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カテゴリー ダメダメ家庭の人からのメール
配信日 06年12月1日 (10年11月7日 記述を追加)
タイトル 略字
ギリシャの哲学者のソクラテスがこう言っています。
「大切なことは、生きることではなくて、『よく』生きることだ。」
その言葉が、言わんとするところは、
「向上心をもって、そして尊厳を持って生きることが重要なんだ。」
「ただ、ボケーと生きていてはダメだ!」というところ。

まあ、当然ですよね?それに、結果はともかく、その意欲だけだったら誰だってできること。
ちなみに、ご存知のようにソクラテスの著作と言うものは存在しません。ソクラテスのお弟子さんのプラトンが、「ソクラテスはこう言った・・・」なんてスタイルで本をまとめているわけ。この点はキリストと一緒。

というわけで、ソクラテスがこう言った・・・というストーリーの中での発言でも、実際は書き手であるプラトンの考えが反映されているケースもあったりします。
たとえば「恋人にするなら、まだヒゲが生えていない若い子がサイコーだよ!」なんてのもありました。まだヒゲが生えていないということは、将来的にはヒゲが生えるということ。
まあ、プラトンはボーイズラヴの人ですから、「理想の恋人像」を先生の名を借りて語ったわけでしょうね。

「おいおい!先生の名を借りて、何てことを言わせているんだよ!」
しかし、哲学より、ソッチの分野の方がわかりにくいよ。

おっとぉ!話が不道徳?な方向に進んでしまいましたネ。では、道徳的なマターに戻しましょう。

ソクラテスの言う「大切なことは、生きることではなくて、よく生きることだ!」を、ちょっとモディファイすると、こうなります。
「大切なことは、伝わることではなくて、『ちゃんと』伝わることだ!」

ダメダメ家庭はコミュニケーション不全の家庭。相手にわかりやすく伝えるという、会話の精神がないわけ。物言いが「て・き・と・う」で、いわばズボラ。「こう言っときゃ、アイツにはわかるだろ?」そんな感じ。
そんな「わかりやすく」伝える精神が希薄な具体例として、今回は略字の使用を取り上げましょう。

それこそ、この文章はメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」の文章ですが、メールマガジンを(Mail Magazine)でMMと省略する人もいます。あるいは、ダメダメ家庭で起こる事件として家庭内暴力の問題もあり、それは英語でドメスティック・ヴァイオレンス(Domestic Violence)ですからDVなんて略されたりもしますよね?
あるいは、それこそパソコン関係だったら、その種の技術用語が多くなり、必然的に略字も多くなる。たとえば、コンパクト・ディスクをCDとするような場合だったら、コンパクト・ディスクと正式に言われてしまうと、逆に一般的ではなくなってしまう。それこそDVDを「Digital Versatile Disc」と正式名称を使っても、逆にわかりにくくなるだけ。だから、略字もケース・バイ・ケースとは言えるでしょう。CDはともかく、フロッピー・ディスクを「FD」と略す人もいますが、それだと、ちょっと不親切と言えるのでは?文章でのやり取りにおいては、できるだけ正確に記述した方がいいでしょ?

まあ、大体においては、そのような表記でもわかりますよ。話の流れなんてものもありますからね。ただでさえ、この私は勘がいいんだし・・・
まあ、「キーボードをたたく回数を減らすために、省略したい!」
そう思って略したのでしょうか?

しかし、相手にとりあえずで意味が伝わるということと、わかりやすく伝えようという「気持ちも含めて伝わる」と言うことは、全然別物でしょ?
できるだけ丁寧に表現しよう・・・という気持ちが感じられたら、たとえば、別の箇所でわからない言葉があっても質問することができますよね?
「アナタが、さっき言っていた○○って、どういう意味なの?」なんてね。
わかりやすい表現をしている人なら、そして、「わかってもらおう。」という意欲がその表現が見える人なら、文章を読んでいたり、話を聞いていてもわからないことがあっても聞けるわけ。だから、ますます会話が進展する。

しかし、MMなりDVなりHNなりの表記が連発されていたら、聞けないでしょ?
そんな略字が乱発されている場所は、つまるところ「関係者以外立ち入り禁止」なんてことなんでしょ?「わからないヤツは、来るな!」・・・彼らはそう言っているんだろうなぁ・・・そう思いますよね?いわば排他性を感じるものですよね?

あるいは、やたら表記を短縮するということは、それだけ「面倒に思っている」わけでしょ?そんな「不親切な表現」をしている人に質問することはやっぱりできませんよ。
略字が飛び交っている状態だったら、たとえ、その略字の意味がわかっていても、会話は発展しないものなんですね。

伝えたいと思っていることがあるのなら、相手に配慮して、出来る限り正確でわかりやすく表現する・・・って、コミュニケーションの基本ですよね?基本的な心構えができていないのに、コミュニケーション能力が向上するわけがないじゃないの?
略字ではなく、正式名称を使うことって、実際に、それほど面倒なことなの?
「コンパクト・ディスクと表記するのか?CDと表記するのか?」も、相手に合わせて選択する柔軟性も必要なのでは?と同時に一般的な呼称からあまりに外れないように配慮する必要があるでしょ?やり取りにおいては、相手にとってわかりやすい記述を使うという「気持ち」が見えるようにしないとね。

実際に面倒に思っているかは別として、略字を頻繁に使う人の文章と、できるかぎり正式名称を使う人では、文章全体の明確性のレヴェルも違っているものなんですね。
上手な文章を書く人は、そんな略字なんて、相手がわかると確信していない限り使わないものです。
しかし、会話の精神に欠けたダメダメ人間は、最初のコンタクトから、そんな略字が入った文章だったりするわけ。そもそも、文章全体が不親切なんですね。単に、その略字の正式名称がわかりにくいという問題ではないわけ。

「わかるだろうから・・・それでいいじゃん!」
それも、その人の考えでしょう。

しかし、「より」わかってほしい!「よく」わかってほしい!
そう思っているのなら、略字なんて使わないでしょ?
そして、日頃からそう思っていないと、表現なんて上達しませんよ。

「伝わるからいいじゃないの?だってぇ・・・書くのもメンドウだしぃ・・・」
まあ、確かにそれも人間の姿。
そして、
「料理なんて不味くたっていいじゃないのぉ・・・一応は食べられるし・・・」
まあ、それも一理あります。そして、
「産んでもらっただけでもいいじゃないか?贅沢言うな!!」

まあ、そうなっちゃいますよね?
そんなダメダメな親に育てられた人間は、何も意識をしないと、同じようなことをやっていたりするもの。略字って、まさに、そんな発想と共通しているでしょ?
自分が書いた文章に略字があったりすれば、その時点で自分を見つめ直してみる・・・
それくらい、誰だってできることでしょ?

それこそ、この文章においては「コミュニケーション能力」なる言葉を使っておりますが、あるところで「コミュ力」なる文言を見たことがあります。まあ、「コミュニケーション能力」という言葉を「短くした」んでしょうね。
しかし、そんなズボラな態度だからこそ、コミュニケーション能力が低いんでしょ?
「本文はともかく、タイトルには字数制限があるので、タイトルの表記において限定して使った。」ということなら、まあ、しょうがないわけですが、だったら本文中で、「コミュ力(=コミュニケーション能力)」とかの記載を設けておく必要があるでしょ?

できるだけ、正式名称を使うという態度を示すことが、多くの人にわかってもらうことに通じるでしょ?結果的に通じる通じないの問題以上に、「わかってほしい」という気持ちを見せることが重要なんですね。略字が横行してしまうと、その場は閉鎖的で排他的になってしまう。そして、同じようなズボラなやり取りができるところしか行けなくなってしまう。
ズボラな雰囲気になじんでしまうわけ。
そうしているうちに、一般常識から遊離してしまう。
結局は、そんな閉鎖的な場所に順応してしまって、ますます、ズボラなコミュニケーションになってしまう。
あるいは、文章中に、ズボラな表現を入れてしまうと、文章全体が、それにフィットした表現になってしまう。だから、結果的に文章全体が、ズボラ臭漂うものになってしまうわけ。

その挙句に、「どうしてミンナはオレたちのことをわかってくれないんだ?!」と嘆かれても、呆れるだけですよ。
表現のヘタはともかく、その人なりの最大限の配慮と能力を持って、表現することが必要でしょ?

何も難しいことを申し上げているわけではないんですよ。
コミュニケーション能力を高めるためには、「コミュ力」なる文言ではなく、「コミュニケーション能力」という言葉を使った方がいいよと申し上げているだけです。そんなことは誰でもできることでしょ?

最初に挙げたソクラテスの言葉である「大切なことは、生きることではなくて、『よく』生きることだ!」ですが、まさに『よく』生きる・・・ではなく、『ただ』生きている姿・・・これを何と言うでしょうか?
まさに、ダメダメ家庭にお約束の「ふ・つ・う」でしょ?
まあ、それでいいのなら、略字をどんどんと使うのもいいんじゃないの?
しかし、そんなやり取りで、どんな知見が得られ、どのように向上できるの?
そんな人とのやり取りが有意義だったことはあるの?
それこそ、このメールマガジンの本題といえる機能不全家庭に直接的に関わる言葉といえるアダルトチルドレンをACなんて略す人もいるようです。しかし、アダルトチルドレンその人というよりも、ACなんて略字を使う人とのやり取りで有意義なことはありましたか?
私としてはACなんて略字を使う人とは交流したくないなぁ・・・

(終了)
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発信後記

当然のことながら、略字を使われた方を非難しているわけではありませんよ。
「できるだけわかりやすく書く」という視点から、見直してみたら?と申し上げているだけです。

実は、その手の略字が多い文章を読むと思ってしまうのは、「どうしてそんな略字を使うのか?」と言うことではなくて、「どうして、今まで誰からも、そのことを指摘されなかったのか?」ということなんですね。

面倒くさいとか排他性とか自分に甘いとか・・・典型的にダメダメの様相を呈している者同士が集まって、グチ大会。周囲がそんな情況だからこそ、誰も略字の問題を指摘しなかったわけでしょ?
いわば「類は友を呼ぶ」状態。

そのようなことを指摘されるような環境に自分の身を置く・・・って、ダメダメからの脱却の第一歩。ただ、それって言うは易しで、現実は難しい。
しかし、ちょっとしたことから見直していく・・それくらいはできるでしょ?
R.10/11/7