃することくらいしかできない。

そもそも、集団ヒステリーなりブログを炎上させているような人たちが主張していることは、いわば被害感情でしょ?
強い被害感情があるということは、逆に言うと、常に受身であるということでしょ?つまり、その人自身にやりたいことがないわけです。
受け身だからこそ被害になるのであって、能動的に対処したら失敗という言葉になりますよ。当人に、本当にやりたいことがあれば、そんなブログの炎上などをやっているヒマはありませんよ。

そして、その攻撃とやらも、攻撃を受けた側が感心してしまうくらいの見事で的確な論旨の反論ではなく、感情的な言葉を並べただけの悪態どまり。
誰かに対して、反論のメールを送るような場合には、本来は、相手の文章以上の論理展開なり、参照する事例の多さを持っている必要があるでしょ?その見解を読んだ側が「唸る」くらいのものだからこそ、「反論」といえるのであって、その見解を読んだ側が、「呆れたり」、ただ「怖い」と思ってしまうような文章は、「悪態」ですよ。
逆に言うと、だからこそ、ダメダメな人は、ブログのような感想どまりの領域に対してのみ反応することができる。論理展開とか、知的な洞察が必要とされないところでないと、反応ができない。そして、集団化して、数で勝負する。
しかし、数は多くても、反論の文章自体は稚拙なもの。
逆に言うと、そんな稚拙な文章でも対応可能なところでないと活動できない。

そんな人は、自己主張といっても、自己を主張しているのではない。
被害者意識を共有できる連中と群れているだけであって、むしろ自己を消失している。
自分が命を掛けてまで言いたいことなり、分かってほしいことはない。
しかし、そんな安さに徹しているので、同類が集まり、被害者意識を共有して結びつくこともできる。
そんな群れによって、ますます自己を消失してしまう・・・安い自己主張が発生する周辺では、まさにそんな感じになっているでしょ?

お安いコメントを100回するよりも、後々まで残るような1本の文章をまとめた方がいいんじゃないの?逆に言うと、その手の人たちは、客観的で自立性の高い文章をまとめることができない人でしょ?
そんな人が発したコメントには何の価値もありませんよ。

この手の人は、「言いたい」という気持ちは持っていても、「分って欲しいこと」なり「分って欲しいという気持ち」は持っていない。つまり、自分が「何かを言えれば」それで目的が達成されることになる。
だからこそ、「言いやすい」シチュエーションを探している。
「言いやすい」シチュエーションとしては、被害感情を共有できるシチュエーションがその代表といえます。みんなが被害を語っていれば、当人自身もそんな場に参加しやすいでしょ?

しかし、「分って欲しい」ことではないので、自分の考えを説明することとは無縁となる。周囲に合わせて、被害感情を叫んでいるだけになってしまう。しかし、それがその人の雄一の自己主張のあり方となる。
まあ、そんな人がインターネットの掲示板に入り浸っていたり、ニュースサイトのコメント欄にオバカなコメントを書き込んだり、ブログを攻撃するくらいは勝手でしょう。
しかし、何かの間違いで家庭を持ってしまって、子供を作ってしまったらどうなるの?

そんな人の相手をするのは、その人の子供くらいでしょ?
だって、傍観者然として否定的な感想、それも断片的なレヴェルにとどまっていて、客観的な反論になってもいず、単なる悪態しか言えないような人間などは、マトモな人間だったらやり取りをしたくはありませんよ。

ということで、そんな親とやり取りをしてきて子供はコミュニケーション能力のない人間になり、そして、何かを否定するだけの人間になってしまう。
子供は親の作品とも言えるわけだから、見解の方向性はともかく、ちゃんとした責任感のある文章をまとめられない人は、自分の子供をちゃんとした責任感のある子供にできるわけがないじゃないの?
子供の安っぽさは、その親の安っぽさの証明のようなもの。
そして、その子供がトラブルを起こして、よくある物言いである、「子は親の鏡。」とか「親の顔が見てみたい。」とか「この親にしてこの子あり。」と言われることになるわけです。

(終了)
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発信後記

相手にわかるように書く・・・なんて、このメールマガジンではよく書いていますが・・・
じゃあ、オマエの文章はわかりやすいのか?
そう思われる方も多いでしょうね。

メールマガジンだと、対象がどうしても不特定なので、必要以上に書かざるを得ない。この点はどうしてもあります。もし、わかりにくい点がありましたら、質問でもしていただければ結構です。

ご意見などのメールをお寄せになる場合でも、無理に「立派な」文章にする必要はありませんヨ。「相手にわかりやすく」という精神があるかどうか?なんて、読めばスグにわかりますからね。そんな精神があれば、文章だって、だんだんと上手になっていきますよ。
R.11/2/7