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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 06年11月14日 (10年10月10日,11年2月3日 記述を追加)
タイトル どっちが悪いのか?
ダメダメ家庭は被害者意識が強い。何か不都合なことがあると、それを自分の被害と捉え、自分以外の人間を勝手に犯人認定して、その犯人を恨むだけ。そうして、その犯人に対抗し、いやがらせをすることで、自分自身の正当性なりアイデンティティを証明しようとする。
そんな姿は、まあ、韓国人が典型でしょ?

だから、自分自身の問題を、「どのように解決しようか?」なんて考えない。「悪いのは、誰なのか?」「悪いのは、どっちなのか?」そんなことばかり考えている。
そして「ワタシは、悪くないわ!」と連呼するばかり。
「悪くない。」のはいいとして、何もよくならない。だって、その人にとっての「いい状態」というのが、明確にイメージできていないんですからね。
「いい状態」がイメージできない状態だったら、本来は、事態改善も何もないでしょ?
だって、具体的なアクションが見えてこないわけですからね。

このようなことは、このメールマガジンで実に頻繁に書いていることです。
いつも同じことばかり書いているのもナンですが、今回は「どっちが悪いのか?」そんなダメダメ家庭の発想を中心にまとめてみたいと思っています。

と言うのは、実に典型的なニュースがあったからなんですね。
いじめの問題に取り組んでいるNPO(非営利団体)が、学校でのいじめ事件で、「加害者と被害者とどっちが悪いのか?」アンケートを取ったとのことです。そして、そのアンケート結果が、「加害者が悪いわけではない。」との想定外の結果が出てしまったとのことで、マスコミに対して「なんて由々しき事態なんだ!」と、ブリーフィングを行ったようです。

私個人は、そのニュースを読んで、ちょっと笑ってしまいました。

そもそもNPOのようなボランティア団体が、ダメダメ家庭出身者の巣窟であることは、このメールマガジンで頻繁に書いています。会話の能力のないダメダメ家庭出身者は「相手に恵んでアゲル!」なんて立場に立ちたがる。相手より上の序列に立ちたいわけです。
そうやって、同格でのやり取りを回避しようとする。
同格の間柄であれば、会話の能力が必要になりますが、「恵んでアゲル」という立場なら、相手に対して命令するだけでいいでしょ?
だから、ダメダメ家庭の人間は、序列に対して異常にこだわることになる。
「恵む」こと自体が目的化されてしまっているわけです。

それに、ダメダメ家庭出身者は「いい人願望」がある。両親から、「いい子でいなさい!」なんて言われ続けたことがトラウマになってしまっている。だからボランティアなどをして、「自分はいい子である。」ことを証明しようとするんですね。
しかし、そのようなボランティアの連中は、自分の実家について考えることから逃避している。だから結果的に、自分の親と同じようなことを言っていたり、やってしまうことになる。

だから、いじめ事件で「加害者側と被害者側のどっちが悪いと思いますか?」なんて設問のアンケートになってしまう。
そのアンケートの設問のスタイル自体が、重症のダメダメそのもの。
そんな人たちが、「イジメ事件を解決しよう!」と言っているとは!
2000年前のキリストさんだったら、「盲人が盲人を道案内して、一緒に穴に落ちるようなもの。」と言いますよ。

そもそも、「どっちが悪いのか?」という問題に結論を出して、そうして、その人たちは、どうするの?
本来は、「どうするのか?」という問題こそが重要でしょ?人を助けるにせよ、その人が「ワタシは○○をやりたい。」って言っていることをサポートするのがスジってものですよ。
しかし、被害者意識の強いダメダメ家庭の人間は、「自分はかわいそうな被害者。」と認定されれば大満足!そうして「ワタシは被害者なんだから、あとは加害者のアンタたちが何とかしてよ!」と周囲に対処を預けて、自分はフンゾリ返ってしまう。

たとえ、いじめた側が悪いとしても、じゃあ、どうするの?
そんな「悪い子供」をどうしたいの?死刑にするの?教育しなおすの?収容所に入れるの?
「地域や学校全体で取り組んで・・・」なんて、もっともらしいことを言うのは勝手ですが、そんな事件を起こした子供の再教育なんて、責任の空白状態で出来ると思っているの?加害者の子供の側が悪いと本気で思っているのなら、なおのこと気合を入れて、責任体制を明確にして、加害者の子供を集中的に再教育する必要があるでしょ?

被害者の側だって、自分ではなく、いじめた側が悪いと思っているのなら、なおのこと、そんな「悪い」子供が跋扈するダメダメ学校からさっさと避難するのがマトモでしょ?それともいじめた子供の教育を、いじめられた側の子供の両親が責任を持って行うの?それってシュールな発想だねぇ・・・まあ、本当にそんな覚悟があるなら、その考えも考慮するに値するでしょう。しかし、ただ非難しているだけだったら、現状は何も変わりませんよ。

そもそも、イヌやネコだって、自分を殴ったりするような人間の元には近づかないでしょ?そのような事態を、どうやって避けるかについて考えるでしょ?だって、それが自分のためだもん。
「殴る側が悪い!」なんて主張して、その主張が認められても、あいかわらず殴られ続けたら意味ないじゃん。
そんなことは哺乳類の知能を持っていたら、分かること。

「どっちが悪いのか?」そのような問題は議論のテーマにはなるでしょう。しかし、そんな議論の結果に関わらず、「どうすればいいのか?」については、やることは同じなんですね。
確かに、いじめた側の倫理的な「悪さ」は言うまでもないことでしょう。しかし、ただ、その「悪さ」を主張する「だけ」だったら、被害者の側だって知能的に見て致命的に悪いでしょ?

イジメの問題を糾弾するその親は、そもそも自分の子供をどうしたいの?
「立派な社会人になってほしい!」
そう思っているのなら、自分の子供が関わるいじめ問題に取り組むより、そんな問題が希薄なマトモな環境に置けばいいだけ。そうやって、一人前の社会人が必要とする知識なりスキルなりを、習得させればいいだけでしょ?

「自分たちはどうしたいのか?」「自分の子供がどんな人間になってほしいのか?」「どんなことを習得してほしいのか?」
それを考え、行動するのが一番の解決じゃないの?それにそのようなことを考えることは、それほど難しいことではありませんよね?
しかし、まさにボランティアのような連中が現れて、「どっちが悪いのか?」という方向での議論を始めてしまう。
このような事例は、学校でのいじめ問題だけでなく、ドメスティック・ヴァイオレンスの問題でもまったく同じでしょ?

夫婦間で暴力沙汰になってしまうと、ボランティアの連中が喜んでやって来る。「人を見る目」のない人間からしか相手をしてもらえないダメダメ人間にとって、ドメスティック・ヴァイオレンスの被害者というのは、格好のターゲットなんですね。何せ「人を見る目のなさ」については折り紙つきの存在なんですからね。そして「被害者の女性」に対して「アナタは何も悪くないわ!」と同情の声をかけることになる。
そんなボランティアは、「じゃあ、アンタたちは結局はどうしたいの?」なんて絶対に言いませんよね?だから、そのような事態は絶対に解決しない。まさに、今回の珍妙なアンケートが示しているとおり。
結局は、事態がさらに悪化して、「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」と、被害者と一緒になってグチるばかり。
しかし、そんな状況による本当の被害者は、そんな家庭で育たなければならない子供の側でしょ?

イジメの問題でも、「オマエが悪い!」と言って、弱いものをイジメる子供は、じゃあ、いったい何がしたいの?いじめること自体が、その子供の人生の目的というわけではないでしょ?
「ボクは将来は立派なイジメ人間になりますっ!」
そこまで覚悟を決めてイジメているわけではないでしょ?結局は、自分自身で何をしたいのか、分かっていないわけでしょ?
あるいは、いじめられて、「ボクは悪くない!」というのは勝手ですが、その子供は何をしたいの?
あるいは、「どっちが悪いのか?」なんて言いながら、事態に介入するボランティアの連中は、当人自身は何をしたいの?

「どっちが悪いのか?」そのような犯人探しの発想を主張するボランティアによって、「ボクは悪くない!コイツが悪いんだ!」と、別の誰かをイジメることによってその子供を犯人認定する発想を助長してしまう。また、「ボクは悪くない!だから、何もしなくていいんだ!」と被害者の立場に安住する子供を生み出してしまう・・・皮肉ではなく、現実的にそんなものでしょ?イジメとか、つるし上げは、いわば犯人確定の儀式のようなもの。
その背景としては、「どっちが悪いのか?」という発想がある。
ヘンな話になりますが、「ボクがイジメをするようなハメになったのは、コイツのせいだ!」という「自分こそが被害者なんだ!」という関係性を確認するために、誰かをイジメるようなことにもなったりする。

「どっちが悪いのか?」という犯人探しや犯人認定ばかりをやっているので、そんな人は、その「議論」に備えて「あら探し」をしてばかり。ということで、ますます人を否定的に見るようになり、ますます周囲の人間のレヴェルも落ちてしまい、ますますトラブルが起こることになる。
そんな事態を踏まえ、原点から見つめなおすしかないわけですが、自分自身から逃避しているのがダメダメ人間。
実際に、結婚して、トラブルになるような夫婦は「どっちが悪いのか?」という点について散々議論しても、「どうして、こんな人と結婚してしまったのか?」「今後はどうしたいのか?」については何も考えない。だから、同じようなトラブルを繰り返す。

「どっちが悪いのか?」ということを議論することで、「自分はどうしたいのか?」について考えることから逃避する。
そんなスタイルは、何も学校内のイジメや夫婦間の問題だけでなく、親子間でもあったりするでしょ?
ダメダメな親は「子供のせいで、うまくいかない!」と子供を犯人認定。
その子供は、「こんな親のせいで、うまくいかない!」と親を犯人認定。
そして、その親子は、「自分は悪くない。自分は被害者なんだから、何もしなくていいんだ。」と双方とも何もしない。
そして、最後まで「自分はどうしたいのか?」という問題意識に到達することはない。
そういう意味では、まさに、「子は親の鏡」そのものなんですね。

そんな似た者同士だからこそ、「どっちが悪いのか?」で熱くなる。
逆に言うと、そんなことで熱くなっているということは、結局は同類ということなんですね。

このような、「どっちが悪いのか?」という発想が基本となってしまっている状態は、当事者意識がなく、自分で達成したいもの自体を持っていなくて、そして、被害者意識が強く、スグに自分の被害に目が行く人間には、頻繁に起っていること。
本来はそんな人間は、それこそボランティア団体で、ワイワイやっているだけになってしまうものですが、それなりの能力があると、そこそこの地位に上り詰めることもある。

それこそ、11年における日本の首相の管さんは、ボランティアの親戚といえる市民運動上がりの方ですが、常に「どっちが悪いのか?」という視点で物事を見ているでしょ?
そして、「ボクは悪くない!アッチの側が悪いんだ!」と抗議活動を展開することになる。
その抗議の言葉は、内容に意味があるというよりも、「アナタが悪いんだ!」という関係性を自分に確認するための儀式となっているわけです。いわば、「敵認定の儀式」としての抗議活動なり、相手への攻撃なんですね。

管さんは、「ボクは悪くない!アッチの側が悪いんだ!」という点については、散々と主張しますが、自身で達成したいものについては何も語れないでしょ?
管さんは、「悪いのはどちらなのか?」という善悪の関係性のみが存在していて、自分自身の信念は存在しなくなってしまっている。
このような事態はダメダメ家庭の人間にしてみれば、よくある話。

そして、「ボクは悪くない!」と自分に納得させるためにも、儀式的な敵認定の儀式が頻発してしまう。そんな姿は、「懐かないから殴った。」と語る児童虐待の親と心理的に同じとなっている。
自分の子供を殴って殺してしまう親も、子供を殴ることで、「子供の方が悪いんだ。オレは悪い子供をしつけているだけなんだ。」と自分に確認させているわけです。
逆に言うと、子供が悪いと言えるようにするために、あら探しばかりになってしまうし、やり取りにおいて、相手から合意を取るという発想もない。だって、敵と合意するなんてありえないでしょ?後々の認定行為がやりにくくなるだけですよ。

とにもかくにも、「ボクは悪くない!アッチの側が悪いんだ!」と自分を納得させたいだけ。
相手を攻撃することで、「オマエが悪いんだ。」という関係性を確定させようとしているわけです。そして、「オマエが悪いんだから、対処するのはオマエの側だ!」という論理展開になる。
相手を攻撃することで、対処を相手に投げるわけです。
そう見ると、管さんの行動も、自分の子供を虐待して殺してしまう親の行動も、その見通しが付けやすくなるでしょ?

(終了)
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発信後記

今回は、時流に沿って、学校でのイジメ事件について触れましたが・・・
時流どころか多発していますよね?
あるいは、またまた秋田県で、前回と同じような事件がありました。

このメールマガジンは、やたら厳しいことを書いていますので、読んでいて不快になられるケースが多いでしょう。購読を解除する方もいらっしゃるのは当然だと思います。

しかし、このメールマガジンの内容を「ある程度」理解していると、このようなイジメ事件の心理や、自分の子供を殺してしまう心理も理解できるようになると思います。つまり、大きな事件だって、小さなヒントの段階から、予想できるようになるわけ。

「あの人・・・ちょっとヘンな言い方をするなぁ・・・」なんて感じる人がいたら、ダメダメ家庭の観点から考えてみると理解できるようになるわけ。理解できれば、その後の事態の進展や対応策も見えてくる。
自分の関係者を、あのような事件から守るためには、それなりの覚悟が必要になる・・・それが今のご時勢というもの。

キレイ事だけで、守れると思っている・・・そのこと自体がダメダメ。
そんなご立派な正論人間は、自分自身の子供だって、本気で守る気がないもの。
そんな家庭の子供は、常に親に気を使って、自分だけで問題を解決しようとして、事態がニッチもサッチも行かず、結局ドッカーン!!

そして、「ワタシの家庭は立派な家庭だった・・・どうしてこんなことに?!」
まあ、今後も繰り返されるでしょうねぇ。
せめて自分の家庭だけは、そのような事件にあわないようにしたい・・・と思っているのなら、購読をお続けくださいな。
R.11/2/3