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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神
配信日 07年4月6日 (10年8月17日,11年2月12日 記述を追加)
タイトル 肉親の情
ダメダメ家庭の人間は「人の気持ちが分らない」人が多い。だって、ダメダメ家庭なんて、そもそもマトモな精神状況ではない人たちが作った家庭と言えるわけでしょ?そんな家庭環境で育ったら一般的な人間の心情なんて分かるようにはなりませんよ。
しかし、一般的な心情とは無縁のダメダメな人が、よく使う言葉が「ふ・つ・う」なんだからタチが悪い。
と言うかギャグそのもの。

誰でも持っている一般的ものは、いわゆる「当たり前」とされて、そのことが話題になることは滅多にないし、その習得のための機関があったりするわけではない。
あまりに当然のことであるがゆえに、その習得のための特別な組織が存在しない・・・となると、以前にこのメールマガジンでは、「一般常識」というタイトルの文章を配信しております。
「お葬式で真っ赤な服装をしてはいけない。」なんて、本には書いていないでしょ?学校でも教えるものではないでしょ?そんなことは、自分たちの親から自然に習得するもの。
しかし、ダメダメ家庭の親は、その一般常識なんて大層なものはもともと持っていない。だから、そんな家庭で育った子供も「一般常識」がないのは当たり前のことでしょ?

知識でも、あまりに当たり前だと、習得の方法がない・・・
同じように、「人の気持ち」も、あまりに当たり前だと、習得の方法がない。
感情というものは教えられたり、意識して習得するものではないのは、言うまでもありませんが、かと言って一般の人の気持ちは、分かっていないと社会生活上面倒でしょ?

ダメダメ家庭は、機能不全の家庭といえます。だから、一般の家庭とは、家庭に関する考え方が違っている。政治とか宗教とかについての考え方の違いより、家庭そのものについての考え方が大きく違う・・・こんなことも当然のことですよね?
家庭の中や、家族の間は、一般の家庭においては、親愛の情を持っているものです。
このことは、学校で勉強したから持つようになったものでもなく、本で書いてあるから習得したわけでもないでしょ?あるいは、憲法に書いてあるから、家族のお互いが親愛の情を持っている・・・そんなものでもありませんよね?
一緒にいると楽しいし、安らげる・・・そんな時間の積み重ねから、それこそ自然にそんな感情を持ったわけでしょ?
しかし、ダメダメ家庭では、一緒にいると楽しいわけでもないし、安らげるわけでもない。むしろストレスがたまるだけ。そんな日々が積み重なったら、どうなるの?
事件が起こるかはケースバイケースでしょうが、少なくとも親愛の情なんて持ちようがないでしょ?

ダメダメ家庭出身者は、往々にして兄弟仲が悪い・・・このことは以前に配信しております。だって、一緒に過ごした時間が楽しいものではないんだから、兄弟が仲良くなんて行きませんよ。
同じように、自分の親に対する肉親の情なんて持ちようがないでしょ?
そもそも、肉親の情なんて、まずは親の側から持つものですよね?だって赤ちゃんなんて顕著な感情はありませんよ。まずは大人である親が親愛の感情を自分の子供に対して持つことになるもの。
一般的には、「わあ!かわいい!」とか、「いとしい!」とか・・・そして「守ってあげたい!」「幸せにしてあげたい!」なんて感情に進んでいく・・・そんなものでしょ?
そんな親の感情の中にいるから、子供だって、安心感を持ち、親からの愛情に応えるようになるわけでしょ?
お互い肉親の情もわいてきますよ。

やり取りの積み重ねがあり、自分と似ている面を肯定できるからこその肉親の情というものでしょ?やり取りの積み重ねそのものがなく、おまけに自分と似ている面を肯定していなかったら、肉親の情といっても、その個体に依存するものではなく、純粋に生物的なり法律的なマターになってしまいますよ。楽しいやり取りもない状況において、「情」を議論すること自体が「情」に対する冒涜じゃないの?
いったい、具体的に、どんな楽しいやり取りがあったの?

ダメダメ家庭の親は被害者意識が強く、子育てというものは親である自分が被った被害と捉えている。「子供を守ってあげたい!」とか「子供を幸せにしたい!」なんて思っていない。むしろ「コイツのせいで・・・ワタシは面倒なことに・・」なんて、子供を加害者認定している。
そんな環境の中で育っているので、子供の側も「親に迷惑を掛けられない」とストレス状態となる。そんなストレス状態の中で、子供としては、どうやって肉親の情なんて起こってくるの?
ダメダメ家庭では、「肉親の情」も、知識として習得することはあっても、実感としては、身につかない。
だって、親が子供に持っていないのだから、子供が持つのは無理ですよ。

結局は、それを自覚するしかない。
まあ、本人自身がなんとかそのような自覚に到達しても、一般社会では絶対に認知されませんよね?
だって、一般の人にしてみれば、「『肉親の情』がない家庭って、いったい何?」って思いますよ。
しかし、現実では、結構な確率で、そんな「肉親の情」が理解できない人もいるわけです。
だって、後になって習得することはできないわけですからね。
当人の努力では何ともならないんだから、現実的には、結構存在するわけです。
そして、周囲のマトモな人たちとの間で、常識の齟齬が発生し、苦悩することになる。

「家族は敵だ。」「家族に気を許すと、後々面倒なことになってしまう。」あるいは、「家族なんていても、いなくてもどっちも同じ。」という常識で育った人は、一般社会の中で気を許すと、自分の出身家庭の常識が出てしまう。
それこそ、知人の家族に不幸があっても、「へぇ・・・アナタのお父さんがお亡くなりになったの・・・ふーん・・・」と、気のない返事となってしまう。だって、どう答えていいのか、分らないので、そんな答えになっちゃうですね。
「たぶん・・・『お父さんがお亡くなりになったの?ヨカッタね!』とは言ってはいけないんだろうなぁ・・・しかし、じゃあ、どう言えばいいのかなぁ?」そんな感じで考え込んでしまう。
あるいは、自分の親がなくなっても、当人としてはむしろハッピーなこと。
そんな人の表情には、肉親が亡くなった憔悴の表情より、「はぁ〜、やっと片付いた!」と安堵の表情が浮かんでいる。と言うことで周囲の人間が怪訝に思うことに・・・
「なに?あのちょっとうれしそうな顔は?」

何もうれしそうな顔まではしなくても、愛する肉親の弔いというよりも、まさに廃棄物を法規に従って粛々と処理する趣になってしまう。だって、親近感の何もない物体を、処分するだから、そうなってしましますよ。
そんな姿は、別のところで取り上げておりますアルベール・カミュの「異邦人」で描かれております。

ダメダメ家庭で育ったことは、本人にはどうしようもないこと。
子供時代に、肉親の情を習得できなかった人は、終生、その面ではいびつな形になってしまうんですね。何回も書きますが、「肉親の情」なんて、大人になって「学ぶ」ものではないでしょ?それに学びようもないでしょ?
しかし、自己逃避で、自覚から逃避するダメダメ人間は、「ふつう」の人間になろうと、無理に習得しようとして、「自分の子供にすがる」ことになる。
『肉親の情』を子供から習得しようとすることになる。
それこそ、愛のないまま結婚し、子供を作って「子供によって、初めて愛というものを知ったわ!」と周囲に語る。
しかし、自分の親に対して「肉親の情」を教えなくてはならない子供の側はどうなるの?と言うか、その子供は誰から『肉親の情』を習得するの?

「ワタシは肉親の情なんて、無縁だ。」と割り切れば、まだ救いがあるわけですが、現実では、肉親の情を子供から習得しようとして、ますます「いびつ」な形になってしまうもの。
ダメダメ家庭の人間は、会話の能力がないので、結果として相手になってくれるのは、自分の子供だけになってしまう。どうしても、自分の子供にすがり付いてしまうんですね。しかし、すがられた子供も、会話の能力のない親からすがられて、ますます困惑するばかり。単に会話の能力がないだけでなく、「親を愛せよ!」「親に対して愛を教えなさい!」って厳命される始末。
しかし、そんなことを言っても、親の側は子供に対し愛情を持っていないことは最初に書いたとおり。子供としてはどうすればいいの?

肉親に対する感情なんてDNAの中に入っているものではありませんよ。DNAに入っていれば、その人の親だって持っていますよ。
ダメダメ家庭出身者で「自分の親の問題点」を頻繁に語る人もいますが、必死に語る親の問題点と同じようなことを当人自身もやっているケースも多いんですね。
肉親の情が分からないし、終生縁がないと覚悟を決めることは、つらいことですが、それをやらないと、もっと悪くなったりするわけです。実際にそんな人を、知っている方も多いのでは?

別のところでも書いていますが、愛とは相手を肯定すること。
しかし、肯定と二重否定は、一見は似ていても、その中身では大きく違っている。
自分の子供を肯定的に見ていることと、自分の子供しか相手になってくれないことは、肯定と二重否定の違いに対応しているでしょ?
子供しか相手になってくれないから、子供にまとわりついている状態は、肯定ではなく、二重否定であり、愛情ではなく、依存なんですね。
そんな状態だったら、子供だって、愛情とは無縁になってしまいますよ。

そんな家庭で育った子供が、高齢になって死去した自分の親を放置するような事件が起こったりすると、周囲の人から「昨今は、家族の間の愛情がなくなってきた・・・」とのお嘆きになったりするわけですが、そんな家庭には、もともと家族の間の愛情はなかったわけです。
二重否定的な依存とか、「他の人が相手になってくれない。」という二重否定的な関係性があっただけなんですね。
ただ、ボンクラな人は、二重否定と肯定の区別が付けられないし、
愛情と依存の区別も付けられない。
だから、「途中から愛情がなくなってしまった・・・」などと認識してしまう。
しかし、そんな家族の間には、愛情はもともとなかったわけです。

ダメダメ家庭出身の人間は、肉親の情というものが、そもそもが実感できない。だから、家族同士と言っても、家族とか肉親などという「あいまい」な概念から離れて、独立した個別の人間同士としてやり取りすることから再出発する・・・そうやって、真摯な会話を積み重ねていくしかないわけです。

困ったときは、まずは原点に立ち戻る。
これって、何事も同じなんですね。

(終了)
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発信後記

ダメダメ家庭においては、お互いが肉親の情など持っていない・・・そんな家族・・・
そのような『概念?』に、いささかシュールな気分になる方もいらっしゃるでしょうが、それが現実なんですね。そもそもの常識が違っているわけ。
逆に言うと、ダメダメ家庭の問題を、一般社会常識を元に議論しても、逆効果になる可能性が高いわけ。

なんでも熊本市での「赤ちゃんポスト」が話題になっているようですが・・・
あのようなことを考えた方々が、不幸な境遇にある罪のない赤ちゃんのために、懸命な試行錯誤をなさっておられることには敬意を表します。
しかし、あの発想は、一般社会常識を基にした発想であって、ダメダメ家庭の常識を基にした発想ではありません。

あの赤ちゃんポストは、赤ちゃんを「捨てる」ことに罪の意識を持つことを前提にした発想ですよね?
しかし、ダメダメ家庭の人間は、赤ちゃんを捨てることに罪の意識を持つとは必ずしも言えない。

たとえば、「捨てられた赤ちゃん」の親権はどうなるでしょうか?

捨てたのだから、当然のこととして親権は放棄したのだろ?と思うのは、一般社会常識の発想。しかし、ダメダメ家庭の発想だったら、そうとは限らない。
その赤ちゃんが、立派に育って、稼げるようになったら、「アイツはオレの子だ!ワタシが親だ!」って名乗り出てきたらどうするの?

冗談のようですが、可能性は結構あるんですね。
それこそ韓国では捨て子がアメリカ人に育てられて、オリンピックに出てメダルを取ったら、「オレが父親だ!」って人が、200人以上名乗り出てきたでしょ?

育てる面倒を回避して、収益だけは確保できるんだったら、オイシイ投資ですよ。
それこそ、赤ちゃんポストに毎年赤ちゃんを預けることだってしちゃいますよ。
だって、全然損はないでしょ?

赤ちゃんポストを利用することに、後ろめたい思いをすることは、残念ながら、ダメダメ家庭の人間には期待できないわけ。
せめて、あのポストを利用する際には、せめて親権放棄と、不妊手術を義務付けないと、とんでもないことになってしまう・・・

善意は善意でいいのですが、相手がどんな人間なのか?
どんな点をサポートする必要があるのか?
その点を考えることを避けて通ると、不幸な境遇の子供が増えるだけなんですね。
R.11/2/12